たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「楽聖」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(第10話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Ludwig van Beethoven】
パトロンの不幸な出来事が重なり、年金が打ち切られてしまうベートーヴェン。今日はその続きからです。
(第10話)【裁判】
年金が底を付きかけたベートーヴェンはウィーンで、年金の再開交渉をはじめます。そしてルドルフ大公から、どうにか、いくらかの金額を受け取ると当面の生活をしのぎます。
この頃、イギリス軍のウェリントン将軍がフランス軍を破ったという報せがウィーンに届くと、この報せに便乗した友人メルツェル(メトロノームを発明した)の勧めで、この勝利を題材にした曲を作曲する事を提案します。これを受けてベートーヴェンは「ウェリントンの勝利」を作曲します。そして演奏会を開き「ウェリントンの勝利」や「交響曲第7番」を初演します。
すると、この演奏会は大成功を収めます。「ウェリントンの勝利」が人気を集め大喝采を受けたベートーヴェンはこれ幸いとばかりに、次々に演奏会を行うとこれも大成功し、新聞にまで聴衆の大喝采が取り上げられていたようです。
ウィーンの聴衆はおそらく、ベートーヴェンの曲にというより、それまで占領の憂き目に遭っていたフランス軍を打ち破ったウェリントン将軍の勝利に酔いしれ、ベートーヴェンが便乗した形を取ったこの曲に、強く共感を抱いていたようです。
そんなウィーン貴族の思惑はともかくとして、これがきっかけでウィーンの劇場からもベートーヴェンの人気を再認識する形となり、演奏会を依頼を受けるようになります。
ところが、この曲が人気を呼んでいたいた事に目をつけるたメルツェルは、もともとは自分の勧めで作曲したこの曲には自分に所有権があるとして、オーケストラ団員のパート譜からスコアを作り、ミュンヘンで勝手にこれを演奏してしまうのでした。
その事を知ったベートーヴェンは直ちにメルツェルを訴え、友人関係も絶縁してしまいます。
そんなこんなで、ウィーンでの名声を一気に高めることになります。しかし、一方で出版社シュタイナー社からも作品の依頼をせかされます。実は1813年に弟カールが重病になったときに同社にも借金をしており、期日までに返済できない場合は、新作を無償で提供する事と未発表の作品十数曲の版権を譲渡する条件になっていたのでした。
結局、返済する事が出来ていなかったベートーヴェンはこの条件に従って同社に作品を譲渡していたようです。
シュタイナー社との契約は決着を付けたものの、1815年弟カールの病状は更に悪化し結局11月には亡くなってしまうのでした。
弟カールには同名の幼い息子カールがいて、弟カールは生前からこの息子カールの後見人を兄ベートーヴェンに決めていたようですが、弟カールの遺書には「息子のために母ヨハンナも後見人とする」という追記が見つかると、その後見人の資格をめぐって裁判が起きるのでした。
第一回の裁定では、母ヨハンナを正後見人に、ベートーヴェンは副後見人という結論が出されます。これに不服を申し立てたベートーヴェンは翌1816年に単独後見人としてみとめられると、甥カールをひきとる事になるのでした。
恋多きベートーヴェンですが、失恋が続き、気付けばもう40代になっていましたから、せめて子供が欲しかったのかもしれません。でも裁判まで起こすなんて…、何をやっても情熱的になってしまうんでしょうか?
さて、このつづきは数日置いて、また来週。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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今日は「楽聖」ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(第10話)です。
≪作曲家の肖像≫
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パトロンの不幸な出来事が重なり、年金が打ち切られてしまうベートーヴェン。今日はその続きからです。
(第10話)【裁判】
年金が底を付きかけたベートーヴェンはウィーンで、年金の再開交渉をはじめます。そしてルドルフ大公から、どうにか、いくらかの金額を受け取ると当面の生活をしのぎます。
この頃、イギリス軍のウェリントン将軍がフランス軍を破ったという報せがウィーンに届くと、この報せに便乗した友人メルツェル(メトロノームを発明した)の勧めで、この勝利を題材にした曲を作曲する事を提案します。これを受けてベートーヴェンは「ウェリントンの勝利」を作曲します。そして演奏会を開き「ウェリントンの勝利」や「交響曲第7番」を初演します。
すると、この演奏会は大成功を収めます。「ウェリントンの勝利」が人気を集め大喝采を受けたベートーヴェンはこれ幸いとばかりに、次々に演奏会を行うとこれも大成功し、新聞にまで聴衆の大喝采が取り上げられていたようです。
ウィーンの聴衆はおそらく、ベートーヴェンの曲にというより、それまで占領の憂き目に遭っていたフランス軍を打ち破ったウェリントン将軍の勝利に酔いしれ、ベートーヴェンが便乗した形を取ったこの曲に、強く共感を抱いていたようです。
そんなウィーン貴族の思惑はともかくとして、これがきっかけでウィーンの劇場からもベートーヴェンの人気を再認識する形となり、演奏会を依頼を受けるようになります。
ところが、この曲が人気を呼んでいたいた事に目をつけるたメルツェルは、もともとは自分の勧めで作曲したこの曲には自分に所有権があるとして、オーケストラ団員のパート譜からスコアを作り、ミュンヘンで勝手にこれを演奏してしまうのでした。
その事を知ったベートーヴェンは直ちにメルツェルを訴え、友人関係も絶縁してしまいます。
そんなこんなで、ウィーンでの名声を一気に高めることになります。しかし、一方で出版社シュタイナー社からも作品の依頼をせかされます。実は1813年に弟カールが重病になったときに同社にも借金をしており、期日までに返済できない場合は、新作を無償で提供する事と未発表の作品十数曲の版権を譲渡する条件になっていたのでした。
結局、返済する事が出来ていなかったベートーヴェンはこの条件に従って同社に作品を譲渡していたようです。
シュタイナー社との契約は決着を付けたものの、1815年弟カールの病状は更に悪化し結局11月には亡くなってしまうのでした。
弟カールには同名の幼い息子カールがいて、弟カールは生前からこの息子カールの後見人を兄ベートーヴェンに決めていたようですが、弟カールの遺書には「息子のために母ヨハンナも後見人とする」という追記が見つかると、その後見人の資格をめぐって裁判が起きるのでした。
第一回の裁定では、母ヨハンナを正後見人に、ベートーヴェンは副後見人という結論が出されます。これに不服を申し立てたベートーヴェンは翌1816年に単独後見人としてみとめられると、甥カールをひきとる事になるのでした。
恋多きベートーヴェンですが、失恋が続き、気付けばもう40代になっていましたから、せめて子供が欲しかったのかもしれません。でも裁判まで起こすなんて…、何をやっても情熱的になってしまうんでしょうか?
さて、このつづきは数日置いて、また来週。
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