ドクダミダイスキ

新聞、著書で勉強しています。「60にして耳順う」。バカにつける薬があるかしら?

雑想ー『冷蔵庫に鍵と新ハムレット』

2014-09-14 15:39:29 | 日記
[イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』~〈あとがきー末期の一票〉]からであります。
【どこの国でも現実の背後に「たてまえ」があり、その「たてまえ」と「現実」とには誤差がある。
従って現実が同じでも「たてまえ」の方向は全く逆で、「現実」を「たてまえ」に近づけていけば、日本と全く正反対になる場合もあって不思議でない。
ハムレットの最後の台詞(せりふ)は「余もまた末期の一票を投じよう」である。
王政では父が死ねば子が位を継ぐ、これが当時の現実である。しかし「たてまえ」としては、あくまでも《王は選挙で選出されたのである》から、あの台詞が出てくる。
一方、日本では逆で、秀吉はあくまで実力で関白になったのであって、家柄のゆえ関白の位を受け継いだのではない。しかし秀吉は、「たてまえ」としては、関白の位を受け継いでいる。
それでも「関白は/位によると/聞きつるに/金にてなるは/これぞ金箔」という落首が記されたことは、「たてまえ」の主張であって、家系によらず実力でなったものは、関白とは認められない、金箔だということであろう。
一方は、実際には家系でありながら、あくまでも選挙という「たてまえ」をとる。
一方は、実際には実力でありながら、あくまでも家系という「たてまえ」をとる。
こういう例はいくらでもあって、現われ出た目前の現実が日本と酷似していても、「たてまえ」の方向は全く正反対という場合は決して少なくない。・・・・・・
日本では当然とされる筋をたどって一つの「たてまえ」を想定し、その「たてまえ」と現実との相関関係を勝手に想定して、対象を理解し得たと思ってはならない。
「インド人は徳川時代の日本同様に牛肉を食べない」と言えば誤りであることは、理解してくれるであろう。
一方インド人は、神聖なるが故、一方日本人は、けがれているが故。・・・
同じことは、西郷の殉教と西洋の殉教者にも、アメリカ的合理主義と日本的合理主義にも言える。目前の現象は酷似しているが、それが寄ってくる方向はまったく違うのである。合理化のための一つの機械の採用ですらそうなのだ。
例えばナショナル金銭登録機いわゆる「レジ」である。アメリカのセールスマンだったら、「これは、人間を正直にする機械です」と言うだろう。つまり、彼等キリスト教徒は、人は罪深く、誘惑に負けやすいものであるという前提で「われらを誘惑に会わせずに、罪より救いたまえ」と日々祈ってきた民族である。これを人間関係者に当てはめれば、「人が誘惑にかられやすい環境を作ることは悪」なのである。
ところが、この考え方は日本では、まるで逆である。一言で言えば、「人が、人にあらぬ嫌疑をかけ、相手を傷つけ、人間としてまことに嫌な状態にならぬため」なのだ。
「レジ」を備え、売上げの搾取を防いでいるのは、日本もアメリカも同じであるが、そこに至る「たてまえ」の方向は逆である。
宣教師のところを訪ねたら、『冷蔵庫に鍵』がかかっていたので、キリスト教に減滅を感じた日本人を私は知っている。だが、これは、幻滅を感ずる方に誤解がある。
また自然保護といっても、ドイツ人なら「自然に整形美容の手術」を加える行き方であり、日本人なら、「人間が自然に保護される」行き方である。
こんなことを書いたのは、お互いに交われば相互に理解できる、と単純に考えている日本人が余りにも多いからである。これからは益々話し合う機会は多くなるが、それが相互理解に通ずるなどとは、絶対に安直に考えてはならない。もしそうなら、ユダヤ人はもう2千年も、西欧人と肩を触れ合って生きてきているのである。】
[イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』]は、本日で終了になりました。まことに有り難うございました。
私の勉強には、40年のブランクがあります。この40年間は、働き詰めで、やっと最近、読書に目覚めたばかりでありまして、とてもとても、外国のものなど手に付けられません。あの超有名なシェークスピアの『ハムレット』でさえ、読んだことありません。そこで太宰治の『新ハムレット』を読み直してみました。
再読してみて、改めて太宰治の言葉の多さに感心しました。よくこれほどまで、人間の感情を表現できるものだと感嘆を新たにしました。ところで、この太宰治の『新ハムレット』の最後の言葉は、
「信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ちつづける。」
でありました。えらく違う文章となっていました。
失礼致しました。ご機嫌よう。さようなら。
本日の産経新聞で、昭和天皇の子供の時の母親への手紙でも、最後に、「ごきげんよう」と書いてある写真が載っていました。

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