C E L L O L O G U E +

ようこそ、チェロローグ + へ!
いつまでたっても初心者のモノローグ
音楽や身の回りを気ままに綴っています

鰻遊、牛久城-廢城散歩圖譜その九

2015年04月18日 | ぼくのとうかつヒストリア

 ここ数週間は仕事が忙しく、チェロの練習もできず、廃城にも行けず悶々とする日々であった。今日は天気にも恵まれ、いよいよ片雲の風にさそわれてジープに乗った。目標は、茨城県南部の牛久城址。
 なぜ、牛久か。答えは明快、鰻を食したかったからである(笑)。牛久と言えば牛久沼の鰻。河童の小川芋銭に牛久シャトーではないか。食欲に誘われるのは臼井城以来、お決まりのパターンではある。

 国道6号線(あの、根木内城を真っ二つにした国道)をひたすら北上。取手市街まで渋滞が続いて時間が気になったが、ちょうどお昼頃に牛久沼畔の鰻屋さんに滑り込むことができた。沼を見ながら念願の鰻重を食し、満腹。大きなガラス窓から眺めれば、指呼の間に牛久城址と思しき山が見える。その山が笑っている。新緑のお出かけシーズン到来だが、これからは草が茂り虫も出始めて廃城調査にはあまりよいとは言えなくなる。今がチャンスなのだ。

■■

 現地不案内のため、女中さんに「牛久城はこの辺りですね」と聞いてみたが、城があること自体知らないと言われてしまった。話を聞いて出てきた女将は、さすがに城があることはご存知だったが肝心の場所は知らなかった。う~ん。
 天守閣にょっきりの城なら誰でも知っているのだろうが、山の中に隠れるようにひっそりと存在する土でできた城などを知っている方が不思議なのである。まあ、そんなもんだし、城の保全にとっては無名であることもひとつの防衛戦略と言えるのかも知れない。


写真1 国道6号線を左折してすぐ見えてくる風景。この辺りが根古屋で裏の山が牛久城址。


写真2 駐車場の案内板。見やすい、分りやすい、色もよい。ここに「牛久城址」を追加し、トイレもあったら最高。

 さて、それではと、勘で城を目指して6号線と別れ細道に入る。すぐに牛久城址の案内板が目に入ったのは幸いだった。その先に駐車場。こちらは、小川芋銭の雲魚亭と沼畔の散策路を訪れる人のための数台の駐車場だ。「かっぱの小径」は、このパーキングから沼沿いに木道が伸びている。気持ちがよさそうだが、今日は風が強すぎる。案内表示も、土地の雰囲気もイギリスのフットパスを思い起こさせるものがあって素晴らしい。牛久市、なかなかやるなあ。

■■■


写真3 牛久城址入口のサイン。風景にマッチした優れたもの。イギリスのカントリーサイドを思わせる(と思うのは私だけか(笑))。その証拠に、Ushiku castle ruinsと英語で書いてある。廃城が国際的になる日も近い、かも。

 牛久城址へのアプローチは民家の間の細い道を登って行く南側からと、反対側の北側(木戸口)からのエントリーがある。偶然、南側からとエントリーすることになったが、明るい斜面を登っていくこの道はなかなか雰囲気がよい。天気の良いこともあって、スミレの咲く杣道然とした細道がこの先の期待を持たせてくれる。私と助手代わりの妻以外は人っ子一人いない。ここは東京からも近いから歴女と遭遇するかもしれないと期待していたのだが、強風で竹が擦れる音が聞こえるばかり。


写真4 南側のアプローチを登る。いい雰囲気だ。花や草の匂いに陶然とする。

 さて、細道の登りはすぐに終わり、いきなり深い空堀の前に出る。忽然と城が出現した感じがある。誘い込むように足元がいきなり落ち込んでいる。竹が無ければ落ちそうである。これは大規模である。最近、ご紹介した小金城趾、根木内城などの東葛の城址と比べるといっそうの高さを感じる。その向こう側にはそそり立つようなI郭の土塁が目に入ってくる。土塁の頂上から堀の底まで20メートルはありそうだ。これを登ろうとする兵はまずいないだろう。その他、構造的にはそれなりに巧緻な作りであったのだろう。これなら、いつでも戦ができそうだ。ただし、石垣が無いのは総州と共通している。


写真5 最初に現れる空堀とI郭の土塁。高低差は20メートルはあろうか。威圧感がある。戦国の雑兵ではなく、タケノコの盗掘者が出没するらしい。

■■■■

 牛久城は、牛久沼に突出した台地に造営された城である。現在の城の下に当たる宅地や田畑は、当時はあらかた沼、あるいは湿地であったろう。千葉県の臼井城が印旛沼に面していたのと同様、牛久城は、牛久沼に突き出た高台に築かれた要害だった。突端の区域は、軍艦の艦橋のごとく湖面を睨んでいたことだろう。佐竹氏など有力勢力が活動しており、城主の岡見氏にとって、まさに最前線の重要軍事施設だったのである。後背地や周囲には、城中や根古屋という地名が残り家臣団の居住区であったことがうかがえる。


写真6 I郭西側とII郭間の空堀。右手のI郭の北端側が急傾斜で深く落ちているのが分る。

 築城は、16世紀半ば頃とされ、地域の抗争に際しては小金城の高城氏からも応援を得ていることから、戦国大名の有事派遣、後北条氏の支配関係という点でも興味深い城である。総州から応援に来てここで斃れた兵もいただろう。有力な佐竹氏やその影響下にある敵対者との抗争に備えて、庇護者の支配に入らなければならない地方リーダーの事情も見えてくる。
 残念ながら、その選択は、遠からず落城の悲運を招くこととなってしまった。牛久城も、小田原の役で開城された後北条側の城の例外ではなかった。その後しばらく豊臣系の城主が入ったが、後に廃城となった。

■■■■■

 この城は、里山の中に息を潜める中世城郭という雰囲気を持っている。土塁、土橋、空堀の遺構がよく残っていて興味深い。高台全体を、堀を穿ち、土塁を盛り上げて要塞化したようなものだ。それだけ、佐竹側も後北条側も欲しかったポイントだったのだ。
 だが、他の中世城郭同様、高い樹木に覆われ尽くされて見通しが利かない。竹や杉が少なければ、城の構造がもっとよく分るのに残念な点である。特に、ここでは竹の繁茂がものすごく、空堀や土塁の観察には分が悪い。見通せないだけでなく、薄暗くて写真も撮りにくい。まあ、それが保全のためにはよいのかも知れないが。


写真7 II郭東側の土塁から見下ろす。かなりの高さがあり急峻だが、竹が密生していて暗く、見通しが極めて悪くなっている。石垣でなくて竹垣状態(笑)。

 牛久城址は、宅地化された外郭部分、削平されてしまったI郭の先端部分を除いた主要部分の保存状態はよい。ただ、不思議なことに、木戸口の案内板以外に説明や指示表示がまったくない。これは土地所有の問題のひとつの現れだろうか。遺構が残されたのは、この「不案内」と「不人気」のためだったのかも知れないとすると、遺構の保存について考えさせられるものがある。今のところ、見学ができる状態であることを喜ばなくてはならないだろう。

■■■
■■■

 牛久城は、静かな雰囲気、圧倒的な土木構築物と、なかなか見応えのある城址であった。生い茂る植物の他、野鳥では、キジ、モズ、シジュウカラ、ウグイス、ツグミ類、ツバメ、ワシタカ類1種を認めた。豊かな自然に囲まれた魅力ある地域の核となり得る城跡として、後世まで残してもらいたいものであると思う。
 今回は、大変満足できる訪城となった。むろん、鰻もである。

図1 牛久城縄張図(イメージ)

 牛久城の縄張図をワードで描いてみました。aはIII郭の土橋、bは空堀にある畝、cは船着場らしき場所、dはI郭の土橋、eは削平されたI郭部分を偲んで書いた線。
 図を起こしてみると、自分の観察力、記憶力のいい加減さを思い知らされます。決して図を信じないでください(笑)。あくまでも、見た感じ、妄想の連鎖(笑)です。


写真8 牛久沼畔から見た牛久城址。ようやく始まった新緑の季節、疲れた目が若草色にうるおう。


写真9 II郭の下には土塁が巡るIII郭がある。なぜか、ここは穏やかな佇まいを見せている。


写真10 III郭の通路。右側がII郭の土塁。奥に土橋(a)に至る虎口が見えている。


写真11 土橋(a)前でII郭に登る。郭南端から北側の虎口方面を見る。かなり広い。主郭とも推定されている。


写真12 III郭北西角の切岸。厳しい表情です。


写真13 木戸口から土橋(a)を渡らずに通路を下るとIII郭下に出る。左手のIII郭の切岸が圧倒的だ。この空間は崖を削った残土処理場の腰郭だが、今では静穏な佇まい。


写真14 土橋(a)からみたII郭の空堀。見にくいが畝(b、囲み部分)が確認できる。


写真15 木戸口から土橋(a)に至る通路。クランク状になってII郭、III郭の虎口に至る。


写真16 土橋(a)近景。奥にIII郭の土塁が見える。


写真17 I郭の下、城郭基壇にあるスロープ(c)。現状、湿地に開口している。私は船着場と見たがどうだろうか。当時、城の周りは沼であったろうから、船着場としては格好の場所。兵や糧秣の出入りに利用され得る。やや大きい舟でも陸揚げできそうなスペースがある。軍船のドックという可能性はないだろうか。しかし、いかにもスロープ然としており、後世の工作だったりするかも(笑)。


写真18 I郭の風景。一面の雑草に覆われている。オドリコソウが優勢。右手の沼側はすでに早い時期に削られ失われた。従って、郭途中で消失しているため、南側には土塁が無く明るい。郭の内部は竹が防風林となり静かだが、先端では強風が吹き荒んでいた。見える風景はまさしく、艦橋からのそれだ。沼側からの最初の攻撃を受ける場所なので、削られた南端部分(e)の位置と形状、縄張がどんなであったか知りたいところだ。敵の正面部隊を撃退する工夫があったはずだし、櫓台程度はあったのではと想像できる。


写真19 I郭から牛久沼を望む。強風にあおられる竹が邪魔しているが、当時の眺望はかなりよかったはず。


写真20 I郭の虎口(土橋)(d)。


写真21 北側のアプローチ。こちら側は普通の雑木林に至る感じである。手前に城址の案内板など。案内板と言えるのはこれのみ。


写真22 西側最下段の辺り。この辺まで水がきていたはず。


写真23 牛久城南西側を見る。今はのどかな里山風景だ。

(牛久城データ)
城郭番号 茨城443
調査日 2015年4月18日
所在地 茨城県牛久市城中町
名 称 牛久城址(うしくじょうし)
高さ(比高)20メートルくらい
築城 16世紀中ごろ岡見氏の本拠岡見城の支城として築城(『日本城郭全集;3』による)
廃城 小田原平定(1590年)で開城、その後、由良国繁が入り、その子、貞繁病没(1621年)で除封(日本城郭大系)。この頃、廃城になったか。現地案内板では、元和9(1623)年廃城と説明されている。詳細は不明。
城主 岡見氏
※城郭番号は『日本城郭大系』の索引地図の番号です。

(訪城ノート)
 今回は若葉と鰻に誘われた訪城であったが、思いの他充実した訪城になった。城址だけでなく、周囲の里山と水辺の両方が楽しめる贅沢なエリアだ。牛久市の文化資産という点からかなりいい線を行っている。ただし、私有地のためか、城内には案内板が一切ないという状況もあるが、かえってそれが気持ちがいいという点もある。牛久城址入口のサインも素っ気ないが、それで十分であり、その素っ気なさが素晴らしいと思う。牛久市に一本取られた感がある。
 今後、また機会があったら、さらに北の城域や周辺の城址も見学してみたい。また、雲魚亭や河童の散歩道ものんびりと歩いてみたいものだ。が、周辺にぼちぼちコンクリートの建物が立ち始めた感じがある。次の訪城の際はどう変わっているか、変わっていないか。そこも大変気になるところだ。

整備状況 〇、保存状況 〇、アクセス △、WC ×、駐車場 ×(城址専用の駐車場はない)
案内板、標識等は木戸口入口のみで城内には一切なし。交通は、JR常磐線牛久駅からバス又は徒歩。

■写真はすべて、ニコン、D7100、AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6 G VR II、f5.6〜11、ASA100、絞り優先オートで撮影.

参考書
1 峰岸純夫他編『関東の名城を歩く:北関東編;茨城・栃木・群馬』吉川弘文館、2012年9月刊.
2 児玉幸多他監修『日本城郭大系;第4巻;茨城・栃木・群馬』新人物往来社、昭和54年11月刊.


【廢城散歩圖譜シリーズ・バックナンバー】

 その壱、風雲逆井城(茨城県坂東市)2013年4月27日
 その弐、増尾城址再訪(千葉県柏市)2014年4月12日
 その参、花輪城址(千葉県流山市)2014年4月20日
 その四、雨と夏草の臼井城址(千葉県佐倉市)2014年8月23日
 その五、小金城の在りし日を偲ぶ(千葉県松戸市)2014年12月7日
 その六、中金杉城(千葉県松戸市)2014年12月7日
 その七、行人台城行方不明(千葉県松戸市)2014年12月7日
 その八、根木内城の復活(千葉県松戸市)2014年12月7日
 その八 補遺、境根原合戦城跡を歩く(千葉県柏市)2014年12月7日
 その八 補遺二、春の根木内城再訪(千葉県松戸市)2015年3月29日
 その九 鰻遊、牛久城(茨城県牛久市)2015年4月18日
 (以降、折りに触れアップ。こっそり修正)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。