千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

大阪伏見町 芝川家「旧洋館」Ⅱ

2007-11-06 13:39:13 | 芝川家の建築
芝川店の事務所として、1890(明治23)年に建てられた「旧洋館」は、1927(昭和2)年、隣地に「芝川ビル」が建設され、その芝川ビルで1929(昭和4)年から花嫁学校「芝蘭社家政学園」が開校されてからは、花嫁学校の教室の一部として利用されていました。


「芝蘭社家政学園」建物配置図:1935(昭和10)年(千島土地株式会社所蔵資料 F04_010)
「旧洋館」が洋裁室となっていることがわかります。


(千島土地株式会社所蔵資料 P33_008)
こちらは花嫁学校の様子です。窓際の子供服から、洋裁の授業風景のようですし、窓の形からも、「旧洋館」の内部写真ではないかと思われますが、はっきりしたことはわかりません。

この「旧洋館」は、戦後はテナントの入居により、通り沿いの窓が切り取られてドアになったり、テントや出窓がつけられたりと、建物の姿はすっかり様変わりします。

(千島土地株式会社所蔵資料 P81_003)


(千島土地株式会社所蔵資料 P81_001)

そして1995(平成7)年、阪神・淡路大震災によって煙突部分が被害を受けたことを契機に、遂に取り壊されることとなりました。当時は社内に、今ほどの近代建築の保存・活用に対する情熱がなかったこともありますが、地震による被害がなければ、おそらく現存していたことでしょう。暖炉や煙突の部材の一部は、弊社倉庫に保存されていますが、この「旧洋館」は、社内でもその取り壊しが大いに悔やまれている建物です。

※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

大阪伏見町 芝川家「旧洋館」

2007-11-06 11:53:57 | 芝川家の建築
大阪市中央区伏見町は、芝川又右衛門(初代)の代から芝川家の本邸が構えられた場所で、百足屋又右衛門“百又”発祥の地と言えます。

この場所に、1890(明治23)年に建てられたのが、この「旧洋館」と呼ばれる建物で、芝川家の事業を行っていた「芝川店」の事務所として利用されていました。


(千島土地株式会社所蔵資料 P22_002)

1890(明治23)年の大阪では、まだまだ洋風建築が珍しかった時代。芝川家の「旧洋館」は、小規模ではありますが、公共建築でも銀行建築でもない、一商家が建てた洋館としては、非常に早い時期の建物であると言えます。

ではなぜ、このような早い時期に、芝川家は洋風の事務所を建てたのでしょうか。

この「旧洋館」建築当時、7歳であった芝川又四郎の回顧録には、又四郎の祖父・芝川又右衛門(初代)が、懇意にしていた初代住友総理事・広瀬宰平から「君の家は旧弊だから、この際すっかり改革せよ、建物も洋館にせよ」という教えを受けたと書かれています。事実、「旧洋館」建築の2年後である1892(明治25)年には、芝川店に住友から新しい支配人・香村文之助を迎え、帳簿や規則を洋式に改める改革が行われています。このことからも、“洋風”の事務所が建てられた要因のひとつには、店の経営を近代的なものに転換する目的があったと言えるのではないかと思います。

洋館が建ったことで、これまでは和風建築の中、正座で執務を行っていた店員の人達は、椅子に腰掛けて執務を行うことになりますが、店員の多くが、椅子は足がだるいからと四角い台を用意し、その上にござ、座布団を敷いて、正座をして執務をしていたとか。
現代、椅子式の生活に慣れた私達の多くは、正座が苦手ですが、当時はまさに、その反対のことが起こっていたという興味深いエピソードです。明治時代の人々も、急激な西洋化に自らの身体を慣らしていくのは大変だったのですね。


■参考資料
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)

※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。


芝川家とは

2007-11-06 10:11:10 | 芝川家について
1912(明治45)年に千島土地株式会社を設立した芝川家は、江戸時代より、大阪を中心に何代にもわたって多数の事業を手掛けてきた一族です。「千島土地 アーカイブ・ブログ」の初回は、芝川家がどのような一族であったのか、家系図をご覧いただきながら、その概要をご紹介しましょう。



まず、芝河多仲、この方が芝川家の祖とされる方です。対馬の出身で、京都で医師をしておりました。

多仲の娘・わかに婿入りしたのが、京都室町の呉服商・百足屋 奥田仁左衛門家で手代をしていた新六です。新六は後に、大阪淀屋橋筋浮世小路に独立し、やはり「百足屋」の屋号で呉服商を営みました。

新六には男の子がなかったことから、長女・たきが、兵庫県有馬郡大河瀬村・城戸家の手代であった藤助を婿に迎えます。藤助は、新六の没後、新助と名を改め、1837(天保8)年頃より、大阪伏見町4丁目に移り、唐物商(貿易商)を始めました。この新助の代より、“芝河”から“芝川”になったと言われています。

新助の長女・きぬに婿養子として迎えられたのが、のちに初代・又右衛門となる中川利三郎です。初代・又右衛門が大阪伏見町心斎橋筋において唐小間物商として独立したことで、芝川家は「百足屋又右衛門(百又)」と「百足屋新助(百新)」に分かれることになります。

「百又」芝川家として独立後、又右衛門も商人として成功、大いに財を成しますが、1883(明治16)年、突如唐小間物商を廃業し、土地の購入を始めます。これには変動の時代、唐小間物商は目利きのいる危険な仕事であり、徒に財産を増やすことに固執するよりも、これまでに築いた財産の守勢こそ重要であるとの又右衛門の深慮がありました。以後、二代目又右衛門、又四郎と、土地・不動産の運営が芝川家の主な事業となり、現在に至るのです。


■参考資料
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、芝川又四郎、1969(非売品)
『日本を創った戦略集団 建業の勇気と商略』、堺屋太一責任編集、集英社、1988

※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず当ブログ管理者までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。