COCCOLITH EARTH WATCH REPORT

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イランを巡るドキュメンタリーの連続放送

2009-02-22 21:05:55 | Weblog
2月第4週に、夜21:10‐22:00のNHK衛星第一で、オバマ政権の対応が注目されているイランを巡るBS世界のドキュメンタリーが、連続放送されました。7月第2週は、2月第4週に放送イランを巡るBS世界のドキュメンタリーのうち、「イランとアメリカ 対立の構図」3部作が再放送されます。
 この作品は、NHK とイギリスのBrook Lappingの国際共同制作で、1979年のイラン革命をきっかけに始まったイランとアメリカの対立関係は、どのようにして生まれ、国際政治の舞台でどのように進展してきたのかを、両国の首脳を含む関係者のインタビューで克明に描きます。

7月7日(火)10:10‐11:00 NHK衛星第一 第1回 断絶の時代-」。イランとアメリカ 対立の構図~第1回 断絶の時代~(原題:Iran and the West: The Man Who Changed the World)」
 アメリカとイラクの対立のきっかけとなったのは、30年前に起きたイラン・イスラム革命だった。1979年2月の革命前夜、アメリカはぎりぎりまで亡命中のホメイニ師の帰国を阻もうと画策していた。アメリカのパーレビ国王受け入れに怒った学生達は米大使館人質事件を起こしたが、当時、学生だったアフマディネジャド現大統領は、事件とどう関わっていたのか。当時のカーター大統領は人質救出を目指して部隊を派遣したが、作戦は失敗に終わった。人質の返還を巡って、アメリカとホメイニ政権の間でどのような駈け引きが行われていたのか。カーター元大統領と当時の側近が、人質救出失敗の一部始終を明らかにする。
 1980年9月に始まったイラクのイラン侵攻により、人質解放交渉は解決に向けて動き出したが、カーターは救出作戦失敗の責任を問われ、大統領の職を追われた。

7月8日(水)10:10‐11:00 NHK衛星第一 第2回 改革派の挑戦~(原題:Iran and the West: The Pariah State)」
1980年代、レバノンで欧米人がイスラム教シーア派の過激派組織によって次々と誘拐された。首謀グループの一つ「ヒズボラ」は、イラン革命防衛隊の訓練を受けた組織だった。当時、人質解放に向けてイランと欧米諸国の間でどのような取引があったのか。また、ラフサンジャニ元大統領が、8年間続いたイラン・イラク戦争停戦を受け入れさせるため、如何にしてホメイニ師を説得したかを語る。
 1997年、大統領に就任した改革派のハタミは、対話を求めてアメリカに接近を画策した。市民レベルでレスリング大会が開かれ、アメリカ選手達が大使館人質事件以来17年ぶりにイランを公式訪問した。しかし、サウジアラビアで起きた米軍施設爆破事件をきっかけに、再び両国の関係は悪化に転じた。ハタミ元大統領が、国内強硬派の反発を抑えながら、欧米と対話を進めていくことがいかに難しかったかを振り返る。

7月10日(金)25日(水)10:10‐11:00 NHK衛星第一 第3回 核をめぐる攻防~(原題: Iran and the West: Nuclear Confrontation)」
 2001年、アメリカで同時多発テロが起きる前、イランはすでにアルカイダによる大規模なテロを予期していた。事件後、ハタミ大統領は犠牲者に哀悼の意を表し、アフガニスタンでアメリカのタリバン掃討作戦に協力した。しかし、1979年以来続いていた対立に終止符が打たれることはなかった。アメリカはイランを「悪の枢軸」と名指しし、イラク戦争ではイランの協力の申し出を拒否した。イラクでシーア派民兵組織の攻撃が激しさを増す中、イランはイギリスに対してある取引を持ちかける。そのときイランは核開発を認めさせる代わりに何を約束しようとしたのか。
 イランとヨーロッパ3カ国との間で行われたウラン濃縮活動停止協議。強硬論を唱えるアメリカの陰で、ヨーロッパはイランとどのような交渉を行っていたのか。イギリスの元外相はイランと合意に達しながらも度々裏切られた事実を語る。またイラン国内での強硬派の台頭によって次第に西側諸国との交渉が難しくなっていった背景を、ハタミ元大統領や米国務省元高官などの証言によって明らかにする。
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以下は2月に放送された番組の概要です。

26日(木)「テヘランにザクロはもう実らない(原題: Tehran Has No More Pomegranates」(制作:イラン DEFC/IRIB、 2006年)
 20世紀初頭、ヨーロッパから洋服が流入し、今やテヘランの男性のほとんどがYシャツを着る。60年代に入るとオイルマネーで、テヘランは大都市へと変貌をとげ、周辺諸国から働きにくる労働者も急増した。70年代のパーレビ国王時代、電気、水道などの社会資本が整備されたが、市民の不満の高まりがイラン革命につながった。
 かつてテへランには美味なるザクロの実が鈴なりになっていたという。監督は「今のテヘランの暮らしはよくなっているのだろうか」と静かに問いかける。古くなった水道設備は壊れ、町の衛生状態は悪化し、失業者があふれている。北部にはお金持ち達の高級マンション、南には低所得者達の古い煉瓦造りの安アパートが建ち並ぶ。町の人々にテヘランについて聞くと、空気は悪いがこの都市に満足していると語る。ただ一人、郊外から職を求めてやってきたホームレスの男性が、「夜になると町にはホームレスがあふれ、警官に追われる日々だ」と異議を唱える。

27日(金)「核開発 イランの現実(原題: Iran: Nuclear Power Story)」(制作: イランPresse TV、2007)
1970年代、アメリカはイランが原子力をもつべきだと主張していた。しかしイラン革命後、アメリカの圧力により欧米の原子力関連企業は次々と撤退し、イランはNPT(核拡散防止条約)の加盟国でありながら、核開発の恐れがあるとして技術協力を得られなくなってしまった。こうした状況変化が、イランが秘密裏に原子力開発を進める要因となった。
 1950年代、石油国有化を宣言したイランのモザデク政権は、アメリカ主導のクーデターで失脚し、パーレビ王制が敷かれた。しかしイラン革命や大使館人質事件により、イランは西側にとって脅威の国になっていった。そして2002年、アメリカがイランは核開発計画を進めていると非難すると、国際原子力機関(IAEA)による核査察を求める声が国際的に高まっていった。番組は、イランの原子力庁元総裁やIAEA代表、そして国連幹部や欧米の研究者などへのインタビューを通して、1970年代から現在までのイランの原子力開発の歴史を辿り、NPT体制の限界と問題点に迫る。

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2009-02-25 09:00:01
 1,2回を見て思った感想ですがNHKのドキュメンタリーは常に最も重要な要素に触れていないということが気になります。 つまり経済。 アメリカを動かす石油資本や軍産複合体の動向を抜きにしたのでは真相が全く見えてこない。 以前やっていた日本が戦争に突入するまでを描いたドキュメンタリーでも5大財閥の果たした役割は登場しなかった。 まあNHKの限界とは思いますが。 同時刻BS2でやっていた映画がその辺を描いていたのは面白かったのですが。
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応答が遅れて済みません (coccolith)
2009-02-27 15:19:45
確かにアメリカにとってパーレビ体制下のイランは石油輸入元と、武器輸出先として重要でしたね。但し、このシリーズではホメイニ革命後のイランの状況の方に焦点が当てられていたと思います。NHKのBS世界のドキュメンタリーに食い足りないものもありますが、海外で制作されたものには、もっと踏み込んだものもあります。次週21:10-22:00の時間帯には、ボストンの公共放送WGBH制作のイラク戦争を巡る番組が放送されます。
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