千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

大阪住吉の別荘

2010-03-23 16:05:53 | 芝川家の建築

芝川又三郎撮影*):住吉別邸の門(千島土地株式会社所蔵資料 P25_001)

芝川家が大阪の住吉に、いつ頃から、どのような経緯で別荘を持つようになったのかは明らかではありません。しかし、1892(明治25)~1893(明治26)年、当時中学校在学中の芝川又三郎の日記には、休日に「列車」で住吉に行ったという記述がしばしば登場します。

と言っても、又三郎のお目当ては「別荘」ではなく「運動場」。
そこで「テント」を張って遊戯したり、1892(明治25)年10月に設置した「運動機械(「体操器械」とも)」を試したり、旗取りをしたりと弟・又四郎らと共に充実した余暇を満喫した様子です。


「住吉運動場」(芝川又三郎撮影:「紫草遺稿」より)
写真はブランコですが、「新設の体操器械を始めて試」みた翌日に「疲労にて手の上下自由ならず」とあることから、鉄棒などの器具もあったのかも知れません。


「住吉運動場」(千島土地株式会社所蔵資料 P40_002)
又三郎の妹 エンの夫・塩田與兵衛著「芝川得々翁を語る」には、「私はその別荘(※筆者注:住吉の別荘のこと)で又平翁が着物の裾を上げて、皆と芝生の上で円陣を作って遊んで居られる写真を見たことがあります。」との興味深い記述があります。まさにこの写真のことかと思われますが、確かに正面中央の男性の後姿は芝川又平にそっくりです。

しかし、この写真が撮影された頃の又平は既に70代。大阪経済界の重鎮であった彼が、こんなに無邪気に家の人々と遊びに興じる姿には、何だか感動を覚えてしまいます。



さて、この「運動場」や「別邸」はどこにあったのでしょうか。

はっきりしたことはわかりませんが、先述の「芝川得々翁を語る」には「住吉神社の北門の前」と記述されており、また、帝塚山学院の創設者・庄野貞一著「紫草の生涯」にも「南海住吉神社*2)横の別荘広場」という記述があることから、住吉大社の北側あたりにあったものと思われます。

そして、又三郎が住吉への行き来に乗った「列車」は阪堺鉄道(現・南海電鉄 南海本線)であり、最寄駅は「住吉停車場」*3)を利用していたのではないでしょうか。


住吉停車場(「阪堺鐵道経歴史」より)



さて、又三郎は住吉を訪れた際、徒歩や自転車でしばしば「松原」へ行ったとの記述を残していますが、当時、住吉大社や帝塚山の付近には松林が多く、殊に1873(明治6)年に開設された住吉公園の辺りは、松が林立する景勝地・海浜の松原として賑わっていたといいます。

芝川家は船場伏見町本邸にも庭園を有していましたが、都市化が進む環境の中、風光明媚でありながら、1885(明治18)年の阪堺鉄道の開通で交通の便も良かったこの地に別荘を構えたのでしょう。

しかし、この住吉の地も、大正から昭和初期にかけて耕地整理や土地区画整理が実施され、住宅地へと変貌していくのです。


*)芝川又三郎は、1893(明治26)年より写真を始めている。
  参考:芝川又三郎 ~写真、釣り、そして狩猟~

*2)「南海住吉神社」とは、南海鉄道(当時)住吉神社駅のことで、現・阪堺電軌上町線「住吉駅」を指すと思われる。

*3)「住吉停車場」は、現在の「住吉大社駅」の少し北、粉浜村新家(現在の住吉警察署の裏付近)にあった。


■参考資料
「住吉村誌」、(財)住吉村常盤会、1976再版
「住吉区史」、(財)大阪都市協会編集、住吉区制七十周年記念事業実行委員会、1996
「阪堺鉄道経歴史」、阪堺鉄道編、1899緒言
「紫草遺稿」、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
「芝川得々翁を語る」、塩田與兵衛、1939


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