飛耳長目樹明

写真付きで日記や趣味を書く

原発地鎮祭と神主の責任

2011-08-30 18:56:07 | 日記
 20年か30年前に、原子力発電所の設置の際の地鎮祭のニュースを記憶している。
 これは福島の原発だった。

 わたしは自然を尊重する神主が、おかしなことをするものだ思った。

 地鎮祭は、天神地祇のうちの地祇(または地霊)に家屋の建設を報告し、許可を求める儀式である。
 もともと明治維新までは、修験の仕事だったようで、般若心経を誦んで、地祇(地霊)を怒りを抑えたのである。

 これが神仏分離で神主の仕事となり、祝詞をあげるようになったのだ。

 神社の周りには、鎮守の森がある。鎮守と云うのは、その土地の地祇(地霊)を祀り、その土地の守護を依頼しているのである。

 上記の福島原発の地鎮祭のことを、神主の資格を持っている知人に話したことがある。
 知人の実家は神社だが、兄上が神社を継いでおられた。ところが収入源で、依頼される結婚式も地鎮祭を引き受けても、生活ができない。そこでとうとう鎮守の森を全部伐採されたそうだ。

 しかし地鎮祭をやっても、効き目があるわけではない。台風も来るし、最近災害で小河川の氾濫もある。建設会社の手抜きもある。
 その上、今回のような大地震大津波があると、地祇(地霊)も、鯰には勝てない。

 だから地鎮祭も気安め程度だが、かっては最高裁がこれは社会の習俗だから、公共事業で神主に金を払っても、憲法には違反しないと云う判決を出した。まるでイスラム教の国みたいだった。

 話が脱線したが、自然を破壊する原発と、自然を尊重する神主との取り合わせがおかしかった。

 ところで神主の祝詞に拘わらず、原発はメルトダウンし、今なお放射能を撒き散らしている。

 地祇(地霊)は無力だったし、神主の祝詞も役に立たなかった。
 
 あの神主さんは、今、どうしているだろうか。詐欺ではないか。

 先年、木曽の御岳周辺の王滝村で、大地震が起こり、大きな被害が出た。御岳信仰の盛んな地域だが、以後御岳信仰は、弱体化した。

 わたしは、宗教はすべて妄想だと思っている。よく見て気休めだ。
 地球の動きにはまったく無力だ。
 もう止めた方がいい。

 先日も、天変地異に遭わない祈祷法かなんかを勧める人の訪問があった。家々を回っているらしい。まだ若い女性である。小中高校での理科教育はどうなっているのか。

 宗教の廃止が最善だ。そんなことにお金を使うより、原発なんかに騙されないように、科学的知識を普及した方がいい。
  
 もう地鎮祭なんかやめた方がいいと云うのがわたしの意見である。

 ついでに言っておくと、原発推進を進めてきた公明党・創価学会は、今回の原発事故にどう反省しているのか。日蓮上人も無力だったのか。












西郷隆盛「遣韓論」は終わった

2011-08-28 08:04:42 | 日記
 毛利敏彦氏の西郷隆盛「遣韓論」は、史料根拠の薄い議論だったが、西郷ファンに受けて、持て囃されてきた。

 しかし『鹿児島県史』のなかに、西郷が立案を命じた征韓計画の資料が収録されていた。
 鹿児島県史の編集委員たちは、とっくに知っていたのだ。



林有造の回想。広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」のうち、第六「近衛兵ノ瓦解ト征韓兵ノ部隊竝ニ西郷、板垣二氏ノ戦略」 『土佐群書集成 第二十八巻』(謄写版印刷 高知市立市民図書館 一九七二年)、『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)
「一、桐野少将ハ征韓ノ兵員ハ十大隊ヲ以テセバ充分ナリト云フ、又韓国ノ視察ヲ了ヘ帰朝シタル別府少佐ハ、二三個中隊ノ兵員ニテ足レリト壮語スト云フ、然ルニ西郷氏ハ一切ノ戦略ヲ挙ケテ板垣伊地知二氏ニ委スルノ考ヘナリキ、何トナラハ二氏ハ東奥ノ戦役ニ於テ其将才ノ凡ナラサルヲ顕ハシタルヨリ、深ク之ヲ信スル処アリト云フ、而シテ諸氏等屡々太政官ニ於テ征韓ノ戦略ヲ立テ、互ニ之ヲ論議セルニ方リ、西郷氏ハ先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀ニ出テバ、恰カモ嚢口ヲ括シテ物ヲ探ルカ如ク、韓廷遂ニ北クルニ途ナカラント、副島氏之ニ賛成シタルモ、板垣氏ハ之ヲ否トシ、蒙昧韓国ノ如キヲ対手トスル戦闘ニアリテハ、先ツ其君主ヲ擒ニスルヲ主眼トスルノ必要ナルハ、亦タ貴説ト見ル処ヲ一ニス、然レトモ其戦略トシテハ、北方ヨリ南下シ、之ニ依テ全然敵ヲシテ遁路ナカラシメントスルハ、難事に属ス、故ニ兎ニ角兵ヲ釜山ニ上陸セシムヘシ、然ラハ事ニ迂ナル韓人ハ、必ス全力ヲ釜山ニ尽クシテ、我軍ヲ撃破セン事ヲ努メ可シ、此時ニ当リ我ハ全軍ノ三分ノ一ヲ釜山ニ残シ、三分ノ二ハ海上直チニ之ヲ江華湾方面ニ送リテ、突如京城ニ肉薄シ、其間ニ於テ更ニ釜山軍ヲモ海路平壌ニ送致シ、以テ敵ノ退路ヲ塞カハ其成功スヘキヤ疑フヘカラスト、西郷氏素ヨリ板垣氏ノ将才ヲ推スヲ以テ、敢テ争ハス、伊地知氏ハ又少シク其規模ヲ大ニシ大兵ヲ用ヒシ事ヲ要トシタルト云フニ、西郷氏ノ決心、己レ韓国ノ土ト化シタル暁ハ政府ハ堂々征韓ノ軍ヲ派遣スヘク、其進軍ノ戦略ニ就テハ、一ニ板垣、伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ヘ秘洩シアリト云フ、」


 次は、鹿児島県出身の左院副議長伊地知正治の記録である。
 かれは西郷の委嘱を受けて、朝鮮半島を調査し、また豊臣秀吉の朝鮮侵略、清国の朝鮮征服も研究して、朝鮮国王の拿捕作戦を構想した。

西郷隆盛宛伊地知正治書簡 明治六年十二月一日(吉田常吉編『史談会速記録』第二十五輯附録、市来四郎談話、五~一六ページ)
一八九四年(明治二十七)九月二十二日に市来が述べたもので、次の小節が関係部分である。
○西郷隆盛使節の大任に当らんと請ひ朝鮮の無礼を謝せしめ征韓を唱へざりし事
○朝鮮国我が大使に不敬の挙あれは同氏曲を鳴らし征討の意なりし事
○同氏より久光公に呈せし朝鮮国との交際に係る意見書
○同氏は維新の大業意外に速成し其殺気を外に漏らすの意なりし事
○同氏は朝鮮の無礼を責め国威を海外に輝かし東洋の平和を保つ意なりし事
○同氏掛冠帰県の節発布ありし詔勅
○同氏の陸軍大将故の如く参議及近衛都督を免せられし達
○同氏は秀吉の天下を定め後征韓殺気を外に洩らしたる策を歴史に鑑み東洋平和の論を立てし事
○三条公も同氏は唯大使派遣を請ひしと述べられし事
○西郷は征韓に係る一切の調査を伊地知正治に依嘱せし事
○伊地知より同氏に送りし征韓一切に係る調査書
○調査書の大要は絵図、物産、運輸、弾薬、兵糧等にて兵数は四万なりし事
 次が伊地知の書簡である。(十一ページ以下、復刻版三六一ページ以下)
「其時は早目の御出立にて爾後御安康大慶奉存候、朝鮮歴史は其節直に外務省へ返納致候間、其首尾申上候、今更申上るも無益の様には候へとも彼歴史と畧絵図と征韓偉畧と明清史と比較左の通り御坐候、
 東西百五十里南北四五十里、大凡我奥羽二国を合せし位(略)
 人口五百万位(略)
 兵員乱世の末二十二万八千(略)
 水田陸田五十万結(略)」
 ついで文禄の役の京城、平壌占領日数を挙げている。
 「文禄の役渡(陸軍十三万、海軍九千二百)四月十三日小西行長浦山海に着船し即日浦山城を攻落し十四日取金海府云々
 五月二日行長取京城
 浦山の戦より都合二十日に中る
 是より後ち軍義不一決、且孤なるを以て行長進軍遅々
 六月十二日取平城(平壌)
  浦山の後より六十日に中る」
 ついで一転して清(満洲女真族の後金)の朝鮮占領をあげる。
 「天聴元年(一六二七年・日本兼寛永四・丁卯)正月十四日鴨緑江を越て義州城を攻落し廿二日安州を取る、廿六日平城(平壌)を取る、二月五日黄州を取る
 三月三日朝鮮王降和なり
  義州初戦より五十日に中る
 同再度征初戦より十一日に中る」
 ヌルハチの甥アミンが朝鮮に侵入、明を支援していた朝鮮軍を破り服属させた。丁卯胡乱である。
 一六三六年(崇徳元・寛永十三・丙子)ヌルハチの第八子ホンタイジが即位し、国号を大清を改めた。ところが朝鮮はホンタイジの皇帝即位を認めないことを表明したので、ホンタイジは朝鮮に親征して、再び討ち(丙子胡乱)、朝鮮と明の冊封関係を絶つことに成功し、朝鮮を清の冊封国とした。
「崇徳元年十二月十二日平壌を攻落す
 十四日進て取平壌
 前に当月二日清、章高服に命し三百の兵を授けて偽て商人の姿にて昼夜兼行朝鮮王の京城を囲ましめ、引続て親王壱人、将軍壱人に壱千の兵を授て継進せしめしもの。四日鮮兵六千を攻破て王城に至る、鮮王詐計を出し遅れ、四十里(四里位)の路迫打して遂に朝鮮王を南漢城を云へる所にて攻囲む、廿五日清帝自南漢城の攻手を加ゆる
 二年正月二日朝鮮諸道より来会するの援兵を打破る、同十三日朝鮮王降伏の掛合始る
 同廿九日朝鮮王清帝の陣門に来て降を乞ふ
 初戦より四十八日に中る(あたる)」
 次に伊地知は文禄の役の苦戦と清軍の短期戦での圧倒的勝利とを比較した。
「右に依て比較すれば文録(禄)度の征鮮は清人より一層速なりとす、然れとも征討の功否懸隔するものあるは何そや、我は百戦の練兵と雖も海外の征討は初戦なり、況んや朝鮮を極寒の地と誤視す、故に夏四月に到て討征を始めたり、之朝鮮の寒気北越奥羽に甲乙無きを知らさるにや
 而鮮人諸道にて遁るゝも往々山に入り従て出て我が行軍線を妨く(これは山岳地帯のゲリラ的抵抗を指すらしい)
 清人の征鮮は十二月正月に有る。故に鮮人雪に障られ、山在(岳か)に出入する事を得す、兵は海道の暗きを以て百里外の浦山より入る。彼奔逃するに便なり、清人は元来地勢の便なると雖も、彼偽て商人隊を造り不意にをかし入策を見れは、唯朝鮮王遁れて海外に至る、或は加勢の来んことを慮る、深しと云ふべし
 我当日(明治五六年)の兵鋒を以て二念なく打入らは、明軍実は恐るゝに足らず、而て当時(文録(禄)役を云)の人々は明は大国大軍なりと聞き懼れて退避の勢を免れず、遂に七年の久しきに至る、所謂小西の請和説事を誤るのみに非るや」
「今案彼の国を征するや海陸兵四万を用ゆへし、半は進撃手とし、半は要所の守とす、
  康季漬の征鮮五万を用ゆ、衆寡の用を知ると云へし
  鮮人の武備を探知するに我の征銃は「ミニヘール」にて適当すへし、征兵は新募(戊辰実践兵の外新兵を云)にて宜かるへし、然る後ち魯西亜を戦ふに当て堂々たる常備兵(常備兵は露と戦ふに充るの意)先生方(西郷等を云)に御次渡申歟、又は斜打七連の良銃を申受て我々(伊地知自身を云)兵気を一振して決戦せんか先は、朝鮮征伐の夢咄しかた/\荒々如斯御坐候敬白
  酉十二月 明治六年癸酉
          伊地知正治
   西郷吉之助様
 尚本文は朝鮮一条に取調一小冊(保存す)と成し居候得共先つ大略のみに御坐候 終り」

 後者の文書は諸星氏の発見である。 
 諸星秀俊「明治六年「征韓論」における軍事構想 」(特集 日本陸軍とアジア)(『軍事史学』45巻1号 通号177号 2009年6月 43~62ページ)

 これでもろもろの遣韓論の妄想は、消滅するだろう。




 




江華島事件がひっくり返った

2011-08-28 05:42:22 | 日記
 江華島事件はやはり日本の挑発謀略だった。

 「雲揚」艦長井上良馨の第一報告書が発見されたのだ。

 今までのは改訂報告書だけ。

 亀掛川博正氏が、「江華島事件と「日本側挑発説」批判」(軍事史学会『軍事史学』38巻1号 通号 149号 2002年6月 47~61ページ)で、従来の挑発説、謀略説を批判された。
 ところがその半年後に、新発見の第一報告書が紹介された。

 鈴木淳「史料紹介 「雲揚」艦長井上良馨の明治八年九月二十九日付け江華島事件報告書」(史学会『史学雑誌』111巻12号 2002年12月 63~73ページ)

 史料は防衛省の防衛図書館所蔵。
 これで亀掛川説は破綻し、日本側挑発説、謀略説が定説となった。

 劇的な反転である。鈴木淳氏に拍手を送りたい。







「歴史」がなかなか進歩しない

2011-08-28 05:04:39 | 日記
 
 新史料が発見されたり、新学説が提唱されても、それが世間に広まるのは何十年も経ってからだ。

 植崎九八郎とかいう旗本(幕府小不審組)が、田沼失脚後に田沼がひどかったと云う意見書を出したのが田沼悪玉説の根拠だった。
 新政権は松平定信は中心だ。
 たった8年で、定信が老中を辞めると、今度は定信は田沼以上にひどかったと云う意見書を出した。
 前政権の悪口を言って、新政権に取り入ろうとする魂胆だ。そこで植崎は捕まえられ、揚屋(旗本らの牢屋)に入れられた。

 田沼意次の評価が改まったのは、1960年代だが、世間に定着するのは、山本周五郎『栄花物語』と池波正太郎『剣客商売』の小説と映画化、テレビドラマ化の御蔭である。

 学者の力より、小説家の力の方が偉大なのだ。


 戦国時代についても新説がどんどん提唱されている。

 長篠の戦 
   織田軍の鉄炮が3000挺だったというのは嘘だ。
     池田家所蔵の信長公記には、千挺とある右横に、かっこして「三」を異筆の書き入れがある。軍談師のほら話が流行し、だれかが書きいれたのだ。
   武田軍も相当の鉄炮を持っており、また騎馬隊はいなかった。
     当時の馬は小さくて、体重60キロ、鎧兜40キロの武者を乗せると走れなかった。よたよた歩いていたのだ。

 ところが小説でもテレビでも、まだ旧説でやっている。

 浅野内匠頭の辞世は別人の作である。
    「風誘う、花よりもなお我はまた・・・・」

  数年前の「遥泉院の陰謀」は新説を取り入れていた。
  NHKはまだだ。

 脚本家の質が落ちている。とくにNHKの女性脚本家がひどい。原子力安全院とともに全員解雇した方が、日本の文明の発展にプラスだ。

 マスコミ(新聞記者とテレビの記者)の質も落ちているのだ。
 小説家の質も落ちている。

 山本周五郎や池波正太郎のように勉強してほしい。
 かっては三田村鳶魚という江戸通がいて、時代小説を片っ端からやっつけていた。
 藤沢周平は、三田村鳶魚全集を全巻買ってから小説を書き始めた。
 ところがNHKの女性脚本家は、藤沢の小説を無茶苦茶にしてしまった。

 「その時歴史が動いた」という番組には、『その時歴史が動かなかった』と云う本さえ出ている。

 各テレビは、関係者が歴史を知らないから監修の先生のいうことを良く聞く。 
 ところがNHKはまったく聞かないらしい。監修は名前だけらしい。

 質のいい小説やテレビドラマを望む

 余談
 聖徳太子はいなかったと云う説が、学界を席巻している。
 聖徳太子抜きの蘇我王朝説でテレビドラマを作ってほしい。

 韓国の歴史ドラマはどんどん遡っている。
 首露王、近仇首王、広開土王・・・・・・
 
 ぜひぜひ






危険なスローガン「がんばろう日本」

2011-08-27 04:57:53 | 日記
 1945年5月、わたしの街の海岸沿いにあった海軍の軍事工場が、米軍の爆撃で全滅した。勤務していた20歳の叔母は、爆弾の中を逃げまどい、防空壕に入るとそこも被弾し、多くの将兵と職員が死んだという。貯蔵されていた石油が燃えて、黒煙があがり、午後3時と云うのに、深夜のようだった。
 夕方、恐怖に震え、泣きながら叔母は帰ってきた。
 
 祖父は、孫たちの疎開を決断した(父は外地)。母と、わたし(国民学校2年生)を頭とする四人の子供は、山道を辿って、20キロ先の村に逃げた。
 バスといってもガソリンがなく、木炭バスだったが、峠を越える時は乗客が押していた。ダイヤも乱れていて、歩いた方が確実だったらしい。
 我が家には、その村に遠い親戚があった。その親戚の斡旋で、農家の離れを借りたのだ。こういうのを縁故疎開と云う。


 我が家は疎開したが、市も学校も集団疎開をなかなか決断しなかった。

 むしろ本土決戦に備えて、竹槍訓練に余念がなかった。

 先生は毎日言っていた。皮を切らせて肉を斬る、肉を斬らせて骨を斬る。今は肉を斬られて痛いが、あと一息だ。上陸してくる連合軍を波打ち際で撃滅し、一挙にワシントンを占領するのだ。わたしたちは興奮して、「神州不滅」を確信した。
 「一億一心、火の玉だ」

 上陸してくる連合軍を、どのように波打ち際で撃滅するのか。
 向こうは機関銃、自動小銃、火炎放射器。こちらは竹槍一本で、150メートルが200メートル疾駆し、「一人一殺」で敵を倒すのだ。当時のわたしに身長は1.15メートル。戦後進駐してきた連合軍の将兵(わが街は米軍と英連邦軍が占領)を見て、とても倒せないと思った。先方は1.7ないし1.8メートルあった。

 さて我が家では母と子供は疎開したが、友達は一部しか疎開しなかった。
 
 しかしみんな集団疎開の指示を待っていた。田舎に親戚のない家々は、市や学校の指示や斡旋を待っていた。

 この年2月中旬、天皇は「もう一度戦果を挙げてから」と重臣たちの講和の勧めを拒否した。そして3月10日の東京大空襲を皮きりに都市空襲が本格化した。

 天皇は沖縄決戦に賭けていたのだろう。3月末から米軍は沖縄に来襲し、ついに6月には占領した。

 天皇はまだもたもたしていた。
 2月のヤルタ会談の情報は入らなかったのか。
 7月中旬のポッダム会議の情報も入らなかったのか。
 原子爆弾実験の方は入ったらしい。

 領土は明治初年の「固有の領土」に戻ることは覚悟していた。満洲も朝鮮も放棄する。沖縄も放棄する(沖縄は日本でなかったのだ)。樺太も放棄する。千島も南部だけでいい。
 ただ「国体」だけは保障してほしい。
 こういう講和方針である。

 結局天皇の決断が遅れたのだ。
 民間人の死者のほとんどは、2月以後の死者である。それまではサイパン島の1万人だけである。
 民間の死者のほとんどは「国体護持」の犠牲である。
 「国体護持」より「国民護持」を天皇は考えなかったのだろうか。
 これは支配者としては落第だ。「国体護持」なんて、もはや私利私欲ではないか。

 わが街は7月下旬に空襲で潰滅した。もっと天皇の決断が速かったら、全員助かったのだ。
 市の指示を待って疎開しなかった市街地は潰滅した。わたしの国民学校も全焼した。
 多くの市民と子供たちが死んだ。
 わたしは疎開先から、花火大会のような焼夷弾爆撃を見ていた。一発から36発あるいは48発の爆弾が飛散するのだ。

 市は県の指示を待っていた。県は政府の指示を待っていた。
 政府は・・・・・国体護持交渉の成り行きを待っていた。

 国民は「一億一心、火の玉だ」の標語を信じ、竹槍訓練と消火訓練に精一杯だった。

 今から考えると、逃げた方が良かったのだ。
 祖父の決断は正しかった。祖父は町内会長で在郷軍人会の副会長(日露戦争の金鵄勲章授与が自慢だった)だったが、子供だけは逃した。
 御蔭で4兄弟は命拾いしたが、2歳半の末弟だけは、9月に栄養失調で死んだ。

 「がんばろうニッポン」

 わたしに言わせれば、これは欺瞞的なスローガンだ。「本土決戦」と同じだ。

 今は頑張る時ではない。逃げる時だ。

 関東大震災の時は、北海道移民があった。朝鮮や台湾もあった(満洲はまだ占領していない)。アメリカは排日法で難しかったが、南米があった。

 今は未開拓の広野はない。
 
 しかしそれでも逃げるべきだ。

 おととい、栃木県か茨城県で、市民・町民への説明会のニュースがあった。放射能は怖くない、服をはたけばいい、呼吸しなければいい、雨の時は屋内にいたらいいという説明である。嘘ばっかりだ。
 しかし子供を持つ母親が「今日の説明を聞いて安心しました」と喜んでいた。何と云うことだ。原発を信じた人びとが、またこんないい加減な説明を信じつつある。

 体の異常は20年か30年後にやってくるのだ。
 「安全」を宣伝する役人か学者は、たいてい中年の男たちである。かれらはもういいのだ。今の子供が大人になって体に異常が起こった時には、もう死んでいるのだろう。

 女性の説明も信じるべきではない。もう子供を産むつもりのない中年女性の発言は、すべて信用できない。
 
 チェルノブイリのことをもっと知るべきだ。避難命令、広範な地域の無人化にもかかわらず、病気が襲ってきている。
 そしてソ連は崩壊した。

 頑張らないで逃げよう。
 年寄りは残ってもいいが、子供を産むつもりの女性と子どたちだけは、関東以西、できれば西日本に逃げるべきだ。
 
 福島県(とくに浜通り)は長期無人化するほかはないのだ。

 わたしは、福島の農産物水産物は、いくらでも食べようと思う。
 老い先短いから、放射線が少々入っていても構わない。
 牛肉など吉野家くらいでしか食べていないから、ぜひ食べたい。

 老人は犠牲になっても構わないが、若い人たちは頑張らないで新天地を見つけてほしい。
 政府を信じないこと、県や市町村を信じないことだ。
 「安全」という役人や学者を信じないことだ。

 経済が大事だと云って、「原発護持」「経済護持」をいう経済人、学者、マスコミを信じないことだ。
 むしろ既得権益にあぐらをかいている連中を一掃できる大チャンスだ。
 
 経済なんて、また復興すればいいのだ。関東大震災、第二次大戦からの復興を考えたらいい。
  第二次大戦でも、軍人、財閥、華族、寄生地主を一掃できた。(ただ役人と検事・判事を一掃できなかった。)

 いまケーブルテレビで、わたしは森繁の社長物を楽しんでいるが、出発点は「三等重役」である。「三等重役」のいいかげんだが、若いエネルギーが、戦後復興を成し遂げたのだ。

 今でいえば、経団連の爺さんたちを一掃する大チャンスだ。天下りする役人たちを一掃できるできる大チャンスなのだ。
  (経済産業省と原子力安全院のキャリア組は全員解雇していい。退職金もなしだ)

 「子供護持」「妊婦護持」をいう学者だけを支持することだ。

 繰り返すが「がんばろう日本」は、犯罪的なスローガンである。
 これで、電力会社、経産省、原子力安全院は責任逃れをしている。
 マスコミも責任逃れだ。
  
  広島原爆の数百発分と云う政府発表を、どうしてテレビは報じないのか、共同通信=東京新聞以外の大新聞は載せないのか。

 マスコミんはもう信じることができない。

 早く逃げよう。