近頃、描写方法の限界を感じる。それは執筆の限界とは異なる。今描いているものが、どうやら現状あまり気乗りしていないということだ。
  今描いているものは、現実に即した描写を用いつつ、度々幻めいた描写へと進む形をとっているのだが「現実に即した」という面が足を引っ張る。
  回想形式で初めと終わりは同じ時間軸にしたとして、その間を描く方式にしようと考えているのだが、さて悩ませるのはそれを語る意味だ。妙ちくりんな世界を描くだけなら気が楽だが、土台はある一つのものを愛することに違いなく(それが必ずしも人である必要を僕は感じないのだ)、それが人であるとすれば、なぜそんな赤の他人を語る必要があるのか悩む。これが現実に近い舞台設定ほど、重要な意味を成しているように思えてならない。
  いわゆる白樺派なら自分を描くことそれ自体に意味を求めれば良いわけで、そうしていた時期もあったが、今はもう少しこだわりを持ちたいところだ。
  例えば「旅行中の出来事」等の特別な時間軸の話であれば、そこで起こる物語に意味を定めていくのは容易に思うが、自宅での生活というのは概ね同じような日々が続くせいか、描きにくさを感じる。部分々々の抜粋をするという方法もあるが、そうすると各抜粋をする意味を考える必要が生じるように思う。そこが、語る意味に繋がるわけで、どうにも無意味な気がしてくるのだ。惰性でだらだら続けているだけのような展開となっては、描いていても、読んでいても飽きてくる。
  となるとテーマ性は同じようにした上でやはり架空の世界観の方が構築しやすいようにも思える。幸い、前回書いた『骸骨の絵描き』というやつは今後の指針を示してくれているように思う。とりあえず、一先ず考えついたものはあるので、それを試してみよう。短編集としてまとめるのは少なくとも来年になるだろうな。
  今描いているものは、現実に即した描写を用いつつ、度々幻めいた描写へと進む形をとっているのだが「現実に即した」という面が足を引っ張る。
  回想形式で初めと終わりは同じ時間軸にしたとして、その間を描く方式にしようと考えているのだが、さて悩ませるのはそれを語る意味だ。妙ちくりんな世界を描くだけなら気が楽だが、土台はある一つのものを愛することに違いなく(それが必ずしも人である必要を僕は感じないのだ)、それが人であるとすれば、なぜそんな赤の他人を語る必要があるのか悩む。これが現実に近い舞台設定ほど、重要な意味を成しているように思えてならない。
  いわゆる白樺派なら自分を描くことそれ自体に意味を求めれば良いわけで、そうしていた時期もあったが、今はもう少しこだわりを持ちたいところだ。
  例えば「旅行中の出来事」等の特別な時間軸の話であれば、そこで起こる物語に意味を定めていくのは容易に思うが、自宅での生活というのは概ね同じような日々が続くせいか、描きにくさを感じる。部分々々の抜粋をするという方法もあるが、そうすると各抜粋をする意味を考える必要が生じるように思う。そこが、語る意味に繋がるわけで、どうにも無意味な気がしてくるのだ。惰性でだらだら続けているだけのような展開となっては、描いていても、読んでいても飽きてくる。
  となるとテーマ性は同じようにした上でやはり架空の世界観の方が構築しやすいようにも思える。幸い、前回書いた『骸骨の絵描き』というやつは今後の指針を示してくれているように思う。とりあえず、一先ず考えついたものはあるので、それを試してみよう。短編集としてまとめるのは少なくとも来年になるだろうな。