たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「ピアノの魔術師」フランツ・リスト(第7話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Franz Liszt】
マリーと別れた後、パリを出ることを余儀なくされたリストですが、今日はその続きからです。
(第7話)【カロリーネ・フォン・ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人】
マリーのために半ばパリを追い出される形になってしまったリストでしたが、ワイマール公アレクサンダーを訪ねて、ワイマールを中心に活動を続ける事になりました。
その後はワイマールを中心に各地へ演奏旅行へ向かうことになるのでしたが、1847年ロシア(現在のウクライナ)の都市キエフを訪れました。キエフでいつものように演奏会を行っていると、リストの演奏に熱心に耳を傾ける女性がいました。カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人だったのです。
このカロリーネは、元々ポーランド貴族の家柄に生まれ、ロシアへ嫁いでいましたが、この頃には夫のニコラウス・ヴィトゲンシュタイン侯爵とは別居中だったようです。
カロリーネはリストの演奏に対して「貧民救済のための寄付」として大金を献金すると、それに対してリストがお礼に訪問すると、物腰やわらかで、教養あふれるカロリーネの魅力に取り付かれ、二人は恋に落ちてしまうのでした。(またかい!)
そして、翌1848年リストが忘れられなかったカロリーネはキエフを去りリストの住むワイマールのアルデンブルク壮へ駆け込んで来たのでした。このときリスト37歳、カロリーネは29歳でした。
ヨーロッパ各地で演奏活動を繰り広げるリストに対して、カロリーネはワイマールへ留まり、作曲に専念する事を提案するとリストもこれを快く引き受け作曲に力を入れることになるのでした。その後のリストの業績を考えると、「作曲家リスト」の誕生にカロリーネの存在は欠かせない人物だったのかもしれないですね。(カロリーネありがとう!)
やがて、ワイマールでも常任宮廷楽長に就任すると、リストの下にはワグナーやベルリオーズ、クララ・シューマンなどの音楽家が次々に彼のもとに集まってくるのでした。カロリーネもリストを訪れるこれらの音楽家たちを熱心にもてなして充実した日々を送るのでした。
一見幸福な日々を送っているようでしたが、カロリーネはニコラウス・ヴィトゲンシュタイン侯爵との離婚に決着のつかないことに悩みこの頃、一度ロシア皇帝ニコライ1世にも働きかけていたようです。しかし依然として離婚には決着が付きませんでした。
1850年、ワイマールでワーグナーの歌劇「ローエングリン」が初演されると、後にリストの娘コジマと結婚する事になる指揮者ハンス・フォン・ビューローを初めとする多くの音楽家たちが更に彼のもとに集まってくるのでした。
1852年にはリストの「ピアノ協奏曲第1番」をリスト自身のピアノそしてベルリオーズの指揮という豪華キャストで初演。1854年には自らの指揮で交響詩「前奏曲」を初演。1857年には、「ピアノソナタロ短調」「ピアノ協奏曲第2番」を次々に初演し、作曲家としての才能も発揮し始めるのでした。
マリーと別れて、カロリーネと暮らし始めるリスト。彼女の勧めで作曲にも力を入れていくリストでしたが、今度はうまくやっていけるか心配ですね。(また○○侯爵夫人だし)つづきはまた明日。
♪ピアノ協奏曲第1番の記事はこちら ♪ピアノ協奏曲第2番はこちら
♪交響詩「前奏曲」の記事はこちら
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マリーと別れた後、パリを出ることを余儀なくされたリストですが、今日はその続きからです。
(第7話)【カロリーネ・フォン・ザイン・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人】
マリーのために半ばパリを追い出される形になってしまったリストでしたが、ワイマール公アレクサンダーを訪ねて、ワイマールを中心に活動を続ける事になりました。
その後はワイマールを中心に各地へ演奏旅行へ向かうことになるのでしたが、1847年ロシア(現在のウクライナ)の都市キエフを訪れました。キエフでいつものように演奏会を行っていると、リストの演奏に熱心に耳を傾ける女性がいました。カロリーネ・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人だったのです。
このカロリーネは、元々ポーランド貴族の家柄に生まれ、ロシアへ嫁いでいましたが、この頃には夫のニコラウス・ヴィトゲンシュタイン侯爵とは別居中だったようです。
カロリーネはリストの演奏に対して「貧民救済のための寄付」として大金を献金すると、それに対してリストがお礼に訪問すると、物腰やわらかで、教養あふれるカロリーネの魅力に取り付かれ、二人は恋に落ちてしまうのでした。(またかい!)
そして、翌1848年リストが忘れられなかったカロリーネはキエフを去りリストの住むワイマールのアルデンブルク壮へ駆け込んで来たのでした。このときリスト37歳、カロリーネは29歳でした。
ヨーロッパ各地で演奏活動を繰り広げるリストに対して、カロリーネはワイマールへ留まり、作曲に専念する事を提案するとリストもこれを快く引き受け作曲に力を入れることになるのでした。その後のリストの業績を考えると、「作曲家リスト」の誕生にカロリーネの存在は欠かせない人物だったのかもしれないですね。(カロリーネありがとう!)
やがて、ワイマールでも常任宮廷楽長に就任すると、リストの下にはワグナーやベルリオーズ、クララ・シューマンなどの音楽家が次々に彼のもとに集まってくるのでした。カロリーネもリストを訪れるこれらの音楽家たちを熱心にもてなして充実した日々を送るのでした。
一見幸福な日々を送っているようでしたが、カロリーネはニコラウス・ヴィトゲンシュタイン侯爵との離婚に決着のつかないことに悩みこの頃、一度ロシア皇帝ニコライ1世にも働きかけていたようです。しかし依然として離婚には決着が付きませんでした。
1850年、ワイマールでワーグナーの歌劇「ローエングリン」が初演されると、後にリストの娘コジマと結婚する事になる指揮者ハンス・フォン・ビューローを初めとする多くの音楽家たちが更に彼のもとに集まってくるのでした。
1852年にはリストの「ピアノ協奏曲第1番」をリスト自身のピアノそしてベルリオーズの指揮という豪華キャストで初演。1854年には自らの指揮で交響詩「前奏曲」を初演。1857年には、「ピアノソナタロ短調」「ピアノ協奏曲第2番」を次々に初演し、作曲家としての才能も発揮し始めるのでした。
マリーと別れて、カロリーネと暮らし始めるリスト。彼女の勧めで作曲にも力を入れていくリストでしたが、今度はうまくやっていけるか心配ですね。(また○○侯爵夫人だし)つづきはまた明日。
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