初心者のクラシック

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「神童」アマデウス・モーツァルト(第17話)

2006年12月22日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第17話)です。

≪作曲家の肖像≫
モーツァルト:コシ・ファン・トゥッテ(抜粋)
アーノンクール(ニコラウス), ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団, オランダ・オペラ合唱団, カシュマイユ(ジル), ワルト(デオン・ファン・デル), ハンプソン(トーマス), マルジオーノ(シャルロット), ジーグラー(デロレス), シュタイガー(アンナ), モーツァルト
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【Wolfgang Amadeus Mozart】

ついに、借金生活に突入したモーツァルト。ちゃんと返せるんでしょうか?
「ご利用は計画的に」といきたいところですが、どうなんでしょう?
今日はその続きからです。

(第17話)【金策の日々】
 モーツァルトが借金生活に陥ってしまったのは、それを妻コンスタンツェに打ち明けていなかったから、という事もあったようです。

 かつてのウィーンやプラハで大喝采を浴びる「華やかな夫モーツァルト」という印象を愛する妻の前では崩したくは無かったようです。すると当然妻との共通の友人にも借金の依頼など出来るはずもなく、借入れ先はいつも決まって商人プフベルクという悪循環が続いてしまったようです。

 今で言うと会社からリストラされたのを妻には打ち明けられずに、公演のベンチで弁当を食べて夕方に帰るサラリーマンみたいな生活だったんでしょう、たぶん。ただ、モーツァルトの場合は「作曲」が仕事ですから、ピアノの前に五線紙を並べておけばそれらしく見えたでしょうし、実際、作曲活動は続けていたようですから、妻コンスタンツェも、よもや借金をするほど家計が困っていたとは夢にも思っていなかったのでしょう。

 1789年、家賃の安い住まいに引っ越しながらどうにかウィーンでの生活をしていると、カール・リヒノフスキー侯爵からベルリン旅行の誘いを受けると、ウィーンでの成果が上がらないモーツァルトはこの誘いを受けて侯爵と同行してベルリンへと旅立つのでした。

 4月にウィーンを出発し、ドレスデンに到着するとザクセン選帝侯の御前演奏をする事ができ、ここでピアノ協奏曲第26番「戴冠式」を演奏すると、謝礼としてモーツァルトはいくらかの金額をもらい受けていたようです。

 5月にベルリンに着くと、プロイセン国王ヴィルヘルム2世の御前演奏に成功し、チェロを弾くという国王のために弦楽四重奏を6曲、皇女のためにピアノソナタを6曲という作曲依頼を受けます。

 どうにか依頼主を見つけてウィーンへ戻ってきますが、もともと貴族や王族の身分ではないモーツァルトには、作曲に対する謝礼金くらいしか臨時収入は無く、ウィーンの貴族たちと遊び歩くと、すぐにお金は無くなってしまうんでしょう。また、この頃妻コンスタンツェが病気がちになり、保養地バーデンへの度々の療養旅行も出費の原因になっていたようです。

 プロイセン王から依頼された曲を作曲していると8月には、ウィーンの皇帝からオペラの作曲依頼が入ります。これが歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」です。台本は今回もダ・ポンテが担当しました。作曲は年末には完成し、この年の大晦日には自宅にハイドンと借金で世話になっているプフベルクを招いて、ちょっとした試奏が行われていたようです。

 1790年1月歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」が初演されるとまずまずの成果を収めます。
ところが、2月になると皇帝ヨーゼフ2世が亡くなってしまうのでした。このヨーゼフ2世がモーツァルトの事をどう思っていたかは分かりませんが、少なくとも「啓蒙思想」を掲げ、音楽にも理解のあったとされる君主の死にはモーツァルトにも多少の影響を与えていたようです。

 後を継いで即位した弟のレオポルト2世は音楽にはさほど興味が無いらしく、新皇帝即位をきっかけに、モーツァルトも「これはチャンス!」と考えてレオポルト2世に宮廷では常勤の副楽長を志願して「請願書」を提出しますが、あっさりと却下されてしまい、ダ・ポンテに至ってはウィーンを追い出されてしまう始末でした。



借金もかさんでしまい、新皇帝にもあまり受け入れられないモーツァルト、今後は大丈夫なんでしょうか?つづきはまた明日。


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