プロメテウスの政治経済コラム

プロメテウスは人間存在について深く洞察し、最高神ゼウスに逆らってまで人間に生きる知恵と技能を授けました。

ベト君、ドク君はいま・・・

2006-02-11 19:01:15 | トピックス
現在、東京都写真美術館で「ベトナム写真展」が開催されているようです。関西在住の私は残念ながら参加できませんが、元赤旗ハノイ駐在記者の木谷八士さんが「ベトナム写真展をみて サイゴン無血開放のこと」を書いています(「しんぶん赤旗」06.2.10付)。また藤本文朗・大阪健康福祉短期大学教授はハノイのベト君、ドク君を訪ねた訪問記を「しんぶん赤旗」(06・1.30付)に掲載しています。
南ベトナム政府上層部やその家族、残留アメリカ人らがサイゴンの沖合いに待機するアメリカ軍空母に向けて必死の脱出を続ける中、前日に就任したばかりのズオン・バン・ミン大統領が戦闘の終結と無条件降伏を宣言したのは、1975年4月30日のことでした。私は、日本に帰国した木谷さんから1975年5月1日付「ニャンザン」の一面紙面を見せて貰ったことがあります。紙面で踊る赤字の大活字は「やったぜ!」という意味だと木谷さんが、満面笑みで説明してくれたことを鮮明に覚えています。しかし、ベトナム戦争は、まだ終わってはいないのです。
茂みの中からの待ち伏せ攻撃に手こずったアメリカ軍は、化学毒薬ダイオキシンを含む枯葉剤の大量散布を行います。枯葉剤作戦を命じた司令官の息子の将校が被災し、帰国後、癌で死亡。この将校の息子、つまり司令官の孫も機能障害を持って生まれた、というダイオキシン悲劇。
現地ベトナムの数多い被災者(全国で500万人近くがダイオキシンの影響を被り、、枯葉剤の被害者は100万人以上といわれている)は、世代がかわっても、いまなお痛苦にあえいでいます。ベトナムの被災者は、米国で枯葉剤製造の米大企業を相手に補償をもとめる訴訟を現在も継続中です。
「ベトちゃんドクちゃん」で知られる二人は、ベトナム戦争が終わって6年後の1981年に枯葉剤の結果と思われる結合双生児として、生まれました。1988年にベト君が意識不明の重体となり、そのままでは2人とも命が危険なため、分離手術を決行されます。12時間を超える難手術に耐え、2人は無事に分離されました。
24歳になった弟のドク君は松葉杖を使ってですが、ホーチミン市のツーヅー産婦人科病院の事務職員として、また枯葉剤被害者の会やハンセン病友の会のボランティアとして元気に活動しているとのことです。ホーチミン市内では三輪バイクに乗り忙しい毎日を送っています。ベト君は寝たきりの生活が続いています。朝五時に目覚め、介助によって流動食を食べ、笑顔でシャワー浴びたり、オルゴールで気持ちよさそうに昼寝をするそうです。ツーヅー病院で手厚く介助され、夜九時に眠ります。ツーヅー病院平和村にはこのような障害児が六十数人入院し、介助を受けて生活しています。
アメリカ軍によるベトナムでの枯葉剤の散布は1961年に始まり、1971年まで続きました。解放勢力が潜むジャングルや田畑を枯れ果てさせ、潜伏も食料生産もできない死の大地にしていったのです。
アメリカ軍はいままたイラクで大量の「劣化ウラン弾」を投下しています。米・英軍は1991年の湾岸戦争で、新兵器の「劣化ウラン弾」を、イラク軍に対し初めて実戦で使いました。停戦成立から十数年たった今、退役米・英軍人やその家族、戦場となったイラクの軍人、市民らの間に放射線被曝(ばく)などによる健康障害が広がっています。アメリカ軍占領中のイラクで今後どのような悲劇が待ち受けているのか。私たちはアメリカの戦争犯罪を厳しく追及しなければなりません。自衛隊のイラクからの即時撤退をもとめる声をあげましょう

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