イエスは言われた。「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
イエスは答えて言われた。
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタイ伝16-15~18)
十二使徒のリーダー格であり、キリスト教団の柱石となったペテロ。
彼は初めからイエスに忠実であったかというと、
決してそうではなかった。
漁師であるペテロを使徒に召したのは、他ならぬイエスである。(マタイ伝5-19)
彼が進んで、イエスを師とした訳ではない。
イエスが人類の罪を贖わねばならないと告げた時、
つまり死なねばならないと告げられた時、
イエスの御心を解せず、それを制止しようとしたのもペテロである。
(マタイ伝16-23)
イエスが来るべき御国で支配の座に着く時、
その左右に侍りたいと嘆願したのもペテロ(とその母)である。
(マタイ伝20-20・21)
ペテロほど、イエスに対して誤解した者はないと思う。
しかも、それだけではない。
ペテロは三度、イエスを否定したのである。
生命を捨ててまでイエスに従いたいと勇んだペテロに、
イエスはこう告げられた。
「わたしのためにいのちも捨てる、と言うのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。
鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ伝13-38)
案の定、ペテロは三度イエスを否定した。
イエスが十字架の刑罰を受け、いまやその愛する師が死のうとする際、
実に使徒中の使徒であるペテロが、身の安全を考えてか、
イエスを「知らない!」と言ったのである。
すると、門番のはしためがペテロに、
「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。
ペテロは、「そんな者ではない」と言った。(ヨハネ伝18-17)
ペテロは三度イエスを否定した。
彼を誤解し、彼を拒否し、彼から逃げ、
今までイエスに愛されてきたのに、イエスを助けようともしなかったペテロ。
しかしそういうペテロであるからこそ、
使徒中の使徒に変貌することができたのである。
子は父に背いた分だけ、父に尽くすという。
同じように、人はイエスを否定した分だけ、イエスに忠実になることができる。
三度否定した分だけ、三度肯定することができる。(ヨハネ伝21-17)
使徒ペテロが然りである、使徒トマスも然りである。
イエスの復活をあくまで疑ったトマス。
イエスの傷跡に手を差し込まない限り、決して復活を信じないと公言したトマス。
(ヨハネ伝20-25)
そういうトマスだからこそ、彼は復活したイエスに出会って、
懐疑が信仰に転換したのである。(ヨハネ伝20-28)
イエスはトマスに言われた。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ伝20-27)
イエスは、信じる者を救い給うたように、
信じない者をも救い給う。
彼はもちろん、彼を信じる者を、必ず救い給う。
と同時に、彼を疑い、彼を否定し、彼を胡散臭いと思い、彼を罵詈する者から、
彼は忠実な使徒を起こし給う。
イエスを否定する者が、傷跡のあるイエスに出会う時(罪の贖い)、
最大の敵が最大の使徒に変わる時である。
と同時に、イエスを肯定する者が、傷跡のないイエスを公言する時、
すなわち、まるでイエスが死なれなかったかのように宣べ伝え、
まるでイエスを半神か半人に仕立て上げ、安易な自己満足に耽る時、
それは最大の反逆が行なわれる時である。
前者は最大の歓喜である、後者は最大の汚辱である。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、
すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
(コリント書Ⅰ2-2)
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シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです」
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イエスは答えて言われた。
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ハデスの門もそれには打ち勝てません」(マタイ伝16-15~18)
十二使徒のリーダー格であり、キリスト教団の柱石となったペテロ。
彼は初めからイエスに忠実であったかというと、
決してそうではなかった。
漁師であるペテロを使徒に召したのは、他ならぬイエスである。(マタイ伝5-19)
彼が進んで、イエスを師とした訳ではない。
イエスが人類の罪を贖わねばならないと告げた時、
つまり死なねばならないと告げられた時、
イエスの御心を解せず、それを制止しようとしたのもペテロである。
(マタイ伝16-23)
イエスが来るべき御国で支配の座に着く時、
その左右に侍りたいと嘆願したのもペテロ(とその母)である。
(マタイ伝20-20・21)
ペテロほど、イエスに対して誤解した者はないと思う。
しかも、それだけではない。
ペテロは三度、イエスを否定したのである。
生命を捨ててまでイエスに従いたいと勇んだペテロに、
イエスはこう告げられた。
「わたしのためにいのちも捨てる、と言うのですか。
まことに、まことに、あなたに告げます。
鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ伝13-38)
案の定、ペテロは三度イエスを否定した。
イエスが十字架の刑罰を受け、いまやその愛する師が死のうとする際、
実に使徒中の使徒であるペテロが、身の安全を考えてか、
イエスを「知らない!」と言ったのである。
すると、門番のはしためがペテロに、
「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」と言った。
ペテロは、「そんな者ではない」と言った。(ヨハネ伝18-17)
ペテロは三度イエスを否定した。
彼を誤解し、彼を拒否し、彼から逃げ、
今までイエスに愛されてきたのに、イエスを助けようともしなかったペテロ。
しかしそういうペテロであるからこそ、
使徒中の使徒に変貌することができたのである。
子は父に背いた分だけ、父に尽くすという。
同じように、人はイエスを否定した分だけ、イエスに忠実になることができる。
三度否定した分だけ、三度肯定することができる。(ヨハネ伝21-17)
使徒ペテロが然りである、使徒トマスも然りである。
イエスの復活をあくまで疑ったトマス。
イエスの傷跡に手を差し込まない限り、決して復活を信じないと公言したトマス。
(ヨハネ伝20-25)
そういうトマスだからこそ、彼は復活したイエスに出会って、
懐疑が信仰に転換したのである。(ヨハネ伝20-28)
イエスはトマスに言われた。
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ伝20-27)
イエスは、信じる者を救い給うたように、
信じない者をも救い給う。
彼はもちろん、彼を信じる者を、必ず救い給う。
と同時に、彼を疑い、彼を否定し、彼を胡散臭いと思い、彼を罵詈する者から、
彼は忠実な使徒を起こし給う。
イエスを否定する者が、傷跡のあるイエスに出会う時(罪の贖い)、
最大の敵が最大の使徒に変わる時である。
と同時に、イエスを肯定する者が、傷跡のないイエスを公言する時、
すなわち、まるでイエスが死なれなかったかのように宣べ伝え、
まるでイエスを半神か半人に仕立て上げ、安易な自己満足に耽る時、
それは最大の反逆が行なわれる時である。
前者は最大の歓喜である、後者は最大の汚辱である。
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、
すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
(コリント書Ⅰ2-2)
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