「差不多」的オジ生活

中国語の「差不多」という言葉。「だいたいそんなとこだよ」「ま、いいじゃん」と肩の力が抜けるようで好き。

ダリ回顧展

2006-11-30 | つれづれ
太田光さんのベタなCM「私はダリでしょう?」で宣伝中の「生誕100年記念 ダリ回顧展」に行きました。上野の森美術館で開催中。

とろけた時計のイメージが強いダリがなんとなく好きで、学生時代はポスターを部屋に貼って眺めたりしていました。久しぶりに本物とのご対面です。

「記憶の固執の崩壊」「奇妙な廃墟の中で自らの影の上を心配でふさぎがちに歩き回る、妊婦に形を変えるナポレオンの鼻」(←なんのこっちゃ?)などが出展されています。

で、感想。「あいかわらず何がなんだかわからん…」。でも、なんとなく心に引っかかるんですよね。不思議な絵。私にとって優れた画家という存在は、モノゴトの新しい見方・視点を開拓している人という印象があります。ダリにとって、世界はこのような見え方をしているのか、無意識の世界はこのように表現できるのかと、ただその才能、奇才に驚嘆するばかりです。

歪んだ空間、とろけた物体のかもし出すイメージ。自分自身がよって立っている強固なはずの「現実」が、実に虚であるか、空であるかを突きつけられる感じ。不安と、あらゆるものが一体化するような全能的感覚。ぜんぜんわからない絵だけど、わからないんだけれども、そんな感覚に時に身をゆだねることで得られる、自分という「存在」との向き合いの一瞬とでもいったらよいでしょうか。たぶん、それがダリになんとなく惹かれる理由なのかなあ、とつたない言葉を絞って思ったりします。ここまでわからないと、観る者の想像力に全部をゆだねているようで、何を考えても、感じても自由という、逆に開き直ったような感覚で絵に向き合えるから楽というか、堅苦しくない、というような感じも好きな理由なのかもしれません。

会場でダリが制作した短編映画が上映されています。これまたまったく不可思議な、わけのわからん映画ですが、冒頭の場面は衝撃的です。

トゥモロー・ワールド

2006-11-29 | 映画
映画「トゥモロー・ワールド」を観てきました。いろいろあったので、映画館に行くのはほんとに久しぶり。やはりいいですよね、あの暗くなっていく瞬間。別の世界にいざなわれるようで。そして現実を離れて映像と音に浸る時間の至福…あ、それはおいておいて、肝心の映画のほうですが、なかなかに深い内容なのでありました。

==以下。goo映画から==
2027年。我々人類にはすでに18年間も子供が誕生していない。このままでは、そう遠くない日、地球を引き継ぐ者はすべて地上から消え去ってしまう! 国家的事業に従事するセオは、人類の未来はおろか、自分の将来すら興味のない絶望を生きる男。しかし、彼は人類存続に関わる重要な鍵(キー)に接触する運命にあることを、まだ知らない…。


いわゆるSFを期待すると裏切られます。もちろん想定した事態はSFなんですけど、画面はむしろ戦争映画、しかも未来のではなく、マシンガンやバズーカが主役の現在の戦争といった趣です。

人類は希望を失い、科学の進歩も止まる。街中を走る車は木炭車のように大量の排気ガスを撒き散らし、多くの貧困者が町にあふれます。各地ではテロや暴動が頻発。舞台になる英国がかろうじて「鎖国政策」と軍隊によってまだ秩序を「暴力的に」保っている。

絶望が支配する世界では、暴力や差別が主役の座を占めます。なにせ政府が自殺薬と抗鬱剤を配る状態なのですから、人々がいかに「明日」の希望を失っているかがわかるでしょう。だから映像は暗く、暴力シーンや戦闘シーンが多くあります。裏切りも。さながらIRAと英国政府との内戦映画のように感じてしまいます。

以下ネタばれ部分があります。
そんな絶望状況の中、奇跡がおきる。一人の不法移民女性が子供を宿すのです。そして孤独な、劣悪な環境の中での出産。産まれた翌日、すぐに不法移民が決起する激しい戦闘の最中に放り出されます。銃声や破壊音が響く中、赤ん坊のか細い泣き声が響く。その瞬間、ほんのつかの間ですが戦闘が止み、静寂が訪れる。そのシーンが圧巻です。「希望」がいかに脆弱で、でも、いかに強い力を持っているのか。その静寂はあっという間にまた戦闘音にかき消されてしまうのです。人類の希望と愚かさの象徴シーンのように思えました。

最後のシーン。ヒューマン・プロジェクトとは? 人類は再生にむけて生まれ変わるのか。結論は観る者の想像に委ねられます。さて、御覧になった方、どう思われましたでしょうか? それにしても、ジャスパーをはじめ、主人公の元妻、主人公たちを船まで案内しようとした不法移民男性など「善意」を持つ者が次々に殺されていく。重いですよね。希望なき世の現実といってしまえばそれまでですが…

黄色い本 ジャック・チボーという名の友人

2006-11-28 | 
AERAムック「ニッポンのマンガ」を読んで、ぜひ読んでみたいと思っていた漫画「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」を手にしました。寡作ながら存在感があると評判の高野文子さんの作品です。

=以下、アマゾンから=
漫画の深さ、面白さを教えてくれた。
ロング・セラー。長く愛される作品を描き続けてきた名手による4つの掌編。
小説の主人公に自分を重ね、図書館で借りた本を読みふける少女。名作「チボー家の人々」を題材に採った表題作のほか、3編を収録。会社の片隅で繰り広げられる、恋か?セクハラか?本人たちにもわからない小さな騒動「マヨネーズ」、ボランティアが派遣先で起こすスリリングなすれ違い「二の二の六」など、バラエティー豊かに人生の真実と上澄みをすくい取る、たぐいまれなる作品集。ユーモアとクールな距離感が織りなす絶妙なバランス、名手による4編の物語をお楽しみください。


表題作など4本の短編集。表題作は、周囲が就職などで騒がしくなるなか、「チボー家の人々」を読みふける女子高校生のお話。私も青春の一時期、読書に夢中になる時期がありました。そのときの心持を思い出し、きゅんと切ない、懐かしい気持ちになりました。本の中の「現実」のほうが、実生活よりも重くなる。日常を生きてはいても、その日常の中に読書世界が入り込んでくる。まあ、夢想という言葉を使う場合もあるでしょうが、読書がもっと切実な重みを持つことがある。読書に夢中になった経験をもつ方なら共感してもらえるのではないかな、と思います。読書の魅力・魔力に魅入られた至福の時間とそこから醒めていく哀しみ。そんな切なさにも似た感情を淡々と、実に美しく描いた秀作でした。

残念なのは、恥ずかしながら私自身が「チボー家の人々」を読んでいなかったこと。おそらく読んでいたら一層感動できるのでしょうが。でも、読んでいなくても「読書」に魅入られた経験があればお奨めの作品です。

あちゃ、恥ずかしい…

2006-11-26 | 自転車
チャングムの感想を書けない日曜日、つまらない。ま、それはさておき、きょうはえらく恥ずかしいことをしてしまった。自転車の「立ちごけ」を初体験。

ビンディングペダルというのはスポーツタイプの自転車に乗る人ならおわかりいただけるのですが、ペダルと靴が固定されていて、ちょっと足をひねるような特殊な動きをしないと解除できない。そのペダルにして3ヶ月ほど。乗れない時期があったとはいえ、やはり慣れは油断を生みますね。

荒川サイクリングロードは途中途中に車の進入防止柵があるのですが、これが自転車にはやっかいな関門。狭い鉄柱の間を足をつきながら、そーっとすり抜けるようにしていく。でも、それほどではない、まあスピードを緩めれば通れるという開き方のところもある。

で、きょうはその後者のところで。前に、格好は完全に「自転車乗り」という格好をして小径車タイプの自転車にまたがっていたオジさまが。当然、そのまま車止めの間を抜けるのだろうな、と思って少しスピードを緩めて続いていこうとした瞬間、なぜかぴたりと停車されてしまって。「え、え!?」とあわててブレーキ。あっと思った瞬間に、あれ、見事ですね、スローモーションのように自分が左側に傾き、そして倒れていくのがわかる。ペダルの解除が追いつかないのです。

「あちゃあ、こりゃ立ちゴケだなあ」と思いながら、せめて怪我をしないように倒れるか、と意外に冷静に考えたりして。で、結局、ドタン。いやあ、恥ずかしかった。

一瞬大の字になるかっこうで道の真ん中で天をあおぎ、思わず声に出して「いやあ、恥ずかしい!」。別に誰が聞いているわけでもないし、見てれば恥ずかしいことはいまさらいうまでもないですけどね。

幸い、後続には自転車は見たらず、前のオジさんはもう前進していて後ろを振り返りなどしていません。でも、野球をしていた子どもたちに見られただろうなあ…いやあ、恥ずかしい。

で、何事も無かったかのごとく(いくらつくろうても無駄なんですけど…)、パンパンとお尻と手をはたきます。自転車にはダメージがなさそうなので一安心。現場を一刻も早く立ち去るべく、こぎ始め、知らずスピードをあげ、原因となった(と本人は知る由もないでしょうが)オジさんをすーっと抜き去り、目撃者から逃走しました。

いや、うわさには聞いていましたが、自分もやるとは思っていませんでした。車道でやると笑い話では済みませんから。以後は重々気をつけたいと思います。

「リハビリ」ラン

2006-11-25 | 自転車
きょうは久しぶりに自転車で埼玉の秋ケ瀬公園まで走りました。冷え込みがぐっと厳しくなったとはいえ、その分、空気が澄んだ感じがして、身体中がきりっとします。空には雲ひとつなく絶好の自転車日和。

さすがにヒートトテックのインナーに冬用ジャケット、ウインドブレーカーのいでたち。荒川サイクリングロードを上流へと向かいます。

岩淵水門で一休み。膝は大丈夫かな? ちょっと違和感はあるけど、なんとかなりそう。あとは一気に秋ケ瀬へと向かいます。朝霞水門の辺ではリモコングライダーを楽しむ人たちが数人いました。手で大空に向かって投げる。すーっと落ちてくるのかと思いきや、リモコンで操作され大空へと逆に舞い上がる感じ。優雅です。子どものころそういえばリモコン飛行機が欲しくてねえ。でも、あの当時で10万円とかでしたからね。それが、聞けばいまはそれほどしないようで。

秋ケ瀬公園は膝を痛める前以来なので2ヶ月ほど来ていなかったでしょうか。すっかり紅葉が始まり、銀杏も黄色に染め上がっています。速度がでていないので時間はかかりましたが、とにかく痛みも出ず到着しました。ちょっと膝の違和感が、なんというか、また痛みのタネがたまっているような、そんな感じはしますが、とにかく到着は到着!

ここまで約40キロ。おなかも減ります。コンビニで売っている安い一口羊羹の出番です。無性に食べたくなるんですよ。で、これがまたうまい! まさに、食べたいときがうまいとき。あとはゼリー状の栄養補助食品をあけて、さて戻るとしますか。

あれ、さっきまで逆風、向かい風だったから今度は追い風と思っていたのに、なんでかねえ、風向きが逆になっているじゃない…ま、そういうときもあるさ。のんびり帰るとしましょう。

予定時間の通りに帰宅。往復80キロ。膝の違和感こそ出ましたが痛みも無く、なんとかなりました。これでまたひとつ「リハビリ」のステップを踏んだかな。明日は4、50キロ程度に抑えて膝を休ませよう。焦らない、焦らない、と自分に言い聞かせて。

子育ては…

2006-11-24 | つれづれ
子育ては楽しいことも多い。それは認める。でも、悩みも相当に多い。いったいいつになれば楽をさせてもらえるのか。もういいだろ、といいたくなる。そろそろ自立しろよな、精神的にはせめて。主体性をもって生きてみろ。努力を厭うな。真面目であることはちっとも恥ずかしいことなんかじゃない。勉強は、人生を生きていくうえで最低限の鎧を身にまとうことだろう。その程度の、苦労ともいえない苦労から逃げてほかに何ができるというのか。声を大にしていいたい。自分の人生に責任を負えるのは、最終的に自分自身しかいないのだ、と。勉強をしないのならせめて生きる目標を持て。目標も無く、自分自身を律しようともしない人間は、他人から信頼など得られない。他人から喜んで助けてもらえる人間になってほしい。

難儀でござる

2006-11-23 | 
「難儀でござる」(岩井三四二さん)という本を読みました。これ、戦国時代モノなのですが、なんというか力が抜ける、武士の皆様もなかなか「生活」かけて大変ですねえ、という親近感を感じちゃいました。

=以下アマゾンから=
覇王・信長に金を無心する役を押しつけられた公家。
隠居せぬ血気盛んな老父。
いい人だけど無意味な篭城を続ける我が殿……。
歴史的大事件の陰に密やかに咲いた、まことに難儀な人々に振り回される男たち。もういっぱいいっぱいな彼らに解決方法はあるのか?
小気味良い展開と洒落な人物描写。そして時代小説の醍醐味。
松本清張賞受賞、直木賞候補など、注目を集める作家による、読後爽やかな快作。


登場人物は信長や家康といった戦国「スーパースター」の周囲の人々。時には村の百姓や軍役にかりだされた地侍もいますが、基本は武士、侍です。なんとなく大河ドラマや司馬遼太郎のおかげでしょうか、戦国武士のイメージってすごくかっこいいイメージがないですか? 命を賭して自分を律して忠義にあつく…

でも、この本の登場人物は、まあ確かに侍ですが、生活をかかえています。いまでいえばサラリーマン。仕える上司の出来が悪ければ悩むし、出世のために仕方なく戦うことだってある。恋しいカミさんのもとに帰るためには命あってのものだね、裏切りだっていいじゃないか、という感じ。とても親近感わく等身大の姿なのです。

大名も一人登場しますが、これも面白い。関ケ原のその日に間の悪いことに西軍に大津城を明け渡した「蛍大名」こと京極高次。西軍につくか東軍につくか、悩んではみても、また秀吉に反抗して柴田勝家につくといったミスを犯してはみても、けっきょくいつも領地安堵どころかなぜか加増されていく。カギをにぎったのは、秀吉の側室だった高次の姉だったり、淀君の妹である妻だったり、秀忠の妻になっている高次の妻の妹だったり。つまり親の七光りならぬ尻の光…

高次も相当かわいそうというか、面目なし、という感じですが、そんな「上司」の姿をみて、まじめに忠義して働いても結局は閨閥がモノいう現実にゲンナリ、といった体の部下の侍は哀れ。これ、親近感がわいてしまいます。

なかなかに一味違った時代小説でありました。

富士山

2006-11-22 | つれづれ
慌しく某所に飛行機を使って日帰り出張。羽田に向かう帰途、左手に冠雪した富士山がまさに「頭を雲の上に出し」ている姿をみることができました。神々しい。首が痛くなるぐらいねじりながら、しばらく眺めていました。

房総半島の太平洋側に出てからしばらく半島沿いに飛ぶと、房総半島、その向こうに夕日をあびてオレンジ色にきらめく東京湾、そしてさらに奥には雲海に浮かぶかのような富士山が見られました。冬の夕暮れ時、羽田に向かう飛行機の左窓側は押さえたいところ。見事な景色。出張の疲れを癒す富士の山、なのでありました。

江戸の誘惑

2006-11-20 | つれづれ
江戸東京博物館で開催中の「江戸の誘惑」展に行ってきました。ボストン美術館が所蔵している肉筆浮世絵の展覧会です。全体の印象は「江戸の豊かな文化」「江戸の庶民の豊かな暮らしぶり」といったものをたっぷりと味わえる内容。すばらしい作品が多かった。

江戸庶民の生活ぶりを描いた歌川豊春「向島行楽図」や菱川師宣「芝居町・遊里図屏風」などをみると、平和でおっとりとした景色が浮かび上がります。生活を楽しんでいるというか余裕があるというか。精神的に豊かな暮らしぶりが伝わってきます。

葛飾北斎「鏡面美人図」など美人画の数々は、大胆な構図、美しい着物、しぐさに惹かれます。艶やかな画の数々。

艶やかというか妖しい魅力は葛飾北斎「鳳凰図屏風」。鳳凰の目の妖艶な雰囲気は、きけば枕屏風の絵で、婚礼の祝いか遊郭か、いずれにせよ夜の生活の場面を幾多も見てきたもののようです。なるほどなあ、と思わせる魅力でした。

春画もありましたが、なんとも色っぽい男女の交流。いやらしい意味ではなく、お互いに心引かれ、あふれる思いが態度に出ているような風情。色鮮やかな作品でした。

枕屏風もですが、北斎が竜虎を描いた提灯なども展示。生活・日常の中にこうした芸術性の高いものを取り込んでいた江戸の文化の成熟度を痛感したのでありました。

あ、そういえば恥ずかしながら北斎に浮世絵師の娘がいることを初めて知りました。女性も浮世絵を描いていたのですね。彼女の作品は西洋・写実画っぽい印象を受けました。幕末も近い時期、やはり西洋の影響を受けたのでしょうか。

チャングムの誓い・最終回

2006-11-19 | つれづれ
つ、ついに終わってしまいました「チャングムの誓い」。はあ、なんだか力が抜けたというか、最後は幸せになってよかったとか、もっと見ていたかったとか、いろいろの感情がわいて出てきます。まあ、なにはともあれ、めでたしめでたし。これで土曜の夜の行動が縛られなくなるのがせめてもの救い(?)

王様は名君でしたね、最後まで。さすがのミンジョンホも結婚しては尻にしかれてしまって。昨日一番印象に残った場面は瀕死の王様がチャングムのうなじや唇、指先などをじっとみつめるという場面でした。切なかったですね。男としての王様の気持ちが。最後に外科手術までしてしまいましたが、さてちゃんと縫えるのかな? そもそも内臓の位置関係とかわかっているのでしょうか? スーパーウーマン、チャングムは自身でターヘルアナトミアをこっそり編んでいたとか?!

ま、細かい突っ込みはさておき、楽しませていただき感謝、感謝の物語。1年近い番組のほとんどすべてがチャングムにふりかかる苦難の物語で、「おしん」のような人生でありました。でも、ためにためたフラストレーションを時々、ボワっと発散させるパターンで引っ張られてしまいました。これほどのめりこんだドラマは久しぶり。また面白いドラマに出会いたいものです。

自転車ウエア衣替え

2006-11-18 | 自転車
さすがに冷え込んできました。しばらく自転車に乗れないうちに季節はすっかり晩秋の様子。久しぶりの荒川サイクリングロードですが、冬用のウエアに替えてみました。遅まきながら衣替えです。

まだヒートテックのアンダーは早い気がしたので、夏と同じ半そでの吸汗速乾シャツの上に、パールイズミのウインドブレークジャージ、下は前面がウインドブレークになっているタンクトップタイプのタイツ。まだグローブは指が出ているタイプだし、靴も特にカバーもしていないので完全冬装備とまではいきませんが、1ヶ月ほど前はまだ夏用ジャージに膝上パンツ、それにアームカバーとニーカバーでしたから、すいぶんと様変わりです。

それでも走り始めはちょっと寒かった。薄手のウインドブレーカーでも着ていればよかったかな、と反省しましたが、ものの10分もすれば体が温まりちょうどいいぐらい。白人ライダーの中には、半そで半ズボン姿もいて、どういう感覚・身体をしているのやら、といつもながら驚きでありました。

閑話休題。午前中の都内はまだ晴天。雲ひとつない空を時々見上げる。空気は澄み、河原の草は秋の色。風を切る感触が爽快感を引き出します。膝の具合もなんとなく大丈夫という感じ。怖いので今日は短めに、往復40キロで切り上げました。膝が本調子になればまた徐々に距離を伸ばしたい。なんとか紅葉が終わるまでに快復できれば輪行で峠のほうに行きたいのですけど、時間との競争ですね、今年は。まあ、無理はしないようにしたいとは思います。

それにしても自転車に乗ることのなんと爽快なことか! まだまだ走れる季節。楽しみたいと思います。

北方領土問題

2006-11-16 | 
たまには漫画や小説以外の本のことも書きましょうか。中公新書から出ている「北方領土問題 4でも0でも、2でもなく」(岩下明裕さん)。骨太で知的な学術的政策提言で、わたしは目から鱗でした。こうした骨太な論壇は国民的議論の下地、素材として優れた仕事だと思います。

=以下アマゾンから=
「北方領土問題」は、日本とソ連の戦後処理をめぐる交渉のプロセスのなかで生まれ、一九五六年の日ソ交渉においても、これを解決することができず、平和条約の締結に至らなかった。以来五〇年、事態が進展しないなか、中国とロシアの間で、同じく第二次世界大戦に由来する国境問題に終止符が打たれた。本書は、この係争地を互いに「分け合う」という政治的妥協に至る道筋を検討し、日ロ間への具体的な応用を探るものである。

筆者は中ロ問題の専門家。実は恥ずかしながら知らなかったのですが、中国と旧ソ連国境7000キロの国境線問題は見事に解決していたのですね。中ソ軍事衝突まで引き起こした懸案を、いかに中国とロシア、ならびに中央アジア諸国が解決したのか。その基本が「フィフティ・フィフティ」原則で領土を分かち合い、「ウイン・ウイン」の関係を構築することだった。理論的にはなるほど、と思うが実際の国際関係ではとくに国内向けにどう「自分たちは損をしたのではない」という意識を持たせられるか。一歩間違うと「半分しか取れなかった」と国内的にはナショナリズムに火をつけて混乱、将来的にまた国境問題が再燃しかねず、お互いに「負け」ともなりかねない。そうした現実を丁寧に分析します。

この経験を日露関係に生かす、つまり北方領土問題にどう活用できるのか、そのさい肝要な点は何か、をこれまた歴史的交渉経緯や現在のビザなし交流の実態などを踏まえて大胆に提案します。端的にいえば二島返還にプラスαをつける形。それは三島かもしれないし、共同管理構想かもしれない。ただ、四島返還というスローガンにもたれかかって思考停止していては何も解決しない。解決しないことによるディメリットとスローガンとは違う形の解決によって得られる利益との比較の考察は実に論理的で、説得性が高い。漁業権の問題で見れば二島だけでも相当の利益があることがわかり、これまた私には新鮮な驚きでした。

単純に中ロの方法を取り入れるのではなく、日露の現状を踏まえてどうお互いの市内関係を構築していくか。そして最終的には政治決断と、それを支持する世論の存在を醸成していく必要性が言及されます。

この問題はともすれば思考停止したような主張とレッテル張りが横行して、煽るだけが得意の週刊誌や月刊誌が、論にもならない論を展開しがち。大胆に火中の栗を拾うように骨太の提言をしている姿勢に敬意を表したい。知識人や学問の本来的役割はイデオロギーなどに左右されず、事実を積み重ね、大胆に論理を展開して、「学問的に考えればこの問題にはこうした方向性がある」と政治の側に凛として突きつけて、現実を動かしていくことだろうと思います。そういう知的作業の力がすごく落ちているような気がする現状の中、日本の論壇は捨てたものではない、と思わせる力作でした。

北方四島だけでなく、その他の国境紛争も解決できると筆者は言います。それをしないのは政治の怠慢であり、国民の知的怠慢なのだと私も思います。

最後に蛇足ですが、中公新書は読売新聞系出版社。実はなんとなく敬遠する部分も個人的にはあるのですが、この本はお見事!

恩師の死

2006-11-14 | つれづれ
学生時代からお世話になっていた恩師というか会社の先輩が先月、亡くなった。先生と呼ばせていただいていた。父の件もあって間があいてしまったが、ご自宅に奥様を訪ね、お線香をあげた。

79歳。亡くなるまでのご様子を奥様からうかがい、こちらからは学生時代にお世話になっていたころの話をする。自分でも忘れていたエピソードを奥様が「こんなこともあったでしょ」と話される。あ、そうだ。そんなこともあったっけ。

ふと、涙腺が緩む。奥様と私のことなんぞを話題にしてくれていたんだな、と思うと、なんだか気恥ずかしさよりもありがたさが身にしみてしまう。仲のよい夫婦関係が垣間見える。

先生には「いつでも会える」ぐらいな気持ちでいて、ふと気づくともう10年ほど前にお会いしたきりだった。毎年の年賀状や手紙で励まされていたので、そんな気がしていなかったが。会いに行くべき人にはやはり会えるときに会っておかないといけない。

中年期は、近しい人が亡くなる時期なのだとつくづく思う。この一年の間に、父をはじめ、会社の敬愛する先輩、「先生」、同期の友人…こうして失っていく人が年々増えていくのだろう。それを受け止めていく自分は成長しているのか。遺された者として、この世になにがしかのことをしているのか。死者の視線は透明で、常に重い。

自転車通勤再開

2006-11-13 | 自転車
実は、右ひざの靭帯を痛めて、しばらく自転車に乗れていませんでした。ある程度の距離をこいだり、坂などで力をこめるとひざの外側が焼けるような感じになる。整形外科に行っても結局、鎮痛湿布薬をどっさりくれて「乗るな」の一言。ネットで同じような症状に悩む方々がいることを知り、どうも「ランナー膝」といわれる症状らしいとわかり、対処法を一所懸命に探す日々。

けっきょく一番はやはり休養である、とわかりましたが、アイシングやストレッチもこれまでしていなかったものが多いことがわかり、日々の生活に取り入れることになりました。

ようやく落ち着いてきたので、一ケ月以上ぶりに自転車通勤です。澄み渡った秋の空のもと、ひんやりとする空気、色づき始めた木々。そんな中をちょっと恐々、ゆっくり走りました。風と一体とまではいきませんが、すーっと空気を切り裂いて風景を後ろに流していく。自転車に乗る幸福を感じ、爽快感でいっぱい。あー、やっぱり自転車っていいなあ。

まだ怖いので、少しずつ距離やスピードも伸ばしていこうかと思います。もう再発はこりごりなのでストレッチングなどもしっかりとり組みたい。自転車に乗らない日々が、自転車にのる楽しさをあらためて教えてくれました。

心貧しいのは…

2006-11-11 | つれづれ
知人の話です。野良猫が近くの空き地で子猫を産んだ。泣き声もだが、小便の臭いがきつくて大変迷惑している。なんとかならないか、と思っていたところでの出来事です。

空き地の近くに住んでいる(と思われる)老人がご丁寧にもトレーを持ってきて餌をその場で与えているのだそうだ。つまりそこで飼うかっこう。いなくなって欲しい猫が居ついたわけだから、我慢ならぬ知人はついに老人に言ったそうだ。

「迷惑している。飼うのならご自宅でどうぞ」。すると老人曰く。「なんて日本人は心が貧しくなったんだ。猫がかわいそうだと思わないのか。うちうにはもう別の猫がいる」。

皆様どう思われます? 私は老人のエゴと断じます。飼いたければ責任をもって引き取るべきでしょう。家に猫がいるから飼えない、なんてよほど「心まずしい」戯言、無責任な行為かと。

それから不思議なのは、なんでいきなり「日本人の心が貧しい」という一般・普遍的なものいいに短絡的に結びつくのか? 最近、この手の物言いが増えている気がして、相当にいやーな雰囲気を感じているのですが。知人が猫で迷惑しているという具体論を、いきなり日本人の精神論に持ち込む。まるで、理性で物事を捉えて批判すべきは批判する態度を「非国民」という一言で封じ込めようとした時代のような雰囲気。嫌ですねえ。

こんな言い方こそ、ちょっと短絡的な批判かな?