たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第8話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Wolfgang Amadeus Mozart】
さて、仕事はさておきソプラノ歌手アロイジアに夢中になってしまうモーツァルト。
ふたりの今後に展開はあるんでしょうか?今日はその続きからです。
(第8話)【再びのパリ】
さて、アロイジアに夢中になったモーツァルトでしたが、マンハイムの宮廷では就職の見込みが付かず、このままでは動きの取れないモーツァルトは壮大な計画を立てるのでした。音楽の本場イタリアに渡りアロイジアを歌手デビューさせ、名声を上げるというものでした。
この計画をザルツブルクの父レオポルトに伝えますが、レオポルトはモーツァルトからこの途方も無い大計画の手紙を受け取ると、恋に浮かれて現実の見えなくなっていた息子に激怒して、徹夜で返信の手紙を書き息子の目を覚まそうとします。
父からの返信の手紙はこうでした。「おまえは昔から褒められるとすぐに調子に乗ってしまう…、お前の無謀な計画の話を見ると気を失ってしまいそうだ・・・、パリへ行きなさい、今すぐに!!パリならお前の才能を高く買ってくれる貴族が必ず見つかるハズだ!いいからすぐにパリに行きなさい!!」
この父の手紙を受けて、モーツァルトは止む無く後ろ髪を引かれながらマンハイムを後にしてパリへと向かって行くのでした。
1778年モーツァルト母子はパリへ到着します。モーツァルトにとって幼い頃に父と訪れたときのパリとは随分と様変わりしたと感じていたようです。
子供時代にもてはやされたときとは、状況も違い、青年作曲家としてのモーツァルトの評判はパリには届いていなかったようです。
しかし、まったく就職の口が無いわけではないらしく、ヴェルサイユのオルガン奏者として誘いを受けてもいたようです。しかし、「たいした金額ではない」と言ってモーツァルトはこの話を断っていたようです。
幼少時代に知り合って、頼りにしていたグリム男爵とも、音楽に対する意見の違いからあまり良い扱いを受けず、モーツァルトのパリでの就職活動はあまりうまくいかなかったようです。
更に、モーツァルトには予期せぬ災いが降りかかります。ザルツブルクからの長旅と、うまくいかない息子の就職活動を思う心労が祟ったのか、1778年7月には母アンナ・マリアがパリで息をひきとってしまうのでした。
モーツァルトはこの事を、しばらくはザルツブルクの父に伝えなかったようです。母の死後も、「重病」とだけ伝えておいて、家族に心の準備をさせてから、ザルツブルクの近所の神父に「父と姉をなぐさめて…」という気遣いの手紙を送っていたようです。
妻の死を手紙で知ったレオポルトは、パリでも成果を上げられないモーツァルトにザルツブルクに帰ってくるように手紙を送ります。
しかし、モーツァルトは9月にパリを出てもすぐにはザルツブルクに戻ろうとはせず、マンハイムに立ち寄ります。そうマンハイムにあのアロイジアを訪ねる事にしたのです。このときモーツァルトはアロイジアに結婚を申し込む事を決意していたようです。
パリに出てはみたものの、あまり成果は上がらず母の死を機に故郷へ帰る事になりますが、やはりアロイジアの事が忘れられないモーツァルト。しばらく離れていたアロイジアにモーツァルトのこの想いは届くんでしょうか?このつづきはまた明日。
≪この頃にモーツァルトが作曲した曲≫
♪交響曲第31番「パリ」の記事はこちら
♪フルートとハープのための協奏曲の記事はこちら
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今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第8話)です。
≪作曲家の肖像≫
モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲〈パリのモーツァルト(1)〉ウーブラドゥ(フェルナン), ブラン(フランソワ=ジュリアン), フェルナン・ウーブラドゥ室内楽団, ラスキーヌ(リリー), モーツァルト東芝EMIこのアイテムの詳細を見る |
さて、仕事はさておきソプラノ歌手アロイジアに夢中になってしまうモーツァルト。
ふたりの今後に展開はあるんでしょうか?今日はその続きからです。
(第8話)【再びのパリ】
さて、アロイジアに夢中になったモーツァルトでしたが、マンハイムの宮廷では就職の見込みが付かず、このままでは動きの取れないモーツァルトは壮大な計画を立てるのでした。音楽の本場イタリアに渡りアロイジアを歌手デビューさせ、名声を上げるというものでした。
この計画をザルツブルクの父レオポルトに伝えますが、レオポルトはモーツァルトからこの途方も無い大計画の手紙を受け取ると、恋に浮かれて現実の見えなくなっていた息子に激怒して、徹夜で返信の手紙を書き息子の目を覚まそうとします。
父からの返信の手紙はこうでした。「おまえは昔から褒められるとすぐに調子に乗ってしまう…、お前の無謀な計画の話を見ると気を失ってしまいそうだ・・・、パリへ行きなさい、今すぐに!!パリならお前の才能を高く買ってくれる貴族が必ず見つかるハズだ!いいからすぐにパリに行きなさい!!」
この父の手紙を受けて、モーツァルトは止む無く後ろ髪を引かれながらマンハイムを後にしてパリへと向かって行くのでした。
1778年モーツァルト母子はパリへ到着します。モーツァルトにとって幼い頃に父と訪れたときのパリとは随分と様変わりしたと感じていたようです。
子供時代にもてはやされたときとは、状況も違い、青年作曲家としてのモーツァルトの評判はパリには届いていなかったようです。
しかし、まったく就職の口が無いわけではないらしく、ヴェルサイユのオルガン奏者として誘いを受けてもいたようです。しかし、「たいした金額ではない」と言ってモーツァルトはこの話を断っていたようです。
幼少時代に知り合って、頼りにしていたグリム男爵とも、音楽に対する意見の違いからあまり良い扱いを受けず、モーツァルトのパリでの就職活動はあまりうまくいかなかったようです。
更に、モーツァルトには予期せぬ災いが降りかかります。ザルツブルクからの長旅と、うまくいかない息子の就職活動を思う心労が祟ったのか、1778年7月には母アンナ・マリアがパリで息をひきとってしまうのでした。
モーツァルトはこの事を、しばらくはザルツブルクの父に伝えなかったようです。母の死後も、「重病」とだけ伝えておいて、家族に心の準備をさせてから、ザルツブルクの近所の神父に「父と姉をなぐさめて…」という気遣いの手紙を送っていたようです。
妻の死を手紙で知ったレオポルトは、パリでも成果を上げられないモーツァルトにザルツブルクに帰ってくるように手紙を送ります。
しかし、モーツァルトは9月にパリを出てもすぐにはザルツブルクに戻ろうとはせず、マンハイムに立ち寄ります。そうマンハイムにあのアロイジアを訪ねる事にしたのです。このときモーツァルトはアロイジアに結婚を申し込む事を決意していたようです。
パリに出てはみたものの、あまり成果は上がらず母の死を機に故郷へ帰る事になりますが、やはりアロイジアの事が忘れられないモーツァルト。しばらく離れていたアロイジアにモーツァルトのこの想いは届くんでしょうか?このつづきはまた明日。
≪この頃にモーツァルトが作曲した曲≫
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