千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

芝川又三郎 ~写真、釣り、そして狩猟~

2010-01-29 14:22:41 | 芝川家の人々
「紫草遺稿」に収められた芝川又三郎の日記からは、様々なことに打ち込み、充実した毎日を過ごす又三郎の姿を読み取ることができます。中でも又三郎は旅行・写真・釣り・狩猟が好きだったようで、それらに筆の多くを割いています。


最初に登場するのは写真。又三郎が写真を始めたのは明治26(1893)年、15歳の中学校在学中のことです。7月4日の日記に「昨日写真器械到着せり、本日より暗室に取掛れり」と記されており、8月に入って幾枚か試し撮りをした後、8月10日から写真術を学ぶため、葛城思風*)のもとへ通いました。

そもそも、なぜ又三郎が写真に関心を持ったのかについて明確な記述はありませんが、明治29(1896)年1月発行の雑誌『六稜』第一号に投書した「写真術に就て」という文章には、「自分の好きなことなので、我田引水と思われるかも知れないが」と断った上で、写真の利点として「理化学的なる事」、「体育を助くる事」、「危険ならざる事」、「美術心を起こす事」、「歴史上必要なる事」などを挙げています。

逆に欠点として挙げられているのは、「時間を多く要する事」、「金銭を多く要する事」の二点。確かに当時は写真がまだまだ珍しい時代、機材も相当高価なものであったに違いなく、子弟が趣味として写真を嗜めることは、芝川家の素封家ぶりを垣間見るひとつのエピソードを言えるでしょう。


又三郎撮影:弟・又四郎(千島土地株式会社所蔵 P12_038)


又三郎撮影:須磨(千島土地株式会社所蔵 P12_008)


又三郎撮影:大阪住吉別邸の門(千島土地株式会社所蔵 P25_001)



写真と同じ頃、又三郎は釣りにも夢中だったようです。明治27年8月12日の日記は「世の中に、面白き者を問はば、釣も其一なる可し」と始まり、芝川家の別邸があった須磨において釣りに出かけ、お昼までに96匹もの魚を釣ったと記されています。

後年、又三郎は後述のように狩猟を始めますが、猟期外には釣りを楽しんだようです。



日記に狩猟に関する記事が登場するのは明治32(1899)年~33(1900)年にかけての、熊本の第五高等学校在学中の冬休みのこと。本格的に打ち込むようになったのは、京都帝国大学に入学し、狩猟地であった須磨に通いやすくなってからのようで、明治33(1900)年の猟期が始まると、毎日銃を肩に山に赴き、小鳥の獲物を得たと書かれています。 

少し大きめの獲物を捕ることは一人では難しく、知人から猟犬を借りて兎を仕留めることもありましたが、獲物は大抵鳥だったようで、日記には、船上から鴨を撃とうとしたが、十二番径の銃では射程距離まで近づくのが大変であることや、鶉(うずら)に対し発砲するも命中せず呆然としたといったエピソードが生き生きと描かれています。


猟姿の又三郎(千島土地株式会社所蔵 P06_066) 
弟・又四郎の言によれば、又三郎は獲物の調理もなかなか上手であったそうです。

そんな又三郎、明治34(1901)年には念願の“優秀な”猟犬「トー」を手に入れます。これまで芝川家にも6頭の犬がいたのですが、狩猟に素質ある犬もあれば、「てんでだめ」な犬もあったようで、又三郎は「予は此犬を得たる以上は兎を得る事殆ど確実にして、一度追ひ出さるるときは之を逸する心配なく満足限りなし」とその喜びを綴っています。


愛犬「トー」(千島土地株式会社所蔵 P12_041) 
又三郎が福島良助より譲り受けたこの犬は、もともと西郷侯爵から福島氏に贈られた犬でした。


弟、妹達と愛犬(千島土地株式会社所蔵 P12_006) 



以上、又三郎の愛した写真、釣り、狩猟についてご紹介しましたが、これらに共通するのは野外で体を使う趣味である点です。先述の通り、又三郎自身も写真の利点として「体育を助くる事」を挙げていましたが、幼少時、体が弱かった又三郎は、意識的に野外の空気に触れ、自然の中で体を動かす活動を通じて体力的にも、そして精神的にも自らを鍛えようとしていたのかも知れません。

※文中の年齢は全て数え年で表記しています。


*)葛城思風
写真師。明治10(1877)年に大阪で写真館を開業。


■参考資料
「紫草遺稿」、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
「児童生活第六十八号別冊 紫草の生涯」、庄野貞一
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969


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芝川 又三郎

2010-01-28 10:28:36 | 芝川家の人々
芝川又三郎は、二代目芝川又右衛門の長男として明治9(1876)年に生まれました。

4歳で母を亡くし、祖母・きぬに育てられますが、病弱であったこともあって就学せず、家庭教師から謡曲や習字、絵画、漢籍などを学びます。*)

しかし、初代住友総理事・廣瀬宰平氏からこういった教育法は時代にそぐわないとの忠告を受け、14歳で高等小学校2年に編入。首席で卒業後、大阪府立尋常中学校を経て、明治29(1896)年9月、熊本の第五高等学校へ入学しました。


中学校時代の又三郎(千島土地株式会社所蔵 P12_025)


この年満20歳となった又三郎は、父・又右衛門の命により志願兵として大阪歩兵第八連隊に入隊します。高等学校入学直後、学業の途上での入隊に当初又三郎は意義を唱えますが、「発育盛りの20歳前後に規則正しい軍隊生活を送るのは理想的な健康方法であり、大学卒業後に年をとってから兵役につくのはつらいから」との医師・清野勇氏*2)の勧告を受けた又右衛門の説得に従うことになります。

大阪での1年間の兵役生活を終えた又三郎は熊本での高等学校生活に戻ります。この頃、英語教師として五高に赴任していた夏目金之助(漱石)の授業を受けたそうで、ディケンズの『クリスマス・キャロル』を習ったのだとか。


熊本第五高等学校(千島土地株式会社所蔵 P27_024)
この写真は、又三郎自身が撮影した写真である可能性が高い。


五高卒業後、明治33(1900)年に京都帝国大学法科大学へ入学し、学業のみならず、時折召集される軍事演習に励みながらも、各地を旅行したり、趣味の狩猟や写真を楽しんだりと充実した学生生活を送ります。しかしながら、論文「日本小工業之前途」を書き上げ、卒業試問を間近に控えた明治37(1904)年3月、日露戦争へ召集されます。中途で学業を絶つことを遺憾に思った又三郎は、在阪の講師に卒業試問を実施してもらい法学士号を取得、大学を卒業後、1月も経たない4月23日に大阪築港より出征しました。


出征前の又三郎(千島土地株式会社所蔵 P11_023)


召集された3月6日に記された弟・又四郎宛書簡に、召集に際しての又三郎の心情を窺うことができます。
「・・・小生一身上に取りては出征は遺憾に候へ共、国家の為余儀なき事に候、過日も申通り貴君は小生の如き運命とならざる方法を講ぜられ度候、・・・芝川の国家に対する貢献は小生一身にて充分と存候、生還は期し難く全家の責任は先貴君の双肩にかかり候間、第一身体に注意し、第二に知識を磨き芝川家をして永続せしめん事を祈上候、・・・」

出征後間もない5月26日、日本軍が大きな損害を受けた激戦・南山の戦いで、又三郎は敵の銃弾を受けて重症を負い、2日後の5月28日に戦死を遂げます。享年29歳。

* * *

志願兵陸軍歩兵中尉・芝川又三郎の戦死は、芝川家はもとより、その周囲にも大きな衝撃を与えました。

その様子について、当時芝川商店の店員で、後に又三郎の妹・エンの夫となる塩田與兵衛氏が、その著書「芝川得々翁を語る」の中で以下のように記しています。

「翁(筆者注:二代目芝川又右衛門)の人格が私に最も強く響きましたのは、長男又三郎中尉が日露戦役に南山で戦死された時でありました。・・・当時既に有数の資産家である伏見町芝川家の長男で、まだ世間に数の少なかった法学士で、殊に南山で戦死された時の、日の丸の扇子を開いて部下の進撃を指揮して居られる錦絵迄、御霊神社前の版画屋の店先を賑はして居った、志願兵出身芝川中尉の葬式が、時を同じうせる近傍の志願兵出身将校の葬式と、格段の差を以て質素簡明に行はれましたのは、軍国の世の中によき清涼剤として、無言の警告を世間に与へた観がありました。以後多少葬式の風が改まったやうに感ぜられました。私は芝川の当主は余程偉い人だと云ふ感じを得ました。」

日露戦争をポーツマス条約へと導いた日本海海戦で、日本海軍が大きな勝利を収めた後の明治38年6月、第四師団の計らいで又三郎の追悼式がとり行われます。式には親戚知人はもとより、小学校や中学校の生徒も団体で出席したと言います。


*)記録によると、就学前に又三郎が学んだとして記録にあるのは以下の通り。
 謡曲(生一佐兵衛)、習字(三瓶浩齋)、漢籍(浦上三石)、詩法(田中牛門)、絵(西山完瑛)、抹茶(磯矢宗庸)、囲碁(湖水氏)

*2)清野 勇(1848嘉永元年~1926昭和元年)は、現在の岡山大学医学部や大阪大学医学部の基礎を築いた医学教育者である。清野が少年時代、伊豆国那賀郡中村(明治18年に那賀村に改称)の、土屋宗三郎(三餘)の塾で学んでいたことは知られていない。


■参考資料
「紫草遺稿」、津枝謹爾編輯、芝川得々、1934
「児童生活第六十八号別冊 紫草の生涯」、庄野貞一
「芝川得々翁を語る」、塩田與兵衛、1939
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969


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芝川家刊行文献「紫草遺稿」

2010-01-26 16:55:03 | 芝川家刊行文献
「紫草遺稿」は、“紫草”・芝川又三郎の作文や日記、書簡などの遺稿を集めたもので、又三郎の父・二代目又右衛門が、日露戦争において戦死した息子の追善供養に作成したものです。又三郎の33回忌(昭和11年)を記念して、昭和9(1934)年に非売品として出版されました。



本書は乾・坤の2冊から成り、いずれも随分と傷んではいますが、表紙には芝川家の定紋「四ツ目」が打たれ、又右衛門の筆による題字が美しい、豪華な装丁です。





乾巻には、又三郎の出身校である京都帝国大学教授で法学士の織田萬氏による書(上)、坤巻には、松方海東氏*)書による「悼又三郎君詩」(下)の画像がそれぞれ掲載されています。

乾・坤合わせて770ページにも及ぶ本書は、「第一編 小学校時代」に始まり、「第二編 尋常中学校時代」、「第三編 志願兵及第五高等学校時代」、「第四編 京都帝国大学及日露戦役時代」と時期ごとに又三郎の文章が掲載されています。

また、「第五編 紫草遺稿付録」には日露戦争における南山戦況講和、従軍日記、談話、そして前出の織田萬教授、第五高等学校・武藤虎太教授から寄せられた文章が収められました。

本書は非売品として200部が印刷され、芝川家に関係の深い人々へ贈呈されたようです。


*)松方海東正義(1853-1924)
  大蔵卿・大蔵大臣を歴任し、第4代・6代の内閣総理大臣も務めた。
  海東は松方正義の号。その書は「弘法大師の真趣を得たり」と評価された。


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