プロメテウスの政治経済コラム

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民意が政治に反映しない ポスト・デモクラシー状況を支える大衆意識と変革主体形成問題

2012-12-19 21:56:07 | 政治経済

戦後最低の投票率となった16日の衆院選は、自民党が定数(480)の六割を超える294議席を確保する圧勝で終わった。しかし小選挙区で自民党候補の名を書いたのは全有権者の約四分の一の24・67%、比例代表に至っては15・99%だった(投票した人の中では、小選挙区が43・01%。比例代表は27・62%。)。ところが、自民党が獲得した議席は小選挙区で定数の79%にあたる237議席、比例代表は、同31・67%の57議席だった。日本の選挙制度は、全国民の民意を公正に代表する選挙制度となっていない。小選挙区で落選候補に投じられ、有権者の投票行動が議席獲得に結びつかなかった「死票」は、全300小選挙区の合計で約3730万票に上った。小選挙区候補の全得票に占める「死票率」は56.0%で、前回の46.3%と比べ9.7ポイント増となった。民意をゆがめる小選挙区制を廃止し、選挙制度を抜本改革するのは待ったなしの課題である。


また、その中で見過ごせないのは、選挙を前後した巨大メディアの報道姿勢である。日本ジャーナリスト会議は8日の緊急アピールでマスメディアの今回の選挙報道を、「民主党と自民・公明、それに『第3極』と称するいくつかの保守政党をベースに選挙を描き出している」「すぐに政権に関わらない政党は意味がないかのような『政権の枠組み』報道に終始」していると指摘。加えて「自らによる世論調査で、『勝ち馬』意識を煽(あお)るバンドワゴン効果(「バンドワゴン」とは行列の先頭の楽隊車のことであり、ある選択が多数に受け入れられている、流行しているという情報が流れることで、その選択への支持が一層強くなることを指す)を広げようとしている」と世論誘導を批判した。

 

しかし、これらのことを除いても、若干不思議と言えば不思議なことが起きた。
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年前の政権交代は、自民党的政治に我慢できなくなって民主党に期待を託して起こった。しかし、民主党は結局、支配階級とマスコミの圧力で何も変わらず、自民党的政治を行った。自民党的政治を行った民主党に激しく怒り、失望したから、民主党は得票率を小選挙区で47.43%から22.81%と24.6%近く、比例代表でも42.41%から16.03%と26.4%近くも減らしたのだ。しかし、この減った分の票は、自民党的政治の本家であるに自民党に若干と、あとは主にその自民党に輪をかけて過激な維新の会とみんなの党に回った。自民党的政治にうんざりしているなら非自民的政策の政党に投票すればいいと思うのだが、そうはならない。自民、維新、みんなの党は軒並みそろって、新自由主義的構造改革推進派であり、消費税増税、法人税減税、社会保障を削減しまくる庶民に冷たい政策の党である。原発だって自民、維新は推進、みんなは脱原発を謳っているが「直ちにゼロ」ではないので再稼働OKだ。庶民の望む政策を、財源も示して明確に掲げている政党はちゃんとあるのに、そういう政党は伸びておらず、政党支持率に近いと言われる比例順位を見れば自民、維新が1位、2位である。つまり、国民多数の感情、意識は、自民党的つまり支配階級の意識なのだ

 

現在、民意が政治に反映しないという現象は、日本にかぎらず、ポスト・デモクラシー状況と呼ばれる先進国共通の状況となっている。一定の民主的な選挙もあり、政権交代もあり、「民主化」,つまりデモクラシーが進展しているように見えるが、グローバル企業の隆盛や,政府や政党と企業との進化した癒着の形態によってデモクラシーが形骸化させられ、形式的、制度的な外見とはかけはなれて、もはやデモクラシーとは言えない状況が生じているのだ。政党はいくつもあるけれど、政権についた政党は結局、格差・貧困の拡大や福祉の空洞化、市場原理主義政策へ回帰していく。現代の資本主義の特徴である多国籍企業の利益代表と政府の交渉で政治がつくられ、政治エリートが大衆を管理、操作する。選挙は見世物的なゲームとなり、そしてこの見世物的な選挙ゲームの裏で,選出された政府と,徹底して企業の利益を代表するエリートたちの相互交渉によってひそかに政治は形成されるのである.

 

多くの人びとが民意が政治に反映しないというフラストレーションを持ちながら、真の社会変革に向かう民意がなかなか形成されないのは何故か。竹中平蔵の相似形のような橋下徹、猪瀬直樹のような連中がなぜ人気を博するのか。なぜ、政権についた政党は結局、格差・貧困の拡大や福祉の空洞化、市場原理主義政策へ回帰していくのか。それを導くイデオロギーは各国とも新自由主義である。新自由主義とは、競争、利潤が社会を動かす動力であり、それが社会に活力をもたらすと考える、本来は、ブルジョアジーの思想である。ところが、このブルジョアジーの自立、自己責任の生活原理が、プロレタリアートの生活原理にもなってしまっているのだ。

新自由主義は竹中平蔵氏や犬竹文雄氏、八代尚宏氏、鈴本亘氏などの「どこから見ても骨の髄まで新自由主義者」だけではなく、資本主義社会の日常生活で生存競争に曝され続けてきたが故に所与の価値観としてそれを疑問視できない人びと(庶民)のものでもある。新自由主義の浸透は、生活保護受給者に対する昨今の嵐のようなバッシングとも深くかかわっている。「福祉は本当に困っている人を助けるためのものである」とか「働けるのだったら福祉に頼らずに働けばいい」という意見は、真面目すぎるほど真面目な日本人が共通に具有している価値観ではないか。それが「骨の髄まで新白由圭義者」や安倍、石原、橋下らを調子づかせている原因ではないか。

 

マルクスとエンゲルスは、唯物論的な歴史観の基礎を明らかにしようとした『ドイツ・イデオロギー』のなかで、社会における支配的思想について「支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である。すなわち、社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である」。このような支配階級の支配的思想は、むきだしの立場を出さずに、必ず価値中立形態をとるので、それを暴くためには特別な闘争が要る、としている。その時代の目に見える現実は、社会の現象形態である。その奥底にある本質とその発展方向をつかむためには、社会科学的展望をつかむことが必須である。とりわけ、マスメディアが日常的に支配的階級の諸思想を注入することに躍起となっている先進国において、変革主体を形成するためには、イデオロギー闘争が、階級闘争における主要分野となる。「真の対決軸がどこにあるのかを、国民のみなさんに訴えます」と言った日本共産党は、前回参院選とほとんど変わらない支持しか得ることができなかった。イデオロギー闘争という階級闘争の主要分野で、新しい地平を開くことができなかったからである。選挙制度の歪みやマスコミの誤導だけのせいにできない変革主体形成問題に真剣に取り組まなければ、また同じ過ちを繰り返すだろう

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