たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第14話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Wolfgang Amadeus Mozart】
さて、父をウィーンに招いて大成功を見せて安心させるモーツァルト。
今日はその続きからです。
(第14話)【歌劇「フィガロの結婚」】
さて、次々に名曲を生み出していくモーツァルト。その勢いは留まることを知らず、次に手を付けたのは、歌劇「フィガロの結婚」でした。
この歌劇は、才能のある主人公の召使いが、面白おかしく主人である貴族たちをやり込めてしまうというこの物語は当時ウィーンでは上演禁止になっていたのでした。
モーツァルトは、どうしてもこの歌劇をやりたかったらしく、台本作家のダ・ポンテにこの話を持ちかけるのでした。ダ・ポンテにどんな思惑があったかは分かりませんが、いわゆる「タブー」とされていたこの作品の上演に対して熱心に取り組み、皇帝にも「脚色を加えて貴族にも波風の立たない内容にする」と言いくるめて、上演許可を取り付けていくのでした。
1786年5月、ウィーンの歌劇場でモーツァルト自身による指揮で上演されると、貴族を初めとする聴衆たちの拍手が鳴り止まぬほどの大成功を収め、上演された歌劇のほぼ全てのアリアがアンコールされるなど、初演当日は一躍大人気の歌劇となるのでした。
ところが、初演が終わると再演回数はそれ程伸びなかったようです。脚色はついたと言っても貴族たちを小馬鹿にしたような内容が悪かったのか、モーツァルトの人気を妬んだライバルたちの妨害工作があったとか、様々な憶測が今でも議論されているようですが・・・、
実際にその影響があったのかどうかは分かりませんが、しかし、この歌劇「フィガロの結婚」の上演を境に、モーツァルトの人気にも次第に陰りを見せるようになっていったようです。
そして、ウィーンでの人気が今ひとつになってきたのを察してなのか、次なる進展地をイギリスのロンドンに求めて、妻コンスタンツェと共に大演奏旅行を計画しますが、そこまでの経済的な余裕が無かった事と父レオポルトの反対もあって、この計画は実現する事はありませんでした。
ロンドンには行けませんでしたが、モーツァルトはプラハから招待を受けることになります。
1787年1月、モーツァルト夫妻がプラハへ到着すると、プラハの街ではどこへ行っても「フィガロの結婚」が大フィーバーを巻き起こしていたのでした。街行く人々は、フィガロのメロディを口ずさみ、鼻歌から口笛に至るまで、とにかくフィガロ三昧だったようで、プラハを訪れたモーツァルトの方が驚いていたようです。
そんな、熱烈に歓迎してくれるプラハの聴衆のためにモーツァルトも自らの指揮で「フィガロの結婚」を上演したり、新作の交響曲第38番「プラハ」を上演したりと、プラハ市民たちの歓迎に応えるのでした。
プラハの劇場から次回の新作オペラの注文を受けると、1ヶ月ほどプラハに滞在してウィーンへと帰ってくるのでした。
さて、思わぬところで「フィガロの結婚」が大ヒットしていたモーツァルト。
ウィーンでの評価は上がっているのでしょうか?
このつづきは曲とドラマを挟んでまた来週。(たぶん来週で終わると思います。)
♪歌劇「フィガロの結婚」の記事はこちら
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今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第14話)です。
≪作曲家の肖像≫
モーツァルト : 歌劇「フィガロの結婚」ハイライトマリナー(ネビル), アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ, ライモンディ(ルッジェーロ), アンブロジアン・オペラ合唱団, ヘンドリックス(バーバラ), ダム(ヨセ・ファン), ロイド(ロバート), バルツァ(アグネス), バルディン(アルド), モーツァルトユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
【Wolfgang Amadeus Mozart】
さて、父をウィーンに招いて大成功を見せて安心させるモーツァルト。
今日はその続きからです。
(第14話)【歌劇「フィガロの結婚」】
さて、次々に名曲を生み出していくモーツァルト。その勢いは留まることを知らず、次に手を付けたのは、歌劇「フィガロの結婚」でした。
この歌劇は、才能のある主人公の召使いが、面白おかしく主人である貴族たちをやり込めてしまうというこの物語は当時ウィーンでは上演禁止になっていたのでした。
モーツァルトは、どうしてもこの歌劇をやりたかったらしく、台本作家のダ・ポンテにこの話を持ちかけるのでした。ダ・ポンテにどんな思惑があったかは分かりませんが、いわゆる「タブー」とされていたこの作品の上演に対して熱心に取り組み、皇帝にも「脚色を加えて貴族にも波風の立たない内容にする」と言いくるめて、上演許可を取り付けていくのでした。
1786年5月、ウィーンの歌劇場でモーツァルト自身による指揮で上演されると、貴族を初めとする聴衆たちの拍手が鳴り止まぬほどの大成功を収め、上演された歌劇のほぼ全てのアリアがアンコールされるなど、初演当日は一躍大人気の歌劇となるのでした。
ところが、初演が終わると再演回数はそれ程伸びなかったようです。脚色はついたと言っても貴族たちを小馬鹿にしたような内容が悪かったのか、モーツァルトの人気を妬んだライバルたちの妨害工作があったとか、様々な憶測が今でも議論されているようですが・・・、
実際にその影響があったのかどうかは分かりませんが、しかし、この歌劇「フィガロの結婚」の上演を境に、モーツァルトの人気にも次第に陰りを見せるようになっていったようです。
そして、ウィーンでの人気が今ひとつになってきたのを察してなのか、次なる進展地をイギリスのロンドンに求めて、妻コンスタンツェと共に大演奏旅行を計画しますが、そこまでの経済的な余裕が無かった事と父レオポルトの反対もあって、この計画は実現する事はありませんでした。
ロンドンには行けませんでしたが、モーツァルトはプラハから招待を受けることになります。
1787年1月、モーツァルト夫妻がプラハへ到着すると、プラハの街ではどこへ行っても「フィガロの結婚」が大フィーバーを巻き起こしていたのでした。街行く人々は、フィガロのメロディを口ずさみ、鼻歌から口笛に至るまで、とにかくフィガロ三昧だったようで、プラハを訪れたモーツァルトの方が驚いていたようです。
そんな、熱烈に歓迎してくれるプラハの聴衆のためにモーツァルトも自らの指揮で「フィガロの結婚」を上演したり、新作の交響曲第38番「プラハ」を上演したりと、プラハ市民たちの歓迎に応えるのでした。
プラハの劇場から次回の新作オペラの注文を受けると、1ヶ月ほどプラハに滞在してウィーンへと帰ってくるのでした。
さて、思わぬところで「フィガロの結婚」が大ヒットしていたモーツァルト。
ウィーンでの評価は上がっているのでしょうか?
このつづきは曲とドラマを挟んでまた来週。(たぶん来週で終わると思います。)
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