中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

父と子

2019-03-19 | 《たおやかな風景》奈良新聞連載エッセイ

 「お父さんに怒られる」、2016年リオ五輪、亡き父親との約束、4連覇を賭けて戦った決勝で敗れた瞬間、吉田沙保里はこう言って号泣した。自宅には22畳のマットがあった。そこで彼女は3歳から年中休み無しで父のスパルタ指導を受けたという。そして病弱だった女の子は、いつしか霊長類最強女子と謳われるまでに成長した。
 吉田沙保里が現役引退を発表した。気持ちの良い会見だったが、ことに父親への深い信頼と尊敬の念に満ちた言葉が印象的だった。

 子どもと向き合う中で、父親の大きな役目は、子どもの壁でい続けることではないだろうか。子どもはその壁を乗り越えようと成長する。しかし、その壁は幾つになって越えることができない。それは、子どもに越えられたことを、父親が認めないからかもしれない。それでいいのだと思う。子どもだって、本当は自分より小さい父親を見たくない。父親はいつまでも自分の前に立ちはだかる大きな壁であって欲しいのだから。

 ふとモーツァルト父子のことを思い出した。
 3歳のモーツァルトの中に並外れた才能を見出した父・レオポルトは、息子を一流の音楽家に育て上げることが自分の天命だと信じ、自身のキャリアや生活を犠牲にし、息子の教育とプロデュースに全力を注いだ。そして、歴史上比類ない作曲家として開花させたのだ。
 レオポルトは息子の才能に磨きをかけ、宮廷社会に売り出すために、今ならようやく小学1年生という息子を連れて、欧州中を旅させた。
 音楽はもちろんのこと、読み書きそろばん、しつけにいたるまで、子育ての全てを父親が引き受けていた。父親の存在は絶対で、その指示や方針に盲目的に従っていたモーツァルトであったが、成長するにつれ、次第に父親に反発するようになる。そして成長してからは、長い間父親と物理的な距離を置いていた。
 モーツァルトが31歳の年にレオポルトが67歳で亡くなった。しかしモーツァルトは、幼いころあれほど密な関係を築いた父親の葬儀に出席しなかったばかりか、お墓にも参らなかったという。それほどまでに父親を憎んでいたのだろうか。いや、心の支えであった父親がいなくなってしまった現実を認めたくなかった、私にはそう思えてならない。
 アイネ・クライネ・ナハトムジーク、三大交響曲と称される39番、40番、41(ジュピター)、オペラ『魔笛』、レクイエムなど、代表作と言われるこれらの名曲は、父親が死んでからモーツァルトが35歳で亡くなるまでの数年間に作曲されている。
「お父さんに怒られる」、無我夢中で作曲する息子の姿を思ってしまう。 

  私は人生でただ一度だけ父に怒られたことがある。中学三年生の夏休み、深夜に家を抜け出して、友だちらと町外れの道を歩き回った。夜が明けるまでに家に帰れば親には気づかれないだろう、そう思って帰宅すると、門の前に父が立っていた。夜じゅう、私を探し回っていたという。頭ごなしに怒鳴られた私は、口も利かず部屋に閉じこもった。
 お昼近くになって起きてくると、食卓の上に手紙が置いてあった。

「怜子へ。言い過ぎた、悪かった。お父さん」

 人生で初めて娘を叱った父は、自分から娘に謝った。悪いのは明らかに娘なのに。
結局、一睡もしないで父は仕事に出かけたのだった。
 父は亡くなったが、私は、これからもずっと、父の大きな背中を見上げながら生きる。

(新聞掲載日 2019年1月25日)

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ヤマトタケルと白鳥と鏡餅 | トップ | お弁当と日本人 »
最新の画像もっと見る