たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第3話)です。
≪作曲家の肖像≫
この顔が一番有名ですよね。
【Wolfgang Amadeus Mozart】
さて、馬車の長旅が続くモーツァルト一家今日はどこへ向かうのでしょうか?続きをどうぞ。
(第3話)【そしてイギリスへ】
パリでは5ヶ月ほど過ごすと、次に向かうのはイギリスでした。
イギリスはロンドンに到着すると、ここでもモーツァルトの噂は既に伝わっており、ロンドに着いて間もなく、そしてまたしても御前演奏。
国王ジョージ3世をはじめとする王族たちも、モーツァルトの演奏を高く評価し、ロンドンでも、モーツァルトフィーバーを巻き起こすのでした。
更に、ロンドンでは既に産業革命が起こっていたため、モーツァルトの音楽は王族たちだけではなく、演奏会に訪れたロンドン市民たちも絶大な支持を集めるのでした。
天才モーツァルト姉弟を一目見ようと演奏会に訪れたロンドン市民のチケット収入は莫大な額になっていたようです。
ロンドンでの収穫は金銭的なものだけでは無く、バッハの息子クリスチャン・バッハとの出会いにもあったようです。イタリアで学んだ後にロンドンで活躍していたクリスチャン・バッハは、モーツァルトに音楽の指導を行うだけではなく、年の離れたこの二人のピアノ連弾演奏は、ぴったりと息があっており周囲を驚かせたと言われています。
イギリスでも絶大な評価を受けるモーツァルトでしたが、この頃父レオポルトが病に倒れ、イギリス滞在が予想外に長くなってしまいましたが、モーツァルトはこの間も作曲をしており、最初の交響曲を作曲していたようです。
レオポルトが病から回復すると、1765年モーツァルト一家はイギリスを引き上げる事になります。帰途に立ち寄ったオランダでは、モーツァルトと姉のナンネルがチフスにかかり、死線をさまようほどの重体に陥ってしまいますが、ふたりともなんとか回復し、一命をとりとめます。
オランダを出ると、パリに立ち寄り、スイスを経由して帰途でも各地で演奏会を続けながらゆっくりと故郷への道をたどります。そしてようやくザルツブルクへたどり着いたのは、1766年の11月になっていました。
モーツァルトがザルツブルクを出発したのが1763年で7歳のときでしたから、3年半に渡る長旅の間に彼は10歳になっていました。旅費にも当然膨大な経費がかかっていたようですが、それにあまりある収入を得ての帰郷となりました。
ザルツブルクに帰ると旅行先の各地での評判もあり、モーツァルトには大量の作曲依頼が舞い込んでいたようです。
1767年、ウィーンで皇女マリア・ヨゼファとナポリ王フェルディナントの結婚式がある事を知ったレオポルトは再び家族を連れ、ウィーンへ向かいます。この結婚式でモーツァルトに華麗な演奏をさせ、再び名声を得ようとしていたのでした。
ところが皇女ヨゼファは流行中の天然痘にかかり急逝してしまったため、この結婚式は取り止めになるのですが、レオポルトもウィーンで流行した天然痘の伝染を避けようと、ボヘミア地方へ非難したのですが、子供たちは天然痘にかかってしまうのでした。
子供たちが天然痘から回復した1768年の1月にようやくウィーンへ入り、女帝マリア・テレジアと新皇帝ヨーゼフ2世に謁見を許される事になります。このとき皇帝からの依頼で宮廷劇場のための歌劇「みてくれの馬鹿娘」を作曲するのですが、この曲がウィーンで演奏される事は無かったのでした。
ウィーンの宮廷劇場では、既に12歳になっていたモーツァルトは「ピアノのうまい可愛い坊や」ではなく、ヨーロッパ主要都市の各地で実績を積んだ「強力なライバル」として認識されるようになってしまっていたのでした。
そのため、ウィーンでのモーツァルト作曲の歌劇演奏を快く思わなかった劇場関係者たちが故意による妨害工作を行ったため、ウィーンでこの歌劇が初演されなかったのではないかと、現在では考えられているようです。
ヨーロッパ旅行を終え、ようやくザルツブルクへ帰ってきたモーツァルト一家でしたが、久々のウィーンでは意地悪されてしまいました。次はどこへ行くのでしょう?つづきはまた明日。
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今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第3話)です。
≪作曲家の肖像≫
この顔が一番有名ですよね。
モーツァルト : クラリネット協奏曲イ長調ドホナーニ(クリストフ・フォン), クリーヴランド管弦楽団, コーエン(フランクリン), マック(ジョン), マックギル(デヴィッド), モーツァルトユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
さて、馬車の長旅が続くモーツァルト一家今日はどこへ向かうのでしょうか?続きをどうぞ。
(第3話)【そしてイギリスへ】
パリでは5ヶ月ほど過ごすと、次に向かうのはイギリスでした。
イギリスはロンドンに到着すると、ここでもモーツァルトの噂は既に伝わっており、ロンドに着いて間もなく、そしてまたしても御前演奏。
国王ジョージ3世をはじめとする王族たちも、モーツァルトの演奏を高く評価し、ロンドンでも、モーツァルトフィーバーを巻き起こすのでした。
更に、ロンドンでは既に産業革命が起こっていたため、モーツァルトの音楽は王族たちだけではなく、演奏会に訪れたロンドン市民たちも絶大な支持を集めるのでした。
天才モーツァルト姉弟を一目見ようと演奏会に訪れたロンドン市民のチケット収入は莫大な額になっていたようです。
ロンドンでの収穫は金銭的なものだけでは無く、バッハの息子クリスチャン・バッハとの出会いにもあったようです。イタリアで学んだ後にロンドンで活躍していたクリスチャン・バッハは、モーツァルトに音楽の指導を行うだけではなく、年の離れたこの二人のピアノ連弾演奏は、ぴったりと息があっており周囲を驚かせたと言われています。
イギリスでも絶大な評価を受けるモーツァルトでしたが、この頃父レオポルトが病に倒れ、イギリス滞在が予想外に長くなってしまいましたが、モーツァルトはこの間も作曲をしており、最初の交響曲を作曲していたようです。
レオポルトが病から回復すると、1765年モーツァルト一家はイギリスを引き上げる事になります。帰途に立ち寄ったオランダでは、モーツァルトと姉のナンネルがチフスにかかり、死線をさまようほどの重体に陥ってしまいますが、ふたりともなんとか回復し、一命をとりとめます。
オランダを出ると、パリに立ち寄り、スイスを経由して帰途でも各地で演奏会を続けながらゆっくりと故郷への道をたどります。そしてようやくザルツブルクへたどり着いたのは、1766年の11月になっていました。
モーツァルトがザルツブルクを出発したのが1763年で7歳のときでしたから、3年半に渡る長旅の間に彼は10歳になっていました。旅費にも当然膨大な経費がかかっていたようですが、それにあまりある収入を得ての帰郷となりました。
ザルツブルクに帰ると旅行先の各地での評判もあり、モーツァルトには大量の作曲依頼が舞い込んでいたようです。
1767年、ウィーンで皇女マリア・ヨゼファとナポリ王フェルディナントの結婚式がある事を知ったレオポルトは再び家族を連れ、ウィーンへ向かいます。この結婚式でモーツァルトに華麗な演奏をさせ、再び名声を得ようとしていたのでした。
ところが皇女ヨゼファは流行中の天然痘にかかり急逝してしまったため、この結婚式は取り止めになるのですが、レオポルトもウィーンで流行した天然痘の伝染を避けようと、ボヘミア地方へ非難したのですが、子供たちは天然痘にかかってしまうのでした。
子供たちが天然痘から回復した1768年の1月にようやくウィーンへ入り、女帝マリア・テレジアと新皇帝ヨーゼフ2世に謁見を許される事になります。このとき皇帝からの依頼で宮廷劇場のための歌劇「みてくれの馬鹿娘」を作曲するのですが、この曲がウィーンで演奏される事は無かったのでした。
ウィーンの宮廷劇場では、既に12歳になっていたモーツァルトは「ピアノのうまい可愛い坊や」ではなく、ヨーロッパ主要都市の各地で実績を積んだ「強力なライバル」として認識されるようになってしまっていたのでした。
そのため、ウィーンでのモーツァルト作曲の歌劇演奏を快く思わなかった劇場関係者たちが故意による妨害工作を行ったため、ウィーンでこの歌劇が初演されなかったのではないかと、現在では考えられているようです。
ヨーロッパ旅行を終え、ようやくザルツブルクへ帰ってきたモーツァルト一家でしたが、久々のウィーンでは意地悪されてしまいました。次はどこへ行くのでしょう?つづきはまた明日。
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