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第161話 「四季と暦」



北海道の先住民族アイヌは文字というものを持たなかった。だから残されている文献はなくすべて口承による言い伝えである。多分彼らにとって情報の文字による伝達手段は必要がなかったのだろう。

今朝、久しぶりに青くくっきりとした日高山脈を見た。大気が冷えないと見せない光景で、朝晩ぐっと冷え込むようになったからだろう。遠い昔の十勝を思い起すナ。
8月末から9月はじめは秋のキノコが一斉に出るときだ。町内会の行事に「キノコ汁を出そう!」となり三役揃い、意気揚々と例年わたしの採っているところへ向かう。途中何処の川も渇水でカラカラ状態、「こりゃ―駄目かも」。
案の定いつものカラマツ林に目的のキノコはなかった。次の場所もその次も、わずかに、ふだんあまり採らないキノコは出ているものの肝心のタマゴタケやナラタケは皆無。原因を推察するに今年台風の上陸はいまのところ一度もなく、雨も8月に入って極端に少ない。いつもはジメジメしている林の中もかさかさで、キノコの気配そのものがない。
わたしの持つデータは、独活の食べごろは5月の中ごろから蕨は―と、すべて暦での記憶である。
こんな時頻繁に言われるは地球温暖化。ここ数年その月日に出かけても大きすぎたり、まだ全然小さかったりと大方外れが多いく、かつてとは違い十勝は温かくなったと思うこともしばしばで、そのひとつに森の下草の成長が極めて早いことである。
森や林のなかは、木々の茂る葉に日光が遮られ限られた植物以外は繁殖しにくい環境なのだ。なのにここ数年目に見えて、私のお気に入りの山野では小笹をはじめ雑草がひろく繁茂しどんどん林内に広がり、これは温暖化なのか―と思わせるのだ。学者とは違う素人のわたしには正確にはわからないが…。
アイヌ民族は「フクジュソウの咲くころイトウの遡上がはじまり、アヤメが咲くとサクラマスが昇ってくる。」と、生き物の生きる根元は種の存続であるとすれば、すべて自然界の盛衰にそって生きるすべを身に付けていたのかもしれない。要するに野生に逆らうことなく生きたわけだ。過の古代文明が華やかなときを巨大な遺構と文字により伝承しているのに比べ、私には、アイヌ文化が実につつましく見える。豊かな大地故に、部族を統一して栄華を―との野心が生まれなかったのか!?もしくは繁栄に到る過程に私たちが割って入ったのか。

泰平の世で、欲を除くと何不住なく生きる私には分かるはずもないが、この大地と共に生きようとするはしくれは、「気温は下がり雨が続く、よ~しキノコだ」。とはなかなかならず、また今日も暦を眺め老いゆく脳内の蓄積された情報を探っている。

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