千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

「大縄地事件」

2017-05-22 13:56:35 | 芝川家の土地開発
2017年、大阪港は開港150年を迎えます。

安政5(1858)年の日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約調印を機に、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に大阪の開市が決まったものの、開市直後は幕末の混乱の最中で、貿易は殆ど行われませんでした。その後、運上所(税関)のある安治川上流の川口で居留地の整備が進められ、明治元(慶応4)年7月15日(1868年9月1日)に大阪港が開港したのです。

しかしながら河川港であった大阪港は水深が浅く、大型船舶の出入りに不便でした。そこで築港への機運が高まり、明治30(1897)年10月に天保山に港を新設する築港工事が着工します。この築港工事に際して生じたのが「大縄地事件」でした。



明治11(1878)年、芝川又右衛門が千歳新田50町歩を購入した際、千歳新田地先の大縄地も購入しました。大縄地とは、新田開発において開発(埋め立て)許可を受けた区域のことです。「大縄地事件」は、この大縄地に対する権利について、芝川が大阪市と争った事件でした。芝川の大縄地に関する書類は、本件が落着した際に大阪市に手渡されたため、社内に残された資料は限られていますが、それらをご紹介しながら、この事件について紐解いてみたいと思います。


▲千歳新田位置図(『千島土地株式会社設立100周年記念誌』p.37より)


▲千歳新田未開墾地(大縄地)地図 (千島土地株式会社所蔵資料 T02_092_002)


千歳新田地先の大縄地は、文政12(1829)年に、葭屋正七が地代金(上納金)を納めて、大坂代官・岸武太夫より開発を許可されたものでしたが、埋め立てされぬまま所有者が転々と変わり、明治維新を迎えます。

明治5(1872)年に地券証が発行された際、当時の所有者であった珠玖覚兵衛が大縄地の沿革を具申し、翌年、大阪府知事から大縄地としての地券証が交付されますが、地租改正条例を受けて明治9(1876)年に新旧地券の交換が行われた時には、満潮の際に海面に没する大縄地については、海面との分界がはっきりした時点で地券交付を申し出ることとして、新地券が発行されませんでした。

芝川又右衛門が橋本吉左衛門よりこの大縄地を購入した際、橋本名義を芝川名義に書き換えた地券証(旧地券証)は公布されましたが、現行の地券証がないことに不安を感じた又右衛門は、明治14(1881)年に「未開墾地所有権之義ニ付御願」を大阪府知事に提出し、他の海面との分界が明確になった際には、この願書が地券証と引き換えの確証となるよう指令して欲しい旨を申し入れ、建野郷三知事から承諾を得ていました。


▲永代田宅地売渡確証(同 T02_090_003)
芝川が橋本から千歳新田を購入した際のものと思われる。文中に「未開発場反別62町8反5畝19歩 但シ此地券証第47号1枚」とある。




▲地券証 写し(千島土地株式会社所蔵資料 T02_090_002)
千歳新田の地券証の内容を写したもの。上記資料に記載がある通り、「第47号地券之証」に大縄地のことが記載されている。


▲未開墾地所有権之義ニ付御願(一部)と大阪府知事からの指令(同 T03_001_002)


さて、この大縄地について芝川は開墾を計画し、明治28(1895)年、大阪府知事に「水面埋立願」を提出します。しかし、この出願に対し、府知事からは何の音沙汰もありませんでした。




▲水面埋立願、水面埋立設計書(同 T02_092_001)


ちょうどこの時、大阪市は築港の計画を進めており、明治29(1896)年5月には「大阪築港取調に関する報告書」が予算案とともに市会で可決されました。この予算案では、湾岸の土地を埋め立て、その売却費を総工費の一部に充てることになっていましたが、その中に、芝川が埋立を出願していた千歳新田地先の大縄地が、事前に何の相談もないまま含まれていたのです。


▲市の埋立計画に含まれた芝川、岡島の大縄地(同 T02_084_003)


明治30年に大阪市が内務省に築港工事設計書を提出した際、内務省から芝川、岡島の大縄地について問い合わせがあったことが、大縄地事件の発端となります。

芝川、岡島は、村山龍平の紹介で弁護士・高谷恒太郎(宗範)を代理人とし、本件に関する全権を委任しましたが、市側が代理人との交渉を拒んだため、事態はなかなか進展しませんでした。

そんな中、高谷が時の総理兼大蔵大臣の松方正義に呼ばれ、本件顛末の説明を求められます。高谷が、「芝川、岡島の両人は、大阪築港が必要な工事であることをよく理解しており、大阪市が両人の大縄地に関する権利を認めた上で交渉を進めるのであれば、妥協の余地がない訳ではない」旨を説明したところ、総理は大阪府知事(大阪市長を兼任しており、本件の交渉を担当)に対し、高谷と協議するよう通告しました。

話し合いはなかなか進みませんでしたが、知事が大阪株式取引所理事長の磯野小右衛門に本件の調停を依頼した結果、芝川、岡島は、所有する大縄地の9/10を大阪市に無償で寄付し、残り1/10については相当対価の12万円以上40万円以下の範囲で市に譲渡することを決議します。しかしながら、知事は12万円の支出も難しいとして、11万円を支出することを市議会で決した上で、これを了承するよう交渉してきたのです。これに対し、芝川、岡島は範囲外の金額では容認できないとして、再び調停は決裂しました。

知事らは市会に報告した金額が実現できない不面目を招いて困難な立場に立たされ、遂にこれまでの交渉が誤っていたことを謝罪します。そして最終的に、大縄地全体を11万円で売却するということで本件は落着したのです。


▲大縄地譲渡に関する契約書(同 T02_101_011)


明治30年9月7日、大縄地の譲渡代金11万円の受け渡しが行われ、この際、芝川の大縄地に関する関係書類は大阪市に引き渡されました。


▲大縄地関連資料領収書(同 T03_001_001)


さて、大縄地の譲渡代金11万円のうち、芝川の所得は64,359円22銭1厘でした。しかしながら、芝川は、市が自らの権利を蔑ろにしたことに対して毅然とした態度を取ったものであり、当初から大縄地によって利益を得ることは考えていませんでした。大阪市が芝川の大縄権を認めたことで目的は達せられたことから、芝川は、受け取った代金から交渉に要した実費を差し引いた全額を大阪築港費として大阪市に寄付します。


▲寄附願(同 T03_001_006)


この芝川の私心のない鮮やかな振る舞いは、多くの人に感銘を与え、明治32年12月には賞勲局から金杯が下賜されました。


▲金杯下賜(同 T03_001_007)

 


▲芝川の寄付を報じた新聞記事
(上左:1897年9月14日東京朝日新聞、上右:1897年9月12日大阪毎日新聞、下:1897年9月12日大阪朝日新聞)
大縄地事件の経過は、新聞でも随時報じられた。




■参考資料
『千島土地株式会社五十年小史』千島土地㈱、1962
『千島土地株式会社設立100周年記念誌』千島土地㈱、2012
『明治大正大阪市史 第3巻 経済篇 中』大阪市役所編纂、日本評論社、1934
『大阪港史 第1巻』大阪市港湾局、1959
『大阪築港100年 ―海からのまちづくり― 上巻』大阪市港湾局、1997
『大株五十年史』大阪株式取引所編、1928


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二代目・芝川又右衛門 ~日本女子大学校設立への関わり~

2017-01-10 08:51:32 | 芝川家刊行文献
2015年のNHKの朝ドラ「あさが来た」で注目された広岡浅子。加島屋・広岡家と芝川家は同じ大阪の財界人同士ですが、これまで当社の所蔵資料の中に、両家のつながりを示すものは見つかっていませんでした。

しかしながら、「あさが来た」の原作である古川智映子さんの『小説土佐堀川 広岡浅子の生涯』には、広岡浅子が支援した日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立を賛助した大阪の財界人の一人として芝川の名前が登場しており、実際に日本女子大学には、芝川又右衛門(二代目)が設立に関与したことを証明する資料が残っていたのです。

今回はそれらの資料から、日本女子大学校への芝川の関わりについて見ていきたいと思います。



日本女子大学校設立者の成瀬仁蔵は、明治27(1894)年に米国留学から帰国した後、梅花女学校(現・梅花女子大学)の校長を務めていました。女子高等教育機関、現在でいう女子大学の設立を目標としていた成瀬は、明治29(1896)年2月に自ら考える女子高等教育機関の必要性を説いた『女子教育』を出版し、本格的に女子大学設立の準備活動を始めます。

成瀬が社会の各方面の有力者に賛助を求める中で、広岡浅子との出会いがありました。浅子は『女子教育』を読んで成瀬の理想に深く共感し、女子大学設立の熱心な後援者となったのです。

そんな中で、芝川にも発起人就任への依頼があり、『日本女子大学校創立事務所日誌』にその様子が記されています。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治29年)」(日本女子大学所蔵)

12月19日(水)
鴻池芝川両氏へ発起人勧誘に付 広岡ご主人御問訪相成たる処
両子(ママ)は未た女子大学設立の件に付御話し不承
従而賛助員承諾不仕との事に而空しく御帰宅相成たり
両氏の如き名望家先承諾するにあらされば
他の人々を取纏め候事仲々六ヶ敷とて御当惑の御様子
如何致とて宜敷哉。
広岡御夫人へも御相談の上至急何とか御主人迄御返辞相待申候云々

これによると、広岡ご主人(広岡浅子の夫・広岡信五郎のことか)が鴻池、芝川を訪問し、発起人、賛助員就任を依頼するも承諾を得ることができず、こうした名望家の承認を得られなければ、ほかの人々の説得も難しいと記されています。

発起人勧誘の中でこういった対応は決して珍しいことではなく、むしろ即座に賛同を得られるということは稀だったといいます。成瀬はこれと見込んだ人のところへは何度も足を運んで説得を試みたということですが、この広岡氏の訪問から2年後の明治31(1898)年の資料には、発起人欄に芝川又右衛門の名前が見られることから、経緯は不明ですが、最終的には又右衛門も発起人就任を了承したことがわかります。


「日本女子大学校 発起人、賛助員、賛成員名簿(明治31年)」(日本女子大学所蔵)

さて、こうして有力者に発起人就任を依頼する一方で、設立の資金集めも進められます。前出の『創立事務所日誌』には、芝川への寄附金依頼について、下記のような記事も見られます。


「日本女子大学校創立事務所日誌(明治32年)」(日本女子大学所蔵)

5月28日
伊庭貞剛氏は芝川又右衛門氏に寄付金勧誘の件を自ら申出てて受請ひくれぬ

住友の伊庭貞剛氏(明治33年に第2代住友総理事に就任)が芝川又右衛門の日本女子大学校への寄付勧誘を引き受けたと記載されています。懇意にしていた伊庭氏の勧めとあらば…と又右衛門も協力を前向きに検討したのではないでしょうか。

さて、当初設立地を成瀬と縁の深い大阪として準備が進められていた日本女子大学校は、天王寺界隈に5千余坪の用地を確保していましたが、「やはり東京に」という意見も根強く、数年の設立運動の中で、大阪設置は見直しを迫られることとなります。

大阪に設置するということを強調して出資を募っていたこともあり、在阪の出資者の多くは東京設置に反対しました。しかしながら、明治33(1900)年5月に設立地を決するための創立委員会が大阪で開催される頃には、大阪の出資者も女子大学を設立する国家的意義を十分に理解しており、いずれ時期を見て大阪にも設置するということで東京設置を容認しました。

この創立委員会には又右衛門も出席し、寄付(寄付の増額?)を申し出ました。最終的に又右衛門は、明治33年から5年間にわたり、年400円、合計2,000円を日本女子大学校に寄付しています。


「日本女子大学校 寄附金名簿」より(日本女子大学所蔵)


「日本女子大学校寄付礼状(明治33年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
創立委員長の大隈重信氏からの寄付に対する礼状

この大阪における創立委員会の結果は東京の出資者を大いに刺激し、広岡浅子の実家である三井家から東京目白台に5,520坪の土地が寄付され、ここに日本女子大学校が設置されることとなりました。

日本女子大学校は明治33年12月下旬に設立が認可され、翌明治34(1901)年4月20日に510名の生徒を迎えて開校式が執り行われたのです。




「日本女子大学校開校式案内状(明治34年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
芝川又右衛門と夫人宛に届いた案内状。開校式の式次第も記されている。


「感謝状(明治38年)」(大阪府立中之島図書館所蔵)
日本女子大学校理事長・成瀬仁蔵から発起人、創立委員に送られた感謝状

なお、日本女子大学校の設立予定地だった天王寺(大阪市東区清水谷東之町)の土地には、明治34年に大阪府として初の高等女学校である大阪府清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)が設立されました。女子大学の設置は叶いませんでしたが、候補地に女子の教育機関が設置されたことは、大阪の出資者達の思いに適ったことだったのではないでしょうか。


■参考資料
『日本女子大学校四十年史(非売品)』日本女子大学校、昭和17年
日本女子大学資料集
日本女子大学「深く知りたい成瀬仁蔵」
大同生命の源流 加島屋と広岡浅子「日本女子大学校の設立」


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帝塚山の竹鶴邸と芝川邸

2016-11-02 13:30:14 | 芝川家の建築
以前の記事で、ニッカウヰスキー㈱創業者の竹鶴政孝氏の大阪住吉帝塚山の居住地について、あくまでも推測という形でご紹介いたしました。それは「帝塚山タワープラザ」(大阪市住吉区帝塚山中1丁目3-2)の南に竹鶴邸、その西隣に芝川邸があった、というものでしたが、後にこの推測が正しかったことがわかりました。

これは、2014年に放映されたNHKの連続テレビ小説「マッサン」放映を機に「すみよし歴史案内人の会」が中心となって調査をされた結果、明らかになったものです。

詳細は、「すみよし歴史案内人の会」のますの隆平氏が「大阪春秋 第161号」でご紹介しておられますので、そちらをご覧いただけたらと思いますが、当社所蔵の「給水装置申込書」の資料が、竹鶴邸の地番と、竹鶴夫妻がこの家に住み始めたと思われる時期を知るきっかけとなりました。


▲「給水装置申込書」
(千島土地株式会社所蔵資料G00991_301)
竹鶴政孝氏のお名前の漢字が違うのが少し気になりますが、こちらは記録ミスである可能性が高いと思われます。




▲帝塚山の芝川邸と竹鶴邸

大正5-6年頃
芝川又四郎が帝塚山に転居

大正9年11月
竹鶴政孝・リタ夫人がスコットランドから帰国
摂津酒造の阿部喜兵衛社長が用意した家(旧竹鶴邸Ⅰ)に住む

大正11年春
竹鶴政孝氏、摂津酒造を退社

大正12年春
竹鶴政孝氏、寿屋(現・サントリーホールディングス㈱)に勤務

大正12年12月頃
竹鶴夫妻が又四郎の借家(旧竹鶴邸Ⅱ)に転居

大正14年1月
竹鶴夫妻、山崎に転居

大正15年1月
芝川又四郎、神戸住吉に転居

又四郎の述懐には、芝川邸の近所に住んでいた竹鶴夫妻が、帝塚山学院初代学長の庄野貞一先生の紹介で芝川邸を訪れ、又四郎の所有地の上に家を建てて貸してほしいと依頼された、とあります。また、摂津酒造退社後、竹鶴氏が桃山学院で化学の教師をしていた折には、「試験の採点を手伝ったことがある」とも述べていることから、大正11年-12年頃に、竹鶴夫妻から依頼を受けた又四郎が、又四郎の父・又右衛門が建築家・武田五一を通してあめりか屋に建てさせた洋館を西宮甲東園から移築し、大正12年12月頃から、竹鶴夫妻が又四郎の借家に暮らし始めた…ということだったのではないかと推測しています。




▲帝塚山芝川邸
(千島土地株式会社所蔵資料P04_032)


▲芝川百合子(又四郎長女)、帝塚山芝川邸建物前にて
(千島土地株式会社所蔵資料P18_039)

帝塚山芝川邸の一部が写っている貴重な写真です。芝川邸の建物は、吉野の製材所で購入した杉の柱を使い、天然スレート葺きの屋根は、又四郎の注文により「将棋のこまみたい」な形であったと
いいます。

竹鶴邸、芝川邸は、建築図面も写真もほとんど残っていませんが、竹鶴家、芝川家の転居後も取り壊されることなく、新しい住人を得て使い続けられました。こちらは、昭和37年に全線が開通した「南港通(柴谷平野線)」の敷設計画図ですが、こちらの資料から、在りし日の芝川邸と竹鶴邸の様子を知ることができます。


▲「都市計画路線 平野柴谷線 平面図」
(千島土地株式会社所蔵資料Y02_001_005)


「南港通」の開通により、かつての芝川邸の敷地の一部は道路となり、芝川邸、竹鶴邸も今はともにもうありません。しかし、こうしてその場所が特定され、敷地内の様子が明らかになったことによって、竹鶴夫妻と芝川家の交流をより鮮やかに思い起こすことができるような気がしています。


■参考資料
『小さな歩み』、芝川又四郎、1969
『ニッカウヰスキー80年史 1934-2014』、80年史編纂委員会、2015
「大阪春秋 大161号」、新風書房、2016


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安田善次郎編『明治成功録』

2014-03-24 16:59:44 | 芝川家刊行文献

奉公人から身を起こし、銀行、損保会社、生保会社などを次々に設立して安田財閥を築き上げた安田善次郎。その安田翁は、自身の古希の記念に『明治成功録』を制作します。

『明治成功録』は明治時代に実業界で成功を収めた24氏を正客、政界の巨人10氏を客員としてそれぞれの肖像写真と筆跡を集めたもので、明治39年秋から3年の歳月をかけ、明治42年末に完成しました。

掲載された方々は次の通り。初代芝川又右衛門も栄えある正客の一人として掲載されています。

○正客
渋澤栄一
川崎正蔵
薩摩治兵衛
浅野総一郎
片倉兼太郎
岩崎弥之助
益田孝
平沼専蔵
高田慎蔵
川崎八右衛門
藤田伝三郎
前川太郎兵衛
村井吉兵衛
芝川又右衛門
諸戸清六
森村市左衛門
大倉喜八郎
安田善次郎
原善三郎
若尾逸平
神野金之助
古河市兵衛
岩崎弥太郎
茂木総一郎(惣一郎の誤りか)

○客員
東郷平八郎
桂太郎
井上馨
松方正義
大山巌
山県有朋
伊藤博文
木戸孝允
岩倉具視
三条実美

制作に際し、安田翁は各家に親書を送ってそれぞれの揮毫と近影を求めました。当初、正客は30氏の掲載が予定されていたそうですが、6家から資料が得られず、24氏の掲載となったといいます。いずれも全国から選りすぐられた創業の偉人達でした。

『明治成功録』は34部が作成され、完成後は各家に1部ずつ贈られたといいます。

しかしながら、安田翁より芝川家に贈られたであろう『明治成功録』の原本は見つかっていません。昭和19年に芝川家が刊行した書籍『芝蘭遺芳』に『明治成功録』についての記述があったことから、これまで社内はじめ国内の図書館や一部関係先を探したのですが、結局見つけることができませんでした。


木箱入りの大変豪華な装丁のこちらは、実は原本を複製したもの。昨年、芝川弥生子の資料として見つかった1冊です。


同封されていた書簡によると、この複製本は昭和8年に二代目芝川又右衛門が父・初代又右衛門が掲載された本書を複写して10部を作成し、子孫に配ったうちの1冊とのことでした。作成部数の少なさを考えると、複製品とはいえ、本書は大変な貴重書に違いないでしょう。


▲森村市左衛門氏


▲安田善次郎氏


▲藤田伝三郎氏


▲渋沢栄一氏


▲三条実美氏


▲伊藤博文氏


▲東郷平八郎氏


▲芝川又右衛門

それぞれが思い思いの言葉を揮毫する中、1人、又右衛門は“絵”を描きます。これは京都の蒔絵師の家の生まれで絵の素養があり、隠居後、晩年は毎日のように絵を描いていたという又右衛門ならでは。柿と栗は、“桃栗三年柿八年”の諺に因んだ図案なのでしょうか。

それにしてもこれだけの人々の揮毫を集め、1冊の本にまとめるとは、さすが善次郎翁、なんとも粋な“古希記念”です。


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「宝塚少女歌劇」関連資料

2014-03-14 16:09:08 | 芝川家の品々
大正3年に第一回公演が行われて以来、多くの人々の心を捉え、人気を博した宝塚少女歌劇(現・宝塚歌劇団)。阪神間で青春を送った芝川弥生子(芝川又之助長女、芝川家6代目当主・芝川又四郎の姪にあたる)もその華やかな舞台に魅了された一人でした。

今回は弥生子所蔵資料の中から、昭和10年代を中心とする宝塚少女歌劇関連資料をご紹介します。


●しおり&絵はがき
日本的なものから外国のものまで非常に多彩な演目に驚かされます。







●「歌劇」
最も歴史の古い宝塚歌劇団の月刊機関誌。1932(昭和7)年を境に表紙がイラストからスターの顔写真に変わりました。


●「宝塚グラフ」


●「東宝」
東宝は東京宝塚の略。昭和9年、有楽町に東京宝塚劇場が完成し、宝塚少女歌劇団は東京進出を果たしました。
昭和18年発行の「東宝」誌の厚みは前年の半分ほどですが、これはいよいよ悪化した戦局の影響でしょうか。


●「歌劇脚本集」


●スターポートレイト集
トップスターとして戦前の宝塚歌劇の黄金期を支えた小夜福子と葦原邦子。装丁デザインが素敵ですね。


●レコード


●スクラップブック
弥生子が大ファンだった佐保美代子に関する記事が多数見られます。




●弥生子アルバム
弥生子のアルバム写真の中には、宝塚少女歌劇の運動会などで撮影されたと思われる写真も収められています。




●歌劇日記
宝塚少女歌劇団発行のとても魅力的な装丁の日記帳。観劇の感想のほか、弥生子の日常についても記されています。


●海外公演関連資料
宝塚少女歌劇団は、昭和13年に初の海外公演(ドイツ、イタリア、ポーランド)を行い、翌年昭和14年にはアメリカ公演も行いました。


写真中のナチス・ドイツの旗が時代を物語ります。

 
●40周年関連資料
昭和29年、宝塚歌劇団は40周年を迎えました。
この年の9月、元スターの佐保美代子が青函連絡船洞爺丸の事故により死去します。彼女のファンだった弥生子に与えた衝撃は大きく、以後、弥生子は宝塚歌劇から遠ざかることになったといいます。




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所蔵写真「二楽荘」

2010-12-16 11:14:41 | 芝川家刊行文献
明治42(1909)年、神戸六甲山麓岡本に西本願寺22世法主・大谷光瑞の別邸「二楽荘」が竣工しました。

大谷光瑞は中央アジアに探検隊を派遣して探検・調査活動を行いましたが、
二楽荘本館は支那室、印度室、アラビヤ室、英國室など各国の様式にちなんだデザインの12室からなる建物で、
設計監修を行った建築家・伊東忠太をして「本邦無二の珍建築」と言わしめた建物でした。

芝川家には、その二楽荘の写真が残されています。
これらはいずれも二楽荘竣工の1ヶ月ほど前の明治42(1909)年8月15日に撮影されたものです。


▲二楽荘本館(千島土地株式会社所蔵資料 P12_053)
建物前の建築資材が工事中であることを物語っています。
 

▲二楽荘庭園(西半分)(千島土地株式会社所蔵資料 P12_054)
庭園の植物もまだまだ成長過程のように見えます。


▲二楽荘本館にて(千島土地株式会社所蔵資料 P12_046)
本館のどこで撮影したものでしょうか。
中心の詰襟姿の青年が芝川又四郎です。当時は京都帝国大学の学生でした。
この写真の裏面には写っている人物名が記されています。
後列右の男性は「柱本氏」とあるのですが、大谷光瑞の側近であった柱本瑞俊でしょうか?


神戸六甲の地で栄華を誇った二楽荘も、大正3(1914)年に久原房之助の手に渡り、
竣工から30年弱の昭和7(1932)年に不審火により焼失してしまったのでした。


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芝川家のお茶会 ~大正2年の甲東園茶会~

2010-10-21 10:21:36 | 芝川家について
茶室「松花堂」の建築 の記事冒頭で少しご紹介いたしましたが、西宮甲東園の別荘敷地には、明治44(1911)年竣工の武田五一設計の芝川又右衛門邸内にお茶室が設えられた他、数棟のお茶室が建設されました。

中でも最初に建てられたのが大正2(1913)年に落成した「山舟亭」です。




茶室「山舟亭」(上)と露地(下)(『茶会漫録(第四集)』より)


(千島土地株式会社所蔵 P41_038)


(『芝蘭遺芳』より)


(千島土地株式会社所蔵資料「甲東園八勝図」K01_061_6より)

「山舟亭」は茶人・高谷宗範の設計監督により、その庭園は耶馬渓の趣を多分に取り入れたものであったと言います。
資料により少し趣が異なって見えますが、これは恐らく撮影時期の違いによるものと思われます。

というのも、この茶室は山の中のいたるところの風物の推移に応じて舟のように移動させることができるから「山舟」と名づけた、との記述も残っており、
甲東園の敷地内で移築された可能性があるのです。移動式茶室と言ってしまうにしてはしっかりし過ぎた建築のようですが…。
いずれにせよ、『茶会漫録(第四集)』は1924(大正3)年に発行されているので、上の2枚が竣工当時の様子に最も近いのではないでしょうか。


さて、こちら「山舟亭」において、大正2(1913)年4月、盛大なお茶会が開かれました。

5日間にわたって開かれたお茶会には、1日に5人ずつのお客様をご招待しており、益田孝、鈴木馬左也、高谷恒太郎、戸田弥七、村山龍平、上野理一、住友吉左衛門、香村文之助、嘉納治郎右衛門、嘉納治兵衛、馬越恭平、野崎廣太…などなど、東西の名高い数寄者25名が招かれました。

このお茶会は桃の花が満開になる時期に合わせて計画されたようで、主催者の芝川又右衛門は体調を崩したにも関わらず、又右衛門の師匠である茶道裏千家の中川魚梁が亭主を務めて予定通り開催されました。最終日の4月25日に参会した野崎広太の茶会記*)によると、残念ながら前夜の雨で花が散ってしまったため、芝川家では急遽 須磨芝川邸より持参した小田海僲「春夜桃李園の図」を待合の洋館2階座敷の床に掛けたといいます。


それでは、最終日のお茶会の様子を前出の野崎広太の茶会記に沿ってご紹介いたしましょう。

当日は前夜の雨は止み、一点雲なき快晴に。まだ阪急電鉄西宝線(西宮北口-宝塚)が開通していなかったため、招かれた人々は西ノ宮駅から又右衛門が用意した人力車で大市山の芝川家経営地に向かいます。

一行は又右衛門邸洋館2階の待合に通され、高谷恒太郎による挨拶の後、前出の小田海僲「春夜桃李園の図」など飾付に対するひと通りの説明が成されました。この時、窓外の景色についても紹介があったそうなのですが、なんと当時は洋館2階の窓から六甲山、甲山はもちろんのこと、箕面の山、東南の方向に連綿たる摂河泉(摂津、河内、和泉)の諸山脈まで望むことができたのだとか。なんと素晴らしい景色でしょうか!

その後、一行は腰掛へと移動し、間もなく亭主の中川魚梁に迎えられ、お茶室へと案内されます。蹲にかかる筧の水は渓流となって音を立てて流れていたということで、心洗われる情景が目に浮かぶようです。

お茶室には宗範の筆による「山舟」の濡額が掛けられています。宗範について、野崎は「大徳寺の和尚か」と記述していますが、高谷恒太郎の号が宗範であり、「山舟亭」は高谷が設計監督したお茶室であったことを考えると、この濡額は高谷の筆によるものだったのかも知れません。*2)

そしていよいよお茶室の中へ。炭手前の後に一同懐石を楽しみ、腰掛に移ってお菓子をいただいた後、「恰も山寺の鐘声を聞くに似た」銅鑼の合図で再度席入りをします。

濃茶、薄茶を喫し、戸田や春海*3)、高谷恒太郎も加わっての歓談の後、お茶会はおひらきとなり、一行は高谷の案内で水屋、露地を見学して茶室を後にします。

洋館広間の一室へ戻り、ひと息ついた後、一行は銅鑼の音に送られながら夕暮れの甲東園を後にしたのでした。


この度はご紹介を省略いたしましたが、茶会記録には待合、腰掛、茶室の飾付から懐石、濃茶、薄茶で使用されたものまで、全てのお道具が記載されています。またそれらに対する感想も詳しく述べられており、その中では、交趾の蓋と呉州の身、そして呉州の蓋と交趾の身の組み合わせで使用された石榴の香合が「稀代の名品」であると賞賛される一方で、古色蒼然とした釜と炉縁に銅炉が新しいのは不釣合いだとか、茶室「山舟亭」で懐石に藍呉州舟形の向付、茶杓の銘が「鉄の舟」では、舟が多過ぎて得心できないなどといった辛口の意見も忌憚なく述べています。

更に、当時これが新聞に掲載されたというのですから、お茶会の亭主はさぞかし細心の注意を払ってお茶会当日に備えたことでしょう。まさにお互いに真剣勝負。このような切磋琢磨の中で、近代茶道の黄金期が築かれていったのでしょうか。


*)『茶会漫録 第四集』に「甲東山荘の茶会 芝川又右衛門氏の催し(大正2年4月30日記)」として収録。野崎広太は参席した茶会での見聞記録を、1905(明治38)年以降、自らが主催する「内外商業新報」(現「日本経済新聞」)に掲載。後年それらを『茶会漫録(全12冊)』にまとめ、発刊した。

*2)「内外商業新報」の記事を写したとする芝川家の記録(『芝蘭遺芳』)にはこのように記述されていますが、「内外商業新報」の記事をまとめて1914(大正3)年に発行された『茶会漫録(第四集)』では、「宗範の筆、宗範は即ち高谷今遠州(筆者注:高谷恒太郎のこと)也。」とあることから、書籍にまとめる際に修正されたものと思われます。

*3)道具商・谷松屋戸田商店、書画骨董品商・春海商店の関係者か?


■参考資料
『茶会漫録(第四集)』、野崎広太、中外商業新報社、1914
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939


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茶室「松花堂」の建築

2010-08-05 16:20:52 | 芝川家の建築
西宮甲東園に別荘を構え、その周辺の整備を行った二代目 芝川又右衛門は茶道に造詣が深く、邸内に「山舟亭」、「松花堂」、「土足庵」の3棟の茶室を建て、度々知人を招いてお茶会を楽しみました。

「山舟亭」は1913(大正2)年に落成、続いて1920(大正9)年に「松花堂」を中心とする広間と茶庭が整備され、竣工年はわからないのですが「土足庵」という立礼式のお茶室も須磨の芝川別邸から移築されました。

これらは3棟とも取り壊されて現存しないと思っていたのですが、なんと!「松花堂」のお茶室は実は移築されて現存していたのです。

ひょんなことからこの事実が判明、移築先の「粟津神経サナトリウム」さまにご連絡したところ、松花堂の見学を快諾いただき、さっそくお邪魔して拝見して参りました。

* * *

現存する「松花堂」のレポートの前に、移築前の「松花堂」についてご紹介いたしましょう。

芝川家刊行の書籍によると、「松花堂」はもともと大阪・伏見町の芝川邸内に建っていたそうです。写真などは残っていないのですが、以前こちらのブログで幕末~明治23年までの伏見町芝川邸をご紹介した際に掲載した芝川邸の平面図に付属した図面を見てみると、それがまさに「松花堂」の平面図であることがわかります。

▲伏見町芝川邸平面図(千島土地株式会社所蔵 F02_001_002)

図面からお茶室が独立して建っていた訳でなく別の建物に接続していたことがわかりますが、断片的な図面なので全体がどのようにつながっていたのかはよくわかりません。下記配置図に「茶室」の記述がありますがこれが「松花堂」だったのでしょうか。


▲伏見町芝川本邸見取図(千島土地株式会社所蔵資料 F02_003_002)

伏見町芝川邸では、「松花堂」で初代又右衛門がお茶を点てたりしていたそうですが、後に二代目又右衛門の別邸がある西宮甲東園に移築されることになります。移築工事は1916(大正5)年に起工*)、お茶室に接続する広間も建設され、太鼓橋の架かった池もある美しい庭園も整備されました。建物、庭園はともに芝川家と懇意だった茶人 高谷宗範(たかや・そうはん)の設計によるもので、その監督の下に造営が進められます。










▲甲東園に移築された茶室「松花堂」と付属広間の平面図、東西南北の立面図
(千島土地株式会社所蔵資料 K01_033_001~005)

当時は関西で多くの立派な和風建築の建設が集中した時期で、職人さんの不足などの事情もあって工事には時間がかかり、これらが完成したのは1920(大正9)年のことでした。


(千島土地株式会社所蔵資料 P41_045)


(千島土地株式会社所蔵資料 P41_036)


(千島土地株式会社所蔵資料 P04_002)


(千島土地株式会社所蔵資料 P18_025)
▲「松花堂」と広間、茶庭

竣工時には新築お披露目のお茶会が14回、約2ヶ月に亘って開催され、71名のお客様をお迎えしたと言います。

「松花堂」と一連の建築は1975(昭和50)年頃、甲東園が住宅地に造成されていく中で解体されますが、幸運にも現在の所有者さんとのご縁があり、茶室「松花堂」は石川県に移築されることになりました。


そして現在…

病院の広いお庭の奥、ふもとの池に流れ込むせせらぎの水音が涼しげな小高い丘の上に、木々に囲まれた小さな建物が見えます。


この建物こそが、甲東園から移築された「松花堂」でした。


正面には「松花堂」の濡額が掛けられています。


移築前は木皮葺であったと思われる屋根は、現在は銅版葺になっています。


正面 観音開きの扉を開けると土間があり、


その奥に3畳のお茶室があります。

一見したところ炉は切られておらず、風炉が置かれていました。

襖の絵は茄子と実のついた枝。
 

地袋にはかわいらしい引き手(把手?)が。
 

天井には、芝川又四郎の「(松花堂には)天井も紙が張ってあって、子供心にも変わったものだと思っていた」という回想の通り、紙が張られていました。


実はこの「松花堂」は、「八幡西村氏邸内の松花堂昭乗の茶室の写し」であると言われています。松花堂昭乗は一流の文化人としても知られる江戸初期の僧侶で、晩年に「松花堂」(以後、区別のため「八幡松花堂」とします)という名の方丈を建てて侘び住まいをしました。その後「八幡松花堂」は所有者が変わり、数回の移築の後(その間、一時西村氏の所有となっていた)、現在は京都府八幡市の「松花堂庭園・美術館」に草庵茶室「松花堂」として保存されています。この「八幡松花堂」の天井もかつては紙張りで(現在は網代)狩野永徳による絵が描かれていたのだとか。*2)

お茶室を出ると板敷きで右手に茶道口があり、


その奥は水屋になっています。


逆にお茶室を出て左手には躙口が設けられていました。


ここは移築前、広間につながる廊下だった部分です。私はお茶室にはあまり詳しくないのですが、躙口を入ると畳でなく板間というのはあまり見たことがなく珍しい気がします。


現在、図面の広間につながる“廊下”と“物入”はひとつの空間となっていますが、その間の壁は切り取られている様子ですし、


天井も一方は切妻(廊下側)でもう一方は方流れ(物入側)と形が異なっています。
 

それに、物入の廊下側の柱にはかつて扉がついていたであろう痕跡も見られます。


* * *

さて、甲東園芝川邸縁の「松花堂」、わずか数畳の小ぶりな建物であるにも関わらず、その物語は尽きることがありません。しかしながら過去最長級のとても長~い記事となって参りましたので、今回はこのあたりでおひらきとさせていただきましょう。

それにしても、もう失われてしまったと思っていた建築が、こんな素敵な環境の中で“第三の人生”(①大阪伏見町芝川邸、②西宮甲東園芝川邸、③石川県「粟津神経サナトリウム」)を送っている姿は、なかなか感動的なものです。

所有されている方は、最近 建物の傷みが気になっているとおっしゃっていましたが、これからもこの「松花堂」のお茶室が自身の歴史を語る証人として生き続けてくれることを願わずにはいられません。


この度は現在の所有者さまの特別のご厚意でこうした記事をアップさせていただいたものです。「松花堂」は病院敷地内にあり、非公開の建物です。基本的に見学はできませんのでご了承下さい。


*)千島土地株式会社所蔵資料「大市山新築設計図」による。芝川家刊行書籍『芝蘭遺稿』には、起工は大正7(1918)年とある。

*2)この「八幡松花堂」のほか、大阪市網島町にも松花堂昭乗ゆかりのお茶室「松花堂」(「桜宮松花堂」)が現存しています。こちらは19世紀初頭に大坂の豪商 加島屋の樋口十郎兵衛によって建てられ、後に解体されますが、明治期に富商 貴志弥右門がその解体材を使って再建。終戦後大阪市の所有となり現在に至ります。なお「桜宮松花堂」を再建した貴志弥右門の孫は、芝川家とも交流のあったヴァイオリンニスト・貴志康一です。


■参考資料
『大阪市内所在の建築文化財 大阪市桜宮松花堂調査報告』、大阪市教育委員会事務局、2002
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、芝川又四郎、1969(非売品)


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芝川家の『年酒記録』 ~芝川店の新年~

2010-07-08 11:58:16 | 芝川家について
以前からずっと取り上げたいと思っていた史料がこちら。


『年酒記録(自明治三拾三年)』(千島土地株式会社所蔵資料B01_006)

年酒とは、新年を祝うお酒または年賀のご挨拶に見えたお客さまにおすすめるお酒のこと。この『年酒記録』は芝川家が別家と店員を招いて開催した「年酒」、いわゆる「新年会」の記録なのです。「年酒」は1900(明治33)年に始まり1941(昭和16)年まで、途中 明治天皇、大正天皇が崩御された大正2(1913)年、昭和2(1927)年のほか、忌中などの理由で抜けている年もありますが、ほぼ毎年開催されています。

最初の記録である1900(明治33)年の『年酒記録』には当日の段取りや各部屋の飾り付のほか、誰がどこでどんなお手伝いをするのかまでこと細かく記録されています。これを繙いて、当時の様子に思いを馳せてみましょう。



1900(明治33)年の「年酒」は1月24日の午後4時から、伏見町芝川邸にて行われました。芝川栄助、芝川照吉らの親族をはじめ、芝川店支配人の香村文之助ほか店員、「芝川紙製漆器工場」の技術者である間瀬正信など20人以上の方々に案内状が出されています。

まず来会者は芝川邸西側の心斎橋筋路次口(ママ)より邸内に入り、待合、茶室に通されます。

待合席、茶室の飾り付はそれぞれ下記の通り。
※■は判読不能文字

待合席
幅:其角ノ鶯ノ句 置物:完瑛十二月ノ巻 軸盆:青貝ノ唐物 屏風:高齢張リ交セ

茶室
幅:呉春蓬莱山 置物:住吉蒔絵硯箱 花生:信楽 銘ねざめ 花:椿、菜種
卓:一貫高簾 煙草盆:桐 火入:金ノ瓢 炉縁:高台寺 炭取:さざへ
香合:梁付蝦 水差:金陽 棗:梅花ノ絵 蓋置:紅玉香炉 茶杓:如心斎鵲鴒
茶碗:一入ノ黒さざれ石 替茶碗:萩 菓子鉢:赤絵ノ魁 菓子盆:唐物ノ独楽
茶:銘(記入なし) 菓子:腰高饅頭、千代万代

お茶室でのお点前の後は、本家座敷より2階の広間へ。

座敷飾り付
幅:旧宅ノ図 直城■ 花生:花木蓮

西茶ノ間飾り付
幅:雪中梅 玉峯筆

二階西ノ間
福引品陳列

二階広間飾り付
幅:伊川院 鶴ニ松ノ三幅対 卓:一閑平卓 香炉:青磁 置物:桐料紙文庫 花鳥絵
花生:銅大花生 花:梅ニ椿 置物:天然石台付 画帖:反古張り

2階広間では全員が席につき、寛政2(1790)年創業の老舗料亭「堺卯」から料理人が出張して用意されたお料理を楽しみます。

献立
一、座附雑煮:ノシ餅、カシハ、亀甲形大根、牛蒡、数ノ子、ゴマメ
一、三ツ組金鉢:当主ヨリ二ツ左右ニ廻シ退席■壱個納杯ニ廻ス
一、取肴:玉子厚焼、百合丸煮、鯛切リ焼、牛蒡ノ銭切リ、蒲鉾
一、吸物:鯛千切リ 初霜
一、茶碗寿シ
一、肴:白魚ノ佃煮、フキノ塔
一、作り:サゴシ、鮭
一、肴:酢カキ
一、たき出し:新こぐり、鰕の皮むき
一、氷もの:蜜柑

膳部
一、 焼物:鯛
一、 煮物:さわら、うど、椎茸
一、 汁:味噌 すり流し
一、 向ふ付:赤貝、大根、木のこ

お酒もいただいて、お腹もいっぱいになりそうですね。

さて、お食事をいただいた後はお待ちかねの福引です。
福引の品物には、吹寄せ干菓子、西洋菓子、コーヒー糖、鶏卵、朝日ビール、籠入蜜柑、みるく一鑵、正宗一本といった飲食物から、煙草入、煙管、櫛・笄、傘、羽織の紐、がま口、棕櫚箒、桶といった日常で使う品物、煎茶茶碗、支那製頭巾、硝子菓子器やご隠居(初代芝川又右衛門)筆の「富士の図」、「からすの図」といった絵画までが用意されたようです。これは大興奮しそう。お座敷で大いに盛り上がる参加者の姿が目に浮かぶようです。

さてこの「新年会」、明治年間は伏見町芝川邸で行われていましたが、大正に入ると福引はなくなり、浪華橋灘萬ホテル、今橋ホテル、北浜日本ホテル、中之島大阪ホテル、北浜野田屋、堂島ビル9階清交社といった会場で食事会が開催されるようになります。

最後に、当時のメニューを数枚添付して本記事の締めといたしましょう。


▲1924(大正13)年 灘萬ホテル


▲1935(昭和10)年 清交社


▲1940(昭和15)年 野田屋


▲1941(昭和16)年 宝塚ホテル
(以上、全て千島土地株式会社所蔵資料B01_006より)


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芝川又之助と『紫水遺稿』 ~その生涯と昆虫採集~

2010-07-02 13:36:10 | 芝川家の人々
昭和11(1936)年に芝川得々(二代目又右衛門)により発行された『紫水遺稿』は、大正5(1916)年に27歳の若さで早逝した二代目又右衛門の三男・芝川又之助の日記や、又之助が熱中した昆虫採集に関わる原稿、昆虫標本目録などを収めた3冊から成る本です。

この『紫水遺稿』を中心に、又之助の生涯を追ってみましょう。



又之助は明治21(1888)年に誕生しました。大阪伏見町の芝川本邸を中心に須磨の別荘や甲東園にもよく出かけ、長兄・又三郎の狩猟のお伴をしたり、山歩きをしたりと豊かな自然の中で育ちます。


▲子供時代の又之助(二列目左:千島土地株式会社所蔵資料P12_028)

又之助が昆虫採集に夢中になったのは北野中学校在学の頃。そのきっかけとなったのは1904(明治37)年の兄・又三郎の戦死でした。


▲北野中学在学時の又之助(千島土地株式会社所蔵資料P46_034)

又之助について次兄の又四郎が後年、生来頭が良くて大変敏感な性格だったと述懐していますが、尊敬する兄の突然の死は繊細な又之助に大きな衝撃を与えました。兄を喪った悲しみから気持を逸らそうと又之助は昆虫採集に取り組みます。

日本における昆虫学の先駆者・桑名伊之吉の著書『昆虫学研究法』との出会いなどがその熱意に拍車をかけ、又之助はどんどん昆虫採集の魅力に引き込まれていきました。

大学への進学にあたり又之助は農学部への進学を希望しますが、芝川家の男子として許されず、山口高等商業学校(現・山口大学)に進みます。卒業後は京都帝国大学法科大学選科で学び、こちらは体調の関係で中退を余儀なくされますが、実業界に入って後も昆虫採集に対する情熱は衰えることはありませんでした。

1915(大正4)年には結婚し、神戸住吉の反高林に自らが設計したものを建築家・武田五一にまとめてもらったという家を建てます。*)


▲1930年代後半頃の反高林の芝川邸
 写真の女性は義母の粕淵とき(千島土地株式会社所蔵資料P18_316)

1916(大正5)年には女児も誕生しますが、その数日後、又之助は腸チフスで27歳の若さで亡くなりました。



又之助が亡くなる前年の1915(大正4)年2月、又之助は野平安藝雄、江崎悌三、鈴木元治郎ら京阪の有志とともに昆虫学専門誌『昆虫学雑誌』を発行し、次いで発起人の一人として大日本昆虫学会の創立に携わります。当時関西では比較的昆虫採集に対する関心が高かったものの、昆虫学の専門誌や学会はまだなかったようで、又之助は会の委員を務め、記事を寄稿したりもしていました。


▲『昆虫学雑誌』第壹巻第壹号(大阪市立自然史博物館所蔵)



又之助の死後、又之助が発行に尽力したこの『昆虫学雑誌』には又之助への弔詞とともに写真と絶筆原稿が掲載されました。

 
▲『昆虫学雑誌』第二巻第二号(大阪市立自然史博物館所蔵)
 又之助への弔詞(左)と写真、絶筆原稿(右)

また又之助が採集した昆虫標本は甲東園芝川家別荘に保管され、又之助の北野中学の後輩で昆虫採集の仲間でもあった戸澤信義に管理が委嘱されます。1933(昭和8)年には戸澤の編纂により『紫水遺稿』(別巻)に「芝川家所蔵昆虫標本目録」としてまとめられましたが、標本は後に宝塚昆虫館*2)に移され、更に1979(昭和54)年には大阪市立自然史博物館に移管されました。

標本は宝塚昆虫館閉館後の保管状態が良くなかったことなどから、残念ながら現在、又之助が採集した昆虫標本の特定は難しいそうですが、又之助に献名された「シバカワツリアブ」、「シバカワコガシラアブ」、「シバカワトゲシリアゲ」の昆虫名は今も生き続けています。


*)この家の竣工時期は不明だが、又之助の遺児・弥生子によると、棟上げの時、既に又之助は亡くなっていたという。

*2)当時阪急の社員であった戸澤信義が社長・小林一三の「宝塚に新しい集客施設を」との命を受けて創設を提案。1939(昭和14)年に開館し、戸澤は館長を務めた。


■参考資料
芝川又四郎、『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、1969(非売品)
芝川得々、『紫水遺稿』(乾・坤)、昭和11(非売品)
戸澤信義編纂、『紫水遺稿』(別巻)、芝川得々、昭和11(非売品)
江崎悌三、『江崎悌三著作集 第二巻』、昭和59
初宿成彦、「「宝塚昆虫館報」について」、『館報池田文庫 第26号』、平成17
初宿成彦、「芝川又之助」、『第34回特別展 なにわのナチュラリスト』、大阪市立自然史博物館、2005
長谷川仁、「明治以降 物故昆虫学関係者経歴資料集」、『昆虫』Vol.35,No.3、1967
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第一巻第一号、大正4
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第一巻第二号、大正4
野平安藝雄編纂、『昆虫学雑誌』第二巻第二号、大正5


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