千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

茶室「松花堂」の建築

2010-08-05 16:20:52 | 芝川家の建築
西宮甲東園に別荘を構え、その周辺の整備を行った二代目 芝川又右衛門は茶道に造詣が深く、邸内に「山舟亭」、「松花堂」、「土足庵」の3棟の茶室を建て、度々知人を招いてお茶会を楽しみました。

「山舟亭」は1913(大正2)年に落成、続いて1920(大正9)年に「松花堂」を中心とする広間と茶庭が整備され、竣工年はわからないのですが「土足庵」という立礼式のお茶室も須磨の芝川別邸から移築されました。

これらは3棟とも取り壊されて現存しないと思っていたのですが、なんと!「松花堂」のお茶室は実は移築されて現存していたのです。

ひょんなことからこの事実が判明、移築先の「粟津神経サナトリウム」さまにご連絡したところ、松花堂の見学を快諾いただき、さっそくお邪魔して拝見して参りました。

* * *

現存する「松花堂」のレポートの前に、移築前の「松花堂」についてご紹介いたしましょう。

芝川家刊行の書籍によると、「松花堂」はもともと大阪・伏見町の芝川邸内に建っていたそうです。写真などは残っていないのですが、以前こちらのブログで幕末~明治23年までの伏見町芝川邸をご紹介した際に掲載した芝川邸の平面図に付属した図面を見てみると、それがまさに「松花堂」の平面図であることがわかります。

▲伏見町芝川邸平面図(千島土地株式会社所蔵 F02_001_002)

図面からお茶室が独立して建っていた訳でなく別の建物に接続していたことがわかりますが、断片的な図面なので全体がどのようにつながっていたのかはよくわかりません。下記配置図に「茶室」の記述がありますがこれが「松花堂」だったのでしょうか。


▲伏見町芝川本邸見取図(千島土地株式会社所蔵資料 F02_003_002)

伏見町芝川邸では、「松花堂」で初代又右衛門がお茶を点てたりしていたそうですが、後に二代目又右衛門の別邸がある西宮甲東園に移築されることになります。移築工事は1916(大正5)年に起工*)、お茶室に接続する広間も建設され、太鼓橋の架かった池もある美しい庭園も整備されました。建物、庭園はともに芝川家と懇意だった茶人 高谷宗範(たかや・そうはん)の設計によるもので、その監督の下に造営が進められます。










▲甲東園に移築された茶室「松花堂」と付属広間の平面図、東西南北の立面図
(千島土地株式会社所蔵資料 K01_033_001~005)

当時は関西で多くの立派な和風建築の建設が集中した時期で、職人さんの不足などの事情もあって工事には時間がかかり、これらが完成したのは1920(大正9)年のことでした。


(千島土地株式会社所蔵資料 P41_045)


(千島土地株式会社所蔵資料 P41_036)


(千島土地株式会社所蔵資料 P04_002)


(千島土地株式会社所蔵資料 P18_025)
▲「松花堂」と広間、茶庭

竣工時には新築お披露目のお茶会が14回、約2ヶ月に亘って開催され、71名のお客様をお迎えしたと言います。

「松花堂」と一連の建築は1975(昭和50)年頃、甲東園が住宅地に造成されていく中で解体されますが、幸運にも現在の所有者さんとのご縁があり、茶室「松花堂」は石川県に移築されることになりました。


そして現在…

病院の広いお庭の奥、ふもとの池に流れ込むせせらぎの水音が涼しげな小高い丘の上に、木々に囲まれた小さな建物が見えます。


この建物こそが、甲東園から移築された「松花堂」でした。


正面には「松花堂」の濡額が掛けられています。


移築前は木皮葺であったと思われる屋根は、現在は銅版葺になっています。


正面 観音開きの扉を開けると土間があり、


その奥に3畳のお茶室があります。

一見したところ炉は切られておらず、風炉が置かれていました。

襖の絵は茄子と実のついた枝。
 

地袋にはかわいらしい引き手(把手?)が。
 

天井には、芝川又四郎の「(松花堂には)天井も紙が張ってあって、子供心にも変わったものだと思っていた」という回想の通り、紙が張られていました。


実はこの「松花堂」は、「八幡西村氏邸内の松花堂昭乗の茶室の写し」であると言われています。松花堂昭乗は一流の文化人としても知られる江戸初期の僧侶で、晩年に「松花堂」(以後、区別のため「八幡松花堂」とします)という名の方丈を建てて侘び住まいをしました。その後「八幡松花堂」は所有者が変わり、数回の移築の後(その間、一時西村氏の所有となっていた)、現在は京都府八幡市の「松花堂庭園・美術館」に草庵茶室「松花堂」として保存されています。この「八幡松花堂」の天井もかつては紙張りで(現在は網代)狩野永徳による絵が描かれていたのだとか。*2)

お茶室を出ると板敷きで右手に茶道口があり、


その奥は水屋になっています。


逆にお茶室を出て左手には躙口が設けられていました。


ここは移築前、広間につながる廊下だった部分です。私はお茶室にはあまり詳しくないのですが、躙口を入ると畳でなく板間というのはあまり見たことがなく珍しい気がします。


現在、図面の広間につながる“廊下”と“物入”はひとつの空間となっていますが、その間の壁は切り取られている様子ですし、


天井も一方は切妻(廊下側)でもう一方は方流れ(物入側)と形が異なっています。
 

それに、物入の廊下側の柱にはかつて扉がついていたであろう痕跡も見られます。


* * *

さて、甲東園芝川邸縁の「松花堂」、わずか数畳の小ぶりな建物であるにも関わらず、その物語は尽きることがありません。しかしながら過去最長級のとても長~い記事となって参りましたので、今回はこのあたりでおひらきとさせていただきましょう。

それにしても、もう失われてしまったと思っていた建築が、こんな素敵な環境の中で“第三の人生”(①大阪伏見町芝川邸、②西宮甲東園芝川邸、③石川県「粟津神経サナトリウム」)を送っている姿は、なかなか感動的なものです。

所有されている方は、最近 建物の傷みが気になっているとおっしゃっていましたが、これからもこの「松花堂」のお茶室が自身の歴史を語る証人として生き続けてくれることを願わずにはいられません。


この度は現在の所有者さまの特別のご厚意でこうした記事をアップさせていただいたものです。「松花堂」は病院敷地内にあり、非公開の建物です。基本的に見学はできませんのでご了承下さい。


*)千島土地株式会社所蔵資料「大市山新築設計図」による。芝川家刊行書籍『芝蘭遺稿』には、起工は大正7(1918)年とある。

*2)この「八幡松花堂」のほか、大阪市網島町にも松花堂昭乗ゆかりのお茶室「松花堂」(「桜宮松花堂」)が現存しています。こちらは19世紀初頭に大坂の豪商 加島屋の樋口十郎兵衛によって建てられ、後に解体されますが、明治期に富商 貴志弥右門がその解体材を使って再建。終戦後大阪市の所有となり現在に至ります。なお「桜宮松花堂」を再建した貴志弥右門の孫は、芝川家とも交流のあったヴァイオリンニスト・貴志康一です。


■参考資料
『大阪市内所在の建築文化財 大阪市桜宮松花堂調査報告』、大阪市教育委員会事務局、2002
『芝蘭遺芳』、津枝謹爾編輯、芝川又四郎、1944(非売品)
『芝川得々翁を語る』、塩田與兵衛、1939
『小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―』、芝川又四郎、1969(非売品)


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。
この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 芝川家の『年酒記録』 ~芝... | トップ | 芝川家のお茶会 ~大正2年の... »
最新の画像もっと見る

芝川家の建築」カテゴリの最新記事