思考ダダ漏れ

なんとなく書こう

あちらこちら

2017-04-08 22:45:12 | 日常
  小説の中に度々竹林を登場させているのだが、僕が竹林を初めて見たのは大学に入ってからだ。地元で見た記憶がないのだが、恐らく生えないのだろう。よく生えているのは、白樺やポプラの木だった。銀杏なんかも馴染み深いものだった。小学校の校庭には大きな一本の銀杏が生えていた。時期が来れば、黄色い葉を散らし、その上の青空に鯨のような雲が流れていたものだった。小さい頃からよく空を見ていたものだ。ずっと上の空かもしれない。
  竹林のあの薄暗さは面白い。『藪の中』の舞台を想像しやすくなった。確かに薄暗いものなんだな。また、そこに降り積もった竹の葉なんかを想像するのも良い。何年分ぐらい溜まっているのだろう。そんな想像が残酷に思えてならない。それを描きたいから用いるんだろうな。
  あと地元と異なるのは、家々の屋根だ。あえて、言い方を悪くすると、黒光りしてなんだか壁に張り付いてそうな色をしてるよな。ああ、これは本当に悪い言い方だな。どうにも屋根の色が重くてね。母が言うには、こちらの人はできるだけ瓦屋根にするらしい。それが一つの文化なんだとさ。貧乏になってでも見栄を張る文化なんだよ、というのはネットで見たことがある。どうなんだろうな。当たっているような、当たっていないような、ただ、僕が言いたいのは料理に金箔かけるよりも、抜いた分安くした方が良いだろう?  金箔なんて無味なんだし、と思うんだが、やっぱり無いと違うのかね。
  あと訛りの強い人は怖いね。なんだか高圧的に聞こえる。関西圏の雰囲気なんだろうけど、どうにも馴染めないね。面白いのは、標準語と訛りを使い分けている人がいることかな。学生にも多いんじゃないかなぁ。会話する相手で切り替わるのか?  多分、無意識に変わるんだろうなぁ。わいもこてこての北陸弁を披露したるさかいに、ああ、これは関西?  分からんなぁ。わやだな。なまら難しいんとちゃいまっか?

純文学

2017-04-08 20:30:36 | 日常
  純文学は金にならない。それは昔からそうらしい。それでも、出版社が請け負っているのは喜ばしいことだろう。ただ、中には大衆文学こそ素晴らしいものだと考える作家もいるらしい。確かに出版社の経営を維持しているし、愉快なものを作り出すのは難しいのだろう。
  それでもって、K子.S先生が言うには、今、純文学作家は少ないそうだ。良い言い方をすれば枠が空いているということらしい。その枠を狙ってみるのも悪くない、という話をした。大衆文学作家の稼いだ金のおかげで純文学が生き延びる。それはそれでいいものだね。  彼らは大衆を、流行なんか考えて、受けの平均値を考えればいい。僕は僕で、生とか死とか、中二病なんて言葉で表されてしまうことをじっくりと考えられるわけだな。中二病か。元々の意味は自虐的に使うものだったらしいんだがね。いつの間にか、軽蔑する為に使われているような気がする。しかし、さ。生と死を考えることぐらい楽しいことはないだろう?  いや、もし、君が色々な媒体の娯楽に信仰心を得られるなら別なんだろうけどな。でも、神なんていないぜ?  結局、信じられる者も信じられない者も自分だけなんじゃないか、と思うな。そんな冷めた奴らには純文学が必要なんだろう。少しぐらいね。

私小説

2017-04-08 17:13:11 | 日常
  最近学んだこと。
  大正文学は人道主義的コードを捉えよう。人道主義的コードとは、小説家が人格者として慕われる時期があったというもの?  その代表者が志賀直哉で、志賀は当時執筆していなかった。
  それなら何故人格者と呼ばれたかというと、金銭欲に駆られなかったから、だそうだ。第一次世界大戦後の日本では沢山の出版雑誌があって、金を得るために沢山書いていた作家もいるらしい。その金を得るために小説を書くこと自体が俗悪と思われていたそうだ。
  面白いのは、その多数の小説家が居る中で、自分の情報を晒し「私」の商品価値を高めていた、というのが安藤宏氏の私小説論らしい。確かに凄まじい事実というのは、分かりやすく記憶できるものだろうな。文芸雑誌によっては、芥川龍之介の使っているものや一日の生活リズムなんか載せているものもあるぐらいだし、小説家好きからすれば堪らない情報を、作家自身も載せていたわけだ。商売上は、ということなんだろう。創作者は、自身が褒められる以上に、作品を褒めてもらいたいものだと、僕は思うね。そういえば、芥川龍之介の『歯車』には自身のファンが現れるが、確か「私」はそのファンを嫌がっていたな。
  佐藤春夫の『厭世家の誕生日』にも金の話は出てきてたな。あいつがあんなに貰ってるなら、もう少し高くしよう、みたいな話が出てきたはずだ。金目当てではないが、小説の価値を定めるのにやっぱり金銭は逃れられないんだろうね。でも、あの作品はその金銭に囚われる生活に対して否定的だったような気がする、いや、出鱈目を書いた。読み直してみるか。
  改めて『檸檬』はいいものだと思ったよ。

ガンジス河

2017-04-08 13:17:24 | 断片・詩・構想・屑

巨大な河に身を任せ
何処まで行けるか試してみよう
死体だらけの川面から
母の身体に還るまで

飛翔する魂の分散は
この街の喉を潤す
犬共が喰らう肉塊に
ぼろ切れも黄金もない

太陽になびく
サリーの極彩色
女達は美醜を知らず
死者の魂を弔う

行き過ぎた混沌は無に等しいか
荒れ果てた街の太陽は無情か
活気づく人々の群れを見下ろす
鳶の眼に映る死者の山

名前

2017-04-08 06:41:02 | 日常
  名前の話。結構人の名前って忘れてしまうね。S藤君は幸雄?  由紀夫?  そもそも「ゆきお」だっけか。I上君は彰だろう?  だってテレビで見たことあるぜ?  おっとそれはイニシャルで隠せなくなるか。まあいいか。未だに中学以来の友人の名前が分からないな。裕太か祐介だったような気がするけど、よく彼の母が「ゆうちゃん」と呼んでいたから、多分そのどっちかに違いない。
  僕の名前は当時の水泳選手から取られたものらしいのだが、元々父が「龍之介」にするつもりだった。いや、僕が聞いた限りそう聞いたよ?  嘘だと思うだろうけどさ。縁起はどちらかと言えば悪そうだしね。まあなんとなく格好いいぐらいのつもりだったんだろう。父親はほら、官能小説ぐらいしか読まないものだからね。「二人のお姉さん」だったかな。そんなのを父の部屋で見つけたよ。面白いのは、父の部屋にあるカバー付きの小説は全部官能小説なのな。そんな面白いのかね。俺の鬱血したテポ×ンに注がれたウラニウムが……どうも官能小説は向いていないらしい。それにミサイルに例えるとしても、500円ガシャポンのF18についているやつぐらいだよ。いや、それもよく分からんね。西洋画の天使の絵を思い浮かべてごらん。それは天使に悪いか?  紛いなりにも一応クリスチャンだからいいだろう?  まあ、あの小さな天使についてる可愛らしいやつさ。あれを黒くして可愛げを無くしたやつだな。そこだけどうも黒人の血が混ざっているらしいんだ。ああ、下品な上にブラックだね。寝てないせいってことで。
  それで名前の話か。名前から運が決まるものなのかは分からないけど、なんらかの報道で名前が出てくると妙に目立つね。多分、目立つせいで、なんだか不思議な名前の人って死にやすいのかねえと考えるのだろうな。そう名前で変わらないだろう。「愛」や「貞美」の男性もいるけど、文学研究者だしね。いや、光宙と並べちゃ失礼だ。
  自分の名前に似ているものって何か惹かれたりしないかい?  不思議な縁を感じるというのかね。たとえば、僕ならその「龍之介」に妙に愕然としたものだけど、「龍之介君」なんて呼ばれたら笑うな。いや、ほんとに今の名前で良かった。もし、「龍之介」が文学部に入ってきたら笑うだろうな。あいつ龍之介らしいぜ?  勝手に女たらしと言われたり、睡眠薬を渡されたり、そんな嫌がらせを受けるかもしれない。それでまた「文」なんて居たら大変だ。無理矢理付き合わされかねないぞ。
  そんなことは置いておこう。実際、大抵は苗字で呼び合うし、大体は「君」で済むからね。ほとんど関係ないことだろう。とはいえ、さすがに中学以来の友人の名前を知らないというのは、少し問題か。「ゆうちゃん」って呼んでやるか?  勘弁勘弁。