初心者のクラシック

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「交響曲の父」フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(後編)

2006年08月10日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日は「交響曲の父」フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(後編)です。

結婚をして、仕事も順調に進んでいったハイドンですが、落ち着いた頃にルイジアが宮廷楽団に入ります。ルイジアとは公然とお付き合いをしますが、その後はどうなったんでしょう。今日はそのつづきからです。


そんな宮廷楽団生活を続けるハイドンですが、この頃には他にも出会いがありました。これは女性ではなく、同じ音楽家モーツァルトの出会いです。元々モーツアルトとの親交があったハイドンの弟ミヒャエルを通じて二人の大作曲家が出会う事となったようです。二人は弦楽四重奏を一緒に演奏するなど、かなり親しい付き合いだったようです。モーツァルトもハイドンに敬意を表して有名なハイドンセットと呼ばれる6つの弦楽四重奏曲を献呈しています。
モーツァルトとの出会いは作曲にも影響が出ており、この頃からモーツァルトの得意とする協奏曲やオペラをほとんど作曲しなくなりました。

私生活でも、仕事でもかなり充実した暮らしをしていたハイドンですが、1790年、ハイドンが58歳の年に彼の理解者でもあり、雇い主でもあるニコラウス・エステルハージ侯爵が亡くなってしまいます。後継者はあまり音楽には興味が無かったため、経費節減として多くの宮廷楽団員を解雇してしまいます。ハイドンも宮廷楽団を引退し、年金生活を送ることとなります。しかし、ハイドンの音楽に対する情熱はとどまる事知らず、ドイツの興行家ペーター・ザロモンと共にイギリスへの演奏旅行を画策することになりました。
そんな、ザロモンとの打ち合わせのためドイツを訪れていた時期でしょうか、またしても運命的な出会いがありました。若き日のベートーヴェンがハイドンのもとを訪れて来たのでした。その後も今度はベートーヴェンがハイドンの住むウィーンへ彼を訪ね、短期間ですがハイドンに師事します。しかし、作風の違いからなのか?お互いにあまりいい印象を受けなかったらしく、その後親交があったという話は無いようです。

60歳を過ぎる頃、1791年~1795年の間に2回のイギリス演奏旅行へと乗り出します。イギリスでの演奏は大成功のうちに終わり、聴衆からも絶大な支持を得たハイドンはこの旅行で富と名声を一度に手に入れる事になります。この頃に彼の有名な交響曲「驚愕」「軍隊」「太鼓連打」などの名曲を次々に作曲しました。
また、宮廷楽団を辞めてからもルイジアとのお付き合いは続いていたらしく、イギリスとウィーンの間で文通をしていたようです。ロンドン滞在中には妻のマリアからも一通の手紙が届いていました。

それは「ウィーン郊外に庭付き一戸建てのいい物件を見つけたからお金を送って欲しい。自分が未亡人になったらそこで暮らすから」という内容のものでした。完全に冷え切ってますね。正に熟年離婚寸前の状態でしょうか?ハイドンも愛人がいましたからどっちもどっちかもしれませんが、
そんな妻の手紙に応えてハイドンはマリアのためにその家を購入していたようです。しかし、そんな妻マリアの願いも虚しくマリアはリュウマチを患ってハイドンより先に亡くなってしまうのでした。
それは1800年3月で、ハイドンは68歳になっていました。

妻の死後2ヶ月もすると、ハイドンはルイジアに対する財産分与の遺言を書いています。そして、その中で「再婚するならルイジア以外には考えられない」とも書いていたようです。しかし二人が再婚する事は無く、ルイジアも夫のアントニオの死後は全く別の男と再婚しています。
70歳を過ぎるとさすがのハイドンも持病が悪化し、深刻な状態になってしまいますが、この頃にはそんなハイドンのお見舞いにたくさんの客が訪れていたようです。使用人に看護を受け闘病生活を続けるうちに、ハイドンは再度遺言を書き直したそうです。献身的に看護をしてくれた使用人に対する遺産相続を多く割り当てるようにしていたようです。
1809年、長きに渡る闘病生活を終えて、永遠の眠りにつくのでした。享年77歳の生涯でした。



モーツァルトとの出会いはその後のハイドンにかなり影響を与えていたんでしょうね。それにしても、ある意味ハイドンはルイジア一筋だったんですね。遺産相続までさせてしまうなんて、しかも、奥さんに一戸建てまで買ってますから、この時代もヒットメーカーは凄いんですね。


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