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第130話 「ロックアウト」


故郷で地方新聞社の記者、カメラマンと<社会人になったら―>の夢が叶ったのはとても幸運だった。口ばっかりで何も知らない私に、いまに到る戸口へ導いていただいたのは、出会った多くの人のおかげである。どっぷりとぬるま湯につかっていた学生時代からいきなり、“社会の裏表を客観的に見る世界”に飛び込んだのだ。

そのころ田舎でも、国立大学の学生がデモ行進を頻繁にしていた。街のど真ん中で夕方から始まったデモ、「暗くなりそろそろ逮捕者が出る」と、その瞬間を捉えようとわたしは身構えていた。そのとき、駆けつけてきた察廻りの記者が他社に聞かれないように耳打ちする、「駅構内で国鉄職員が決起した―」。
急いで駅の機関庫へ向かうと、全身藍色の制服に身を包み帽子の上から赤い鉢巻きをした青年たちが、職務を放棄して蒸気機関車の前で気勢を上げている。そして、慣れない手つきで背丈ほどある車輪をハンマーで叩きながら点検する上司を取り囲み、「もっとしっかりやれ―」と罵声を浴びせ掛ける。小さな街灯しかない暗い機関庫、声のする方へ向けてカメラのシャッターを押す。ストロボがピカッピカッと光り、フイルムに焼き付ける場面場面が暗闇の中で浮き立った。
事件現場に、真っ先に駆け付けなければならない報道カメラマンという職を、感受性高い青年期に体験できたのも恵まれていたことと感謝している。

「オイ!お前の母校でロックアウトだ!!高校の封鎖は前代未聞、すぐに行け―」

編集長が、社に戻ったわたしの顔を見るなり叫ぶ。わたしは、ロックアウトがどういうものかもよくわかっていなかった。が、あわてて記者と一緒に向う車中で先輩の記者は「ストに対抗して経営側が立ち入りを拒み閉鎖するのさ…」。
この事件のおかげで、わたしは卒業後初めて母校の門をくぐった。
なつかしい事務室は内側からカギがかけられていて、社名を告げ入室、事務長に取材する記者、わたしは“どんな写真にするか”思案する。と、バタバタと廊下を走ってくる足音が―そして、廊下側の鍵のかかっている窓をガタガタと激しく揺さぶって外し、「学校長を出せぇ―校長出てこい!!」と、身を乗り出さんばかりに顔を出したのは教わった先生たちだった。正直驚いた。あの優しかった先生やクラブ顧問の顔も見える。皆鬼の形相で、ちらっとわたしを見てまたすぐ事務長に向い喚き散らしている。今もはっきりその光景は甦る。いまこの歳になり解るような、それでいて悲しいような気持ちだ。
しかし、“そのあとどうなったのか”は、ほとんど思い出さない。

 新聞社も、出資者たちとの軋轢が繰り返され労働組合が出来る。入社して2年が経った時、印刷会社から企画部門立ち上げの要請を受け退社、数年後その新聞社はなくなる。

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第129話 「はなしにはならなかった話」


最初見つけたときは“もしや”と思ったのだが…遂に―。

クソッ!それは三連休の初日のこと、車が脇道に一台そして次の脇道にもと、わたしのお気に入りの松林に頭を突っ込み停まっている、仕方なくその先へ車を走らせた。

小高くなったところによさそうな林を見つけた。
古い取付
道は、腰まであるヨモギやイラクサが塞ぐように茂っている。草薮を抜けると道は急な上りになっていて、長雨で轍あとのむきでた土がズルズルしている。<乗用車は無理か>しかし、入り口に車を停めておくと<また、きのこ狩の目印になる!!>と無理やり突っ込んだが、拍子抜けするほど難なく林の中の土場跡に出た。
ジープを手放してからというもの、チョットしたところでも気を使う。まあ―、わずかな距離だから歩けばいいのだが、荷物があって重たい胴長靴を履いている時はしんどいが、ここ数年乗用車になってかなりの運動量にはなっている、と思っている。
車を降り、ふと足もとに目を落したときである。わぁおぉぉ―、思わず声が漏れた。顔を近づけじっくり観察する。三本がぴたりと身を寄せているものに手を伸ばし、指三本でそっと摘み少し左右に揺さぶって抜く。身がしっかりして、根本に行くほど太くなった真っ白な柄に肌色のひだ、半開きの薄ねずみ色のかさ、間違いなくホンシメジだ。
あぁぁ、あわてて採り残しているシメジのそばにいま採ったものを置き写真を撮る。珍しいものや姿のいいものを見つけたときは“採る前に撮る”と、いつも思っているのに―。
ホンシメジは、おおむかし幼菌を見かけたことはあった。が、まともなのは今回が初めて。しばし感激に浸る。ほどなくして籠は、ナラタケ、ハタケシメジでにいっぱいになった。9月初旬とは比べ物にならない、自然とは正直で朝晩の気温が急速に下がったおかげだ。
こころ浮きうきでの帰り道、噛んでいたガムをゴミ袋に入れ、パンを食べようとサロペットの胸ポケットに入れた筈の部分入れ歯を探るが―ない!!<林を歩いたときだナ。誰も他人の入れ歯なんか見向きもしない。帰ってからゆっくり行動を振り返ってみよう。少しでも早くホンシメジを女房に見せて食べるのが先>。
その夜、ホンシメジの天ぷら(実に美味かった)で一杯やりながら「お父さんは落した物を必ず拾いもどすんでしょ」と抜かし、大笑いする女房。明日は、わたしのプライドをかけた大探索決行だ。<汗ばむ陽気で、サロペットの肩ひもを外し股引を脱いだあそこしかない!!>

車輪跡を辿り、草丈15㎝ほどの下草を丹念に探す。と、踏み固めたように草が寝ている。
ここだ!掌で丁寧に草をなぜおこしていると、尖った金属のようなものが引っかかる感覚が指先にあった。かき分けると下草の緑のなかから、入れ歯台座の合金が陽光を受けてピカピカと光り、濃いピンクのブラの歯肉にまばらに埋められた6本の歯が、“ほら見ろ”と言わんばかりに誇らしげに現れ、それがわたしには笑っているように見えた。

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第128話 「それはわたしにとって!?」


「丸くなったねェ―、角が取れた」と、言われるようになったのは60代の頃からか。

家族は、「ずいぶんやさしくなった―」、女房は「仏様になったようだ―」と。でもそれって、<わたしにとってはどうなんだろう?>と、ときどき考える。

もともとすごい我がままで、思い通りにいかないとムカッ腹が立って治まらなかった。身内だとなおさらで、誰彼かまわず八つ当たりする。分かっていても抑えられず、そのことで“相手がどれだけ傷つくか”など考えることもなかった。
ところがここ数年、カッと、こころの内から沸き出す激しいあの怒りが、どんどん薄れていくのが自分でもわかるのだ、実に不思議なことである。
考えられる原因はある。ひとつは、色々と覚えておくということができなくなり、すぐに忘れることである。例えば、嫌味たらしいことを言われ反対されても片っ端からどこかへ飛んで、“記憶にとどめておくことができないのではないのか? ”ということ。
もう一つは、言い返そうと思っていてもすぐに言葉がでない。何と言おうかと言葉を探すうちにどうでもよくなり、少し経つとほとんど忘れてしまうことである。また腹が立たないと、<こんな風に思っていたのか?気が付かなかったな>と、相手のことを思う気持ちが湧く、するとなおのこといじる言葉が出ないのだ。
まあ、善いのか悪いのかはわからないが、いまは、わたしのこころのなかも周りもとても穏やかな空気が漂っている。
ただ困っていることもある。それは朝のトイレ。
かつて、子供たちがいたとき家族は6人、トイレに入っていると必ず誰かが「早くしてェー」と叫ぶ。すると最中のわたしは激昂、「隣のばぁちゃんとこへいけぇ―」と、それですべてが解決した。
しかし今は違う、2人しかいないのに…。もともとトイレの長いわたしは、齢とともに“出そうでなかなか出ない”ことが多い、そんなときまた考えて仕舞うのだ。
<あっ、女房奴我慢して待っているんでないか>と、するといま出そうだったのが引っ込む。医者は「力んだら駄目だ!」と云うので、時が来るのをゆっくり待ちたいのに渋々トイレを出る。そんなときは何とも気分がすぐれない。
しばらくしてまた入るのだが、ドアの外でばたばた足音がするとまた<あいつまたしたくなったのか―>と…。

やさしくなったことが“善いことなのか―”わたしにはよくわからない。場面的には、複雑な心境に陥ることのほうがいまは多い。

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第127話 「闘争」


昭和20年代生まれのわたしは戦争を知らないが、戦後の民主化政策による自由主義思想が浸透しデモなど争議行為を、労働者や学生が盛んに起していたのを身近に感じながら育った時代だった。

通っていた写真専門校は、多くの大学や専門学校が集まるお茶の水にあった。学生たちのデモ行進で、主要道路は時折封鎖。朝、駅の改札を出ると催涙ガスの匂いが漂っていたこともあった。
被ったヘルメットのあご紐に、薄汚れた手拭いをとおした若者が、拡声器のマイクを握りアジを飛ばしているが歩道埋めつくす往来の若者たちは見向きもしない。
そこへ学ラン姿の4,5人の男たちが現れ、怒号をあげて演説する男を囲み激しい問答がはじまると、カラフルな服装の若者たちの人垣ができ輪になってそれを取り囲む。
「てめぇら見せものじゃねェ―」、取巻く若者を押し返す学生服の男たち。キャーと叫びながら列が乱れるが、男たちがもとの場所へ戻ると人垣もまたもとの輪になる。わたしの目には、舞い降りたカラスが色づく落ち葉を蹴散らし餌をついばむ風景に見えた。
憧れる高名な写真家講師の授業で、「常に課題の題材として見る」の教えから、わたしはそのなかに交じることなく冷ややかだった。“格好だけだった”と思うけど。
また学校から、デモの撮影は禁じられていた。機動隊はデモ隊、一般学生との区別なく制圧し、逮捕者が出ると学校も巻き込まれるからである。しかし一度だけ、同級の友達に「撮影に行ってみよう」と誘われまきこまれたことがあった。
100人ほどの学生が道いっぱいにジグザグ行進するのを、すでに封鎖された通りに潜り込み、少し高くなったビルの入り口から見ていた。
「そこに立つな。行け、いけぇー」、どこからともなく現れた機動隊員は誰彼かまわず足蹴りにし、デモ隊と一緒に道路の中央にどんどん追い込んでいく。もみくちゃで身動きが取れず、必死に集団の動きに合わせ漂うしかない。成績優秀な友は、交換レンズの入ったカメラバックを、一眼レフカメラを首から下げ格好だけで両手が開いているわたしに持たせて、機動性の悪い二眼レフを逆さにして頭上にかかげ撮影を試みている。
わたしは、もまれて引っ張られるバックを必死に引き寄せ、小脇にかかえようとした。すると、「レンズ、レンズ落ちましたょぉー」と、ヘルメット姿の若者が、身動き取れないなか上半身をひねって振り向きざまにレンズを手渡し、人波にのまれて行った。

わたしは随分長い間、そのときの爽やかな彼の笑顔が理解できなかった。

いまは、<闘争こそ、唯一彼が自分を取り戻すときだった>と、おもっている。若者が、正面切って生きることができた、人間臭い心豊かな時代だったのかもしれない。

 

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