中橋怜子の 言の葉ノート

自然、人、モノ、そして音楽…
かけがえのない、たおやかな風景を
言の葉に込めて

自殺三話

2015-05-28 | 徒然なるままに
今日、ずっと忘れていたある出来事が突然蘇ってきた。
何かとお騒がせ女の私であるが、このお騒がせを越えるお騒がせはまだない。
JRがまだ国鉄と呼ばれていたころ、私が女子大生だったころの話である。

1時間に1~2本しか電車が通らないローカル電車の単線線路、電車が通過したばかりだからしばらくは来ないだろうと思い込んだ私は、家への近道であるその線路を歩いたのだ。
すると間も無く背後から電車の警笛が聞こえてきた。逆方向からの電車が来る可能性があることなど私の頭には全くなかった。

単線なので逃げ場がない!
仕方がないので私は線路脇の土手に必死で這い上がった。
そして急こう配の土手の上でふらふらしながら電車が通過するのを待っていた。ところが、電車は通過せず私の目の前でものすごいブレーキ音を立てて止まったのだ。
なんと私は飛び込み自殺をすると勘違いされたのだ。

「只今、人身事故のため…」などという車内放送が流れたのだろう。窓という窓から乗客の大注目!そのことがあまりにも恥ずかし過ぎて、こっぴどく叱られたことなど全く覚えていない。

さて、笑えないのが実際の自殺者の数。
二年連続して減少していた過労などの「仕事疲れ」による自殺者が昨年は増加に転じたという。
景気上向きと自殺者の増加、専門家はどう分析するのだろう。いずれにしても上司、部下、同僚の心や言動の異変に気づく周囲の目がとても大切な時代だ。

自殺と言えば、奈良にこんな伝説がある。
その昔、帝の寵愛が薄れたことを苦に猿沢の池に身を投じた一人の釆女(うねめ)がいた。その名は春姫。

毎年、仲秋の名月の日に行われている春日大社の神事「釆女祭」は、池を浮遊する「春姫」の霊を慰めるというものである。
この「釆女祭」の前夜、猿沢の池に浮かべた龍頭船の上で「うた語り」をさせていただくという大役を仰せつかった。

帝から愛されなくなったことを苦に入水自殺するという悲しい釆女「春姫」を果たしてどう表現するか、愛されぬようになったことを苦に自らの命を絶つ女の心情やいかに…、そんなことを考えてたら、遠い昔の記憶、目の前で電車が急停止した自殺未遂?事件が突如蘇ってきた。









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自然のリズムの中で

2015-05-27 | 徒然なるままに
人間が自然のリズムに合わせる、本来はこうでなければならない。それなのに人間は自然を人間に合わせようとする、自然が狂ってきて当然である。

我が家の庭の梅も収穫の時期を迎えた。
このところ忙しくて、明日、また明日と延ばし延ばしにしていたら、梅の木のご機嫌を損ねたらしく、急に実を落とし出したので慌てて収穫した。

あと二週間もすれば『梅雨』も忘れずにやってくるのだろう。

『梅雨』は『バイウ』として中国から伝わってきた言葉で元の漢字は降り続く雨がモノを黴びさせるので『黴雨』という漢字が使われていた。
しかしそれでは語感が良くないということで『梅雨』という漢字に改められた。
梅という漢字の中の『毎』が毎日毎日降り続く雨という意味を表しているという。思いがけない語源である。

『つゆ』と呼んだのは江戸時代、日本に入って来てからのこと。
この読み方の語源には、木の葉などにたくさんつく雨の露説と、腐ったり熟したりして「潰れる」という意味の「潰ゆ」(ついゆ)説がある。
私としては風情ある露説であって欲しい気がする。

さて我が家の庭の梅、実を落としてしまって百個以上もダメにしてしまったのだが、それでも今年も約3キロの収穫があった。昨年はブランデーに漬け込んだが今年は何に漬け込もうか…。

我が家の梅の木が元気な間は、私は毎年毎年この作業を続けなければならない。
自然のリズムの中で…。











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思い出

2015-05-25 | 徒然なるままに
旅先の思い出をノートに綴ったり手紙を書いたりする「旅の後の時間」がまた楽しみの一つである。

この旅にしかなかった風景、この旅にしかなかった出逢い、ちょっと失敗したことだって何だって、すべてがこの旅にしかなかった大切な思い出、私の人生の中のかけがえのない一コマである。

私は「あの時はよかった」「あの日にもどりたい」と「思い出」に浸って感傷的になるのは好まないが、「思い出」は大切にしている。揉み消してしまいたいような「思い出」は一つもない。

なぜなら、旅にしろ仕事にしろ子育てにしろ、それに恋だって、すべての「思い出」はその時その時を一生懸命生きてきた自分そのものだから。

旅から帰って来るといつも気づくことがある。

我が家のコーヒーの味、我が家のタオルの匂い、友から届くメールの温かさ、慣れ過ぎて感じなくなっていたことを改めて感じる。ほんのわずか離れていただけなのに日々の生活が何か新しい。

「思い出」は旅の中、特別な日の中だけではなく、日々の生活の中でも刻々と刻まれている。

今日もまた私の人生にたくさんの「思い出」が刻まれた。
そんなことを私の白いノートに綴る。






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スマホの向こうの世界

2015-05-21 | 徒然なるままに
忙しくてももっと丁寧に暮らしていたころの自分が懐かしくて、少しだけスマホから離れる生活を送っている。

本を読んだり、音楽やラジオを聴いたり、映画を観たり、ちょっと手間のかかるお料理をしたり、手仕事をしたり、集めた器の整理をしたり、手紙を書いたり、ノートを書いたり、忙しいながらも毎日を丁寧に暮らしていたころの私が少しずつもどってきた。

目の前のスマホの向こうの世界は恐ろしいほどに広くたくさんの人がいる。大規模な娯楽の世界もある。アナログ人間の私には未だに合点がいかないことがいっぱいの不思議な世界である。

言葉が手軽にしかも超速で一気にたくさんの人に伝えられるとても便利なツールのようで、実は誰一人にも真意は伝えられない信用ならないツールではないのか。

日本中、いや世界の端までも届くパワーがありながら、すぐそばにいる大切な人にさえ本当の想いが伝えられない、実は使い勝手の悪いツールではないのか。

お手軽に覗けるこの世界は、お手軽な分どこかに危険な罠が潜んでいることや、どこか「まやかしの世界」であることもちゃんと分かっていなければならない。

闇雲に人を信じたり、羨ましがったり、情報を真に受けてその都度惑わされていたのでは、しまいに自分らしさを失ってしまう。

忙しくても、邪魔くさくても、大切な人とはやはり会って顔を見て想いを声にして喋らなくては真意は伝わらない。
まるで会話しているかのような対話も、会って話していなければ会話ではない。
誤解が生じ関係がこじれてしまったというのはよく聞く話である。

気になるところには自分の足を使って出向いてみるのが一番だ。

いつの間にか人は時間や手間のかかる邪魔くさいことをしたがらなくなってきた。そんな時間は惜しいと言いながら、実は莫大な時間をスマホの向こうの世界につぎ込んでいたりする。

邪魔くささ、非合理的なやり方の中にこそ、人間らしさ、あたたかさがある、そんなことに気づかされる出来事が最近立て続けにあった。

「したく」「かたづけ」「しつらえ」「手仕事」「人づきあい」…日々を大切に、言葉を大切に、人を大切に、友を大切に、そして自分を大切に、今一度、気持ちと暮らしを自分らしく整えて行きたいと思う。















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産婦人科医の勲章

2015-05-17 | 
診療終了時間を過ぎること2時間半、まだ診察が終わらない。
約束の時間はとっくに過ぎている。

「長い時間お待たせして申し訳ありません」
私が診察室に入ったときの先生の第一声である。
申し訳ないのはこちらの方である。一体朝から何人の女性の話を聴き体を診てこられたのだろうか。いっそ私が男ならホッとされただろうに、また女である。

ドクターの椅子と患者の椅子での打ち合わせがどうも落ち着かない。仕事の延長のようで落ち着かないのは先生も同じだったのか、場所を変えての打ち合わせとなった。

私は仕事がらよく喋るが、聴き手に回る時は徹底している。聴き上手であると自負している。
さっきまでは診察室であったからだと思っていたが、場所を変えてもどうも調子が出ない。すぐに聴き手を先生に取られてしまう。喋り過ぎている自分に気づいては逆転しようと試みるのだが、また気づいたら私が喋っている。
先生の前では私の聴き上手も全く太刀打ちできない。

「僕は患者さんと二人で喋る声、あなたは大勢の人を一度に相手にする声、そもそも声の出し方が違うんでしょうね。内容によっては僕はすぐ後ろに立っている看護師さんにさえ聴こえないような小声で喋りますから」と先生。

先生が話される声は、それ以上小さければ聴こえない、それ以上大きけれ心を閉ざしてしまいそうな実に絶妙な大きさである。
もちろん声の大きさだけではない。遣われる言葉も然り。それ以上やさしければ信用できない、それ以上キツければ二度と来院することはないだろう、絶妙な言葉である。

その声と言葉でたくさんの患者さんの話を聴いて来られたのだろう。それは、多くの女性に信頼される婦人科医である証し、正に勲章である。

産婦人科、女性にとって敷居の高い行きづらい所である。目的は様々であるが、みな不安の中ちょっと勇気を持って訪ねている。
医師は、そんな女性のグレーな気持ちを理解し、心を開かせ、そして場合によっては体も開かさねばならないのだ。
患者が心も体も委ねてくれなければ治療をスタートすることができないのだ。

改めて「産婦人科医」というものについて考えさせられた。

先生と診察室を離れてお話させて頂いたことで、産婦人科医として生きておられるひとりの男性の人間像を見た気がした。

帰り際にご趣味のスキューバダイビングの話になった。
ご自分が潜って採ってこられたタカラガイの話をされる少年のような姿になぜかホッとした。




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ハリボテ

2015-05-15 | 徒然なるままに
「今、近江を通過しています。まもなく京都に着きます」
打ち合わせのため、京都駅に隣接するホテルのラウンジで待っている私に新幹線から送られてきたメールの「近江」という響きが未だに忘れられない。

都道府県名の認知度が全国最下位という民間調査の結果を受け、滋賀県では県名変更を巡る議論がにわかに巻き起こっているという。その候補の一つが「近江県」である。
確かにかっこいい。

その男性が滋賀のことをサラッと「近江」と言われたことがあまりにもかっこよかったので、その後、私も何度も真似をしようとするのだが、違和感があるというか、自分には似合わないというか、どうも照れ臭くて遣えない。

打ち合わせでその東京の男性とお話が進む中で、その男性は日本の歴史に精通され近江のお寺や歴史的名所などを殆ど回り尽くされていたということが分かった。近江京のお話なども聴かせてくださり、こよなく近江を愛されているということも分かった。

なるほど、そういう中身があるから「近江」とさらりと言われても違和感がないのか。私が「近江」と言えないはずだ。

近江県であろうと琵琶湖県であろうと、ラベルを張り替えただけで中身が伴わなければただのハリボテだ。

大阪府か大阪都かだって同じだ。聞こえやイメージの問題ではない。問題は中身だ。

政治なんて他人事、他人任せだった人も、今、しっかり中身のことを識る、考えるチャンスではないか。



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赤鉛筆の線

2015-05-15 | 徒然なるままに
晩年の父の趣味は新聞のスクラップであった。
父の一日はまず新聞を読むことから始まる。隅から隅まで舐めるように読み終えると、次に、ハサミ、カッター、カッター台が出てくる。切り抜かれた記事は項目別にクリップで閉じられる。その記事はさらに丁寧にチェックされ、大切なところに赤鉛筆で線が引かれたり、何かしら一言書き添えられたりする。それが終わるとファイルに収められるもの、糊で台紙に貼られるもの、記事はそれぞれの場所にきちんと収められる。

膨大な量のファイルは、父が施設に入ってから母の手によってかなり処分されたが、役に立つような記事のファイル、父の想いの詰まったファイルなど処分仕切れないものが今も実家の書棚に並んでいる。

例えば私の名前がタイトルになったファイルを広げると、音楽や詩に関する記事、子育てに関連する記事などが並んでいる。

昨夜は「瀬戸内寂聴」というタイトルのファイルを実家から持ち帰り、深夜まで読み耽っていた。
読み進むうちに、父がその記事のどこに赤鉛筆で線を引いているかが気になってくる。
寂聴さんが四国八十八ケ所をお遍路された記事のところには、四国八十八ケ所のお寺の名前と住所が懐かし父の字で綴られているものが挟まれていた。便箋八枚に渡っている。いつか行こうと思っていたのだろう。

父のファイルを見ていると、父がどんなことを考えていたか、いかに人の考えや想いに丁寧に耳を傾けいかに感銘を受けていたか、また一国民としてどれほど政治に関心を抱き政治に参加していたかなど、記事の内容そのものではなく、父の心、生きる姿勢、生き方のようなものが伝わってくる。

今、親は子に、教師は生徒に、上司は部下に、いったいどんな教育をしているだろうか。
本来、教育というものは、教科書を開けばつらつら書き連ねられているような智識の受け売りではなく、人としての生き方、考え方、生きるための知恵などの伝達、心から心への伝達であるべきではないだろうか。

そんなことを改めて感じさせられた。

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手柄

2015-05-13 | 徒然なるままに
福知山での公演、ピアノが無いことに気づいたのは道中の車の中、亀岡あたりを通過しているときだった。
それぞれの勝手な思い込みが生んだミス、公演始まって以来のまさかのハプニングが発生した。
ちゃんと口に出して確認していればこんなことにはならなかった。しかし、反省している時間などなかった。何としても公演までにピアノを手配しなければならない。

世間はGW最後の週末、電子ピアノ一台ぐらいなんとかなる…楽観的な希望の光が一つ一つ消されていった。

凄かったのはそこからのチームプレーだった。残された僅かなチャンスを見事にゴールに繋げた。

予定通りの時間にリハーサルが始まった。お寺の本堂に鳴り響いたピアノの音をみんなどれほどの安堵の思いで聴いたことだろうか。

しかし私が本当に感動したのはこのチームプレー、チームワークではない。引き受けた公演は何が何でもやり遂げる、これはプロとして当たり前のことである。
感動はその後である。

自分がすべき仕事・役割以外のことでみなが走り回った。子どもの学芸会ではない。みなそれぞれの道のプロだ。
しかし、誰一人文句どころか自分の手柄を一言も語らなかった。
誰か一人でも「あのとき私が…」と自分の手柄を語っていたら、これほど清々しい気持ちにはなれなかっただろう。

この公演で必ず歌う歌「いのちの歌」の歌詞の中に、私がとても大切にしている言葉がある。

「本当に大事なものは隠れて見えない」

これを逆の言い回しにしてみると、

「見せてしまえば本当に大事なものではなくなる」

誰でも手柄は語りたいものだ。
しかし、手柄は語ったらそれだけのもの、いや、ひょっとしたらそれ以下のものになってしまう。
語らなかった手柄は必ずいつか二倍三倍の喜びとなって自分に返ってくる。







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八転び九起き

2015-05-12 | 徒然なるままに
昨夜久しぶりに王子さまから電話があった。

東北大震災直後のチャリティーバザーの代表者として私が頭を抱えている時に颯爽と私の前に現れたKさん、Kさんの登場で私は窮地を脱することができた。それ以来私はKさんのことを「王子さま」と呼んでいる。
ただこの王子さま、白馬に乗ってではなくたくさんの木工作品を抱えての登場であった。

Kさんが提供して下さった大小様々の木工作品のお蔭でチャリティーバザーは大成功した。たくさんの寄付金を集めることができた。
廃材利用とは言えいったいどれほどの手間暇がかかっていることか。その辺のホームセンターで売られている木工作品をしのぐ丁寧さ、美しい仕上がり、椅子などは安全性を追求した愛にあふれる見事な作品ばかりであった。
我が庭の小鳥の巣箱もその一つである。
そんな木工作品をワンボックスカーに優に3杯はあろうかという量を寄付して下さったのだ。無償で。

その王子さまからの電話。
「8回目の再発です。今月から3ヶ月間の放射線治療に入ります。極めて悪性度の高いガンで…」
Kさんの人生はガンと共にあると言っても過言ではない。
20分ぐらい喋っただろうか、Kさんの口からは一言もネガティヴな言葉は発せられなかった。お互い終始明るく喋った。

一昨年の私の誕生日の日は実はKさんの前立腺ガンの手術の日だった。7回目の再発だった。手術前の王子さまからの電話で「七転び八起きだ」と笑い飛ばした。

極めて厳しい状況からのKさんの帰還、私は声を上げて喜んだ。最高の誕生日プレゼントだった。
あの時が「七転び八起き」だったのだとしたら、今回は「八転び九起き」だ。

九回でも十回でも、とにかく転んだらまた起き上がればいいんだ。そんなことを私に教えてくれたのは他でもない王子さまだ。

王子さまは必ずまた起き上がる!






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女の役割

2015-05-08 | 徒然なるままに
妻が家を出るとき、その家で担っている自分の役割を改めて感じるものである。

旅で少し家を出るのか、そのままもう戻らない覚悟で家を出るのか、家の出方も様々であるが、いずれにしても、自分がいなくなったら家の中がどうなるか…家族がどうなるか…妻としては気にかかることは間違いない。

子どもは?主人は?年老いた親は?
ペットは?庭の花や木は?

少し前までは私はマックス状態、これらのこと全てが気にかかり、家を空けるとなると大事であった。

ところが年月を経るごとに気にかかることは間違いなく一つずつ減って来る。
明日から3日間家を空けるが、驚いたことに私は自分の旅支度以外何もしていない。

子どもたちはそれぞれに独立し、ペットもいなくなった。介護制度にも心から感謝である。

そして、炊飯器の使い方一つ知らなかった主人も、この一年に経験したサバイバル生活のお陰で、掃除、洗濯、料理、庭木の世話まで何でもござれという男に成長した。人間追い込まれると信じられない能力を発揮するものだ。

最近は、結婚するまでにこの能力を発揮してしまう男性が増えている。その昔は女子がするべきとされていたことを難なく器用にこなしてしまう男性が。
おまけに街にはコンビニが網羅し、食べることには全く困らない時代だ。

次男などは週に一度、プロのお掃除屋さんに家を掃除してもらっているという。ひょっとしたら我が家より家の中が綺麗なのかも分からない。料理の腕もなかなかのものである。
女の出る幕がない。というより、女に掃除、料理などを全く期待していない。

「女の役割」、この言葉も死語になりつつあるのかも分からない。

若者の結婚願望が薄らぐはずだ。三組に一組、離婚する夫婦が増えるはずだ。

旅の支度をしながらふとそんなことを思った。
















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「満ちる」

2015-05-06 | 言の葉
日本には干潮の時にのみ渡ることができるという島がけっこうある。

沖縄の安室島もその一つで、大潮の干潮時、潮がかなり引く時期・時間にのみ一筋の道が現れ、座間味島から歩いて渡ることができる。しかしこの海峡の流れはかなり速いため、少しでもタイミングを間違えると戻れなくなる。

潮が「満ちる」と動けなくなる。

「満ちる」というと、エネルギーをいっぱい貯め込んだいかにも動けそうな状態を想像するものだが、人間「満ちる」と意外と動けなくなるものだ。

農林水産省は今年度から地球温暖化対策として、暑さや水不足に強い農作物を作る研究を強化し、2019年度までの5年間でコメや野菜、果物などで10種類以上の新品種開発を目指すという。

このところ、5月に入ったばかりとは思えない気温、真夏を思わせる暑さの日が続く。確実に温暖化は進んでいるのだろう。
温暖化ストップ対策ももちろん大切だが、温暖化に強い農作物の開発も「満ちる」前にしてより万全である。

伝統の「型」に何とか収めようたって「型」が古臭過ぎて中身が収まらないことがある。時には中身ではなく「型」を新しくする勇気も必要だ。
収まり切らず、満ちて溢れ出してから慌てていては遅い。

政治だって憲法だっておんなじ気がする。

何かが起こってからでは遅い。
満ちてからでは遅い。潮が「満ちる」前に、道が見えている間に動かないと!

お金が貯まったら?
時間がたっぷりできたら?

いや、きっとお金も時間も満ちてしまうと動けなくなるのだろう。
そんな経験したことがないから分からないが、そう信じて今できる限り動こう!








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ミルフィユ

2015-05-05 | 言の葉
突然降り出した雨、マロニエの木陰で雨宿り。
そんな今日の〈パリな夕暮れ〉の中でふと頭に浮かんだのが昔パリのカフェで食べた「ミルフィユ」のこと。

フランス発祥のお菓子「ミルフィユ」はフランス語で表記すると「mille-feuille」、「千枚の葉っぱ」の意。
なるほど、幾重にも折り重なったパイ生地がいかにも葉っぱが何枚も重なっているようである。

これを「ミルフィーユ」と発音してしまうと「mille filles」というフランス語の発音に近くなってしまう。意味は「千人の女性」。

パリのカフェで「ミルフィーユ下さい」と言うと「千人の女性」を注文してしまったことになる。

先月逮捕された元中学校長がフィリピンでのべ1万2千人以上の女性を売春していたというから、「千人の女性」と言っても笑えないのが悲しい。

呆れて開いた口がふさがらないが、まあ女好きもここまでくるとご立派である。

この男、一人ひとりとの行為を全て写真に残し、おまけにご丁寧に女性に番号をふっていたというからこの恐ろしい数字が浮かび上がったわけだが、写真も番号も残していないというだけで、のべ千人なんて殿方も意外とおられるのかも分からない。

せっかくの〈パリな夕暮れ〉がとんだ話に脱線してしまったが、いずれにしても日本語化された外来語を外国で使う時は注意しなければならない。
変な意味で伝わるぐらいなら、全く伝わらない方がましかもわからない。

ちなみに「チップ」は英語で表記すると「chip」、「切れ端」という意味になる。
私たちが言いたい「チップ」は英語で表記すると「tip」、「ティップ」こう発音すれば「心づけ」の意味になる。

明日はミルフィユを食べよう^ ^




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男時 女時

2015-05-02 | 言の葉
今年は実の成りが悪いのか、去年はもっと成っていたのに…今朝そんなことを思いながら庭の梅の木を眺めていたら、ふとこんな言葉が頭をよぎった。「男時 女時」。

「男時 女時」(おどき めどき)とは、世阿弥の能楽論書『風姿花伝』に出てくる
能の言葉で、「男時」とは運が向いているとき、「女時」とは運が離れているときを言う。

すべての時と事象には「男時」と「女時」がある。
「男時」と「女時」は誰にも交互に訪れる時の流れであるから、逆らわず宿命として受け入れよ。「女時」にいたずらに勝負にいっても決して勝つことはできない。そんな時はやがてやってくる「男時」をじっと待ち、そこで勝ちにいけ、と世阿弥は言っている。

誰しも何をやっても上手く行かないときがあるものだ。仕事運、金運、健康運、恋愛運…運という運すべてに見放されたかと思うような時が。

そういう「女時」には無茶をせず、やがてやってくる「男時」を静かに待て。「女時」こそが我を磨く研鑽のときだと世阿弥は言うのだ。

人間「女時」のあり方がどれほど大切か、世阿弥が言いたかったことが「男時 女時」という言葉から静かに伝わってくる。

「初心忘るべからず」これもまた世阿弥の言葉である。

600年の時を経て、世阿弥の言葉が心に響く。










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