美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

2010藤沢野焼祭 8/7・8

2010-08-14 17:18:08 | レビュー/感想
今年初めて藤沢野焼祭を最後まで経験した。いつもは第1日目の夜9時頃には現地を離れていたが、今回は午後3時作品の窯入れに始まり、11時過ぎまで窯炊きをして、近くの町施設で1泊することになった。8時間ほどの俄陶芸家体験だが、日頃体を使うことが少ない軟弱の身には実にハードだった。炎天下35度を超す猛暑の中で端材を炊き続けていると、またたくまTシャツは汗でびっしょりになる。おそらく40度を超す温度の中での作業になっていただろう。体の老廃物が汗と共にすべて流れ落ちたような心地よさも感じた。窯炊きも終盤近くになって、リーダーの陶芸家本間伸一氏からこれではまだ不充分だから端材を炉の上に組んでどんどんくべるよう「指令」がでる。今まで露天の窯の廻りで燃えていた炎は、窯の上でパチパチという音を立てて大きな火炎となって燃え上がる。焚き火をした経験があるおそらく最後の世代に属するが、小学校の校庭にしつらえた14の窯から豪勢な炎が立ち上る様はそれとは迫力がまるで違う。翌朝早い人は5時頃から熾き火がくすぶっているのも構わず、窯出しをする。預かって窯入れをした作品は私のものも含め10中八九壊れていたが、この祭りの魅力や醍醐味は、作品の出来不出来で変わるものではなく、自ら土をこね、焼いて、灰の中から取り上げる一連の体験をして初めて分かるところにある。一方で、本間氏のように、穴窯による炎との格闘を年に何回も重ねて、何十年と作品づくりを続けている陶芸家という職業の凄さを思った。

藤沢野焼祭35周年記念展示 7/30~8/4 東北工業大学一番町ロビー

2010-08-12 16:03:54 | レビュー/感想
当ギャラリーが企画し、近年の藤沢野焼祭参加、受賞作品31点を東北工業大学一番町ロビーで展示した。藤沢野焼祭は岩手県藤沢町で35年続いた祭り。毎年平均千点の参加作品があったとしたら、地元を中心に3万を超える膨大な作品が蓄積されていると考えると、ここに展示できたのは実に微々たる数だが、普通の人が持っている底知れぬパワーを十分に感じられる展示になった思う。大きな作品を創るパワーだけに止まらない、奇跡的な出現であるような、造形的にも価値高い作品も見ることができた。

ここに掲載した写真に見る「六本脚の麒麟」は、最初中国古代の考古学遺物の写しであるかのように思っていた。しかし、後から聞くと全くのオリジナルなのだそうだ。頭から尻尾に至るまで見事なバランスとシンプルなボリューム感でありながら、地上に軽々と降り立ったような六本脚のユニークな造形は、一体どこから生まれてきたのだろう。作品は地元の若い大工の棟梁が中心になって創り上げたものだというが、魂の奥底に眠っている原初的な何かがふと聖獣の形となって現れ出てきたような按配である。

中学生が共同で創った「壺」も見事だ。ステレオタイプの装飾パターンではなく、本能そのままに盛り上げた口縁部の絡まりあった蛇状の造形に、ケルト文様に見られるような荒々しいエネルギーが自然に溢れ出ている。幼稚園児が作った「大好きなポチ」の像は、意識的な表現者が至り付くことがない聖なる無垢の輝きを放っている。「わらすっこ」は、知的障がい者の共同作品だが、ボリューム感溢れる素朴なフォルムに一本一本の藁を執拗に描き込んだ表面加工が存在感を増している。

そういえばかつてオルセー美術館で見たゴッホの自画像も近づいて見れば実に丁寧な線の集合で形作られていたことを思い出す。これらの「ナイブテ」は、時代やカテゴリーを超越した芸術の本質的な価値を物語っている。縄文土器にインスパイアされ、既成芸術の価値を覆す論陣を張った岡本太郎が、90年代、藤沢野焼祭となぜ関わりを持ったのか納得させられる展示であったと思う。岡本太郎が様々なレトリックで述べている、知的な技術教育に汚されてない人々がアプリオリに持っている芸術力の実証例を見た、ということだろう。

一方で90年代に3回にわたり審査委員長をつとめた池田満寿夫の野焼き作品も展示している。最後まで現代の自由な個のアーティストであることにこだわった池田満寿夫の作品は、エロティシズムを表現の核に、どこから見てもIkeda Masuo の全人格的センスを刻印した作品で、他の太古からの民衆的集合的無意識が巧まずに現れた匿名作品とは大いに違う。このようないわばプロとアマの作品が並列的に展示されるようなクロスオーバー展示は美術館では絶対にありえないことだと思う。最晩年に版画より偶然性がさらに強烈に(時には破壊的なまでに)刻印される陶芸に傾倒した池田満寿夫。もし今少し長生きできたなら、自我を超える体験から池田満寿夫はどのように変容していっただろうか。しかし、大成や成熟というような変容の姿が描けないところに池田満寿夫という現代の天才アーティストの魅力と限界があるように思える。

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