さて、今週の日曜日は、‘父の日’でしたね。
この日、僕は、一部の卒業生と、現役の里子から‘ありがとう’のメッセージを貰いました。
要は、僕は、彼らから、‘お父さん’と見做された訳でして、本当に嬉しかったです。(…でも、“本当は‘お兄さん’の方がいい”と言うのは、贅沢と、言うか、‘勘違い’でしょうか…笑)
また、既に卒業して、2年以上になる、保育士をしている元奨学生(里子)Aさんから、久しぶりに、携帯メールを貰った事には、格別の思いがありました。
…彼女と出会ったのは、現在、23歳のAさんが、ハイスクール2年生の時の事ですから、既に、彼是、8年以上前の事です。
その時、彼女は、郡部の山奥で、本当に酷い暮らしをしており、一番最寄のハイスクールへ通うにも現金が殆どなかったから、交通機関を使う事も出来ず、毎日歩いて2時間近くをかけ、雨の日にさす傘も無くて、バナナの葉っぱなんかを傘代わりにして、通っていたような状態でした。
Aさんが、そうした境遇にあったのは、勿論、フィリピンという国の抱える貧困問題も、その根本にありますが、無教養で無責任なAさんの父親のせいでもありました。
彼女の‘生みの母’は、街(セブ市)へ働きに出て、大した稼ぎもないのに、何人もの‘別の女’と遊びまくって、家庭を顧みない‘この男’に嫌気がさし、Aさんが、物心つく前に、蒸発してしまっていた為、彼女は‘生みの母親’の顔さえも知らず、その後、父親が他所から引っ張ってきた内縁の妻(ここフィリピンでは一旦結婚すると、基本的には離婚は出来ないので、そうとしか表現できないのです)に‘継子’として扱われ、更には、その後も、‘この男’の‘女癖の悪さ’が治らなかった為、この継母にも愛想を尽かされ、僕と出会う直前には、Aさんと妹、それに弟を含む4人が、‘この男’の‘第4番目’の女の家に預けられていたのでした。
…更に、程なくして、この父親が、‘5番目の女’と懇ろになった事に腹を立てた‘4番目の女’から、家を追い出されそうになっていた局面で、Aさんのハイスクールの担任の‘I先生’が、‘見ちゃいられない’と、父親と愛人(4番目の女)とに直談判して、Aさんを引き取り、僕らが、I先生の要請を受けて、教育・自立支援を引き受けた…Aさんとの出会いには、そうした複雑な、日本では考えられないような経緯があったのです。(ふうう~~、書いてて疲れました…苦笑)
そして、僕らは、そんなAさんを‘里子’として採用すると決めた時に、彼女の場合には、教育支援から生活支援にまで踏み込んだ、特殊な扱いであった為、通常の里親さんには、Aさんの支援のお願いせず、団体としての直接支援をする事にしました。
…彼女を引き取った‘I先生’は、
『身の回りのモノは、私の方で揃えますから大丈夫です』
…と仰ったのですが、先生とて、大して楽ではない暮らしぶりの中、そんな事までしていたのでは大変だと、僕らの方で、Aさんを‘買出し’に連れ出し、靴の代えとか、傘とか、通学カバンとか、本当に必要最小限のモノだけを買い揃え、“偶には美味しいものでも食べなさい”と、こちらの中華ファーストフード店で、一緒に御飯を食べさせましたが、Aさんは、半人前にも満たない量を食べたところで、もう、食べられなくなりました。
(普段食べていないから、目一杯食べさせたい…なんて思っていた当時の僕は、全くの無知でした。Aさんは、‘欠食状態が常態化’して、胃が縮んでしまっていて、こちらからの支援開始後には、何度か、‘それによる胃痛’のケアをする為に、医療費援助を行った事があります)
そして、昼食後、僕らはAさんをI先生の家まで送ったのですが、別れ際に彼女は、僕の手を取り、
『…本当にありがとう』
…とポロポロと涙をこぼしながら、声を絞り出すようにして言いました。その時の彼女の‘手の冷たさ’を僕は未だに忘れる事が出来ません。(…栄養状態の悪さから来る‘低体温’だったのです)
その後、時は流れ、Aさんは無事にハイスクールの卒業式の日を迎えたのですが、頑張った彼女は、卒業式で表彰対象となりました。
そして、通常、フィリピンでは、保護者が、壇上で一緒にメダル他を受け取るのが一般的なのですが....
…問題は、Aさんの実際上の保護者は、この学校のI先生であり、ちょっと‘ややこしい’話だったのですが、結局のところ、僕が、Aさんの親代わりに出席する事になりました。
…しかし、何処から、どうやって情報を得たのか、‘問題のAさんの父親’が、この日、ひょっこりと、卒業式の会場に、現れ、しかも、いかにも‘チャラチャラ’とした女(彼女というか、愛人というか...)を連れて来てしまったので、17歳の多感な年頃だったAさんは、
『…もう、イヤ!!』
…と父親と壇上に上がる事を頑なに拒否し、泣きじゃくりました。
…それを、I先生が、
『…嫌だという気持ちも分かるけれど、彼が、あなたのお父さんである事には変りはないんだ
し、ハイスクールの卒業式は、一生に一度の事なんだから... あなたの事が気になったから、お
父さんも来てくれたのよ...』
…と、Aさんに言って聞かせて、I先生は、父親と‘愛人’にも話をして、愛人には、‘お引取’頂き、何とか‘その場’を取り繕った…そんな事も良く覚えています。
そんなこんなで、Aさんが、ハイスクールを卒業し、大学の教育学部へ進学し、2年ちょっと前には、大学を卒業したのですが、その時には、流石に、‘無責任な父親’の姿はありませんでした。そして、この時は、僕が彼女の父親代わりを務め、卒業証書を一緒に受け取ったのでした。
そんなAさんは、大学卒業前に、I先生とは、実の親子ではないし、先生も楽な生活をしていた訳じゃないのに、(当方からの補助はあったと言っても、)そうしてAさんを扶養した事には、色々と難しい事があったようで、感情の拗れを生じていて、卒業と同時に、逃げるように、I先生のお宅を出てしまったのでした。
その時、彼女は、僕の所に来て、I先生との問題について、かなり感情的になっていて、先生の事をなじったので、僕は、
『…君の気持ちは分からないではないが、I先生がいなければ、僕らだって、君の事を助ける事は出来
なかったんだよ。‘恩人’の事をそんなに悪く言うもんじゃないよ』
…と嗜めたのですが、僕のモノの言い方がキツかったのか、彼女は、それっきり、僕とも音信不通になってしまっていたのです。(その後、I先生が知り合い伝手に聞いた情報から、彼女が保育士として働き始めた事を僕に教えてくれたので、‘その事’は把握していましたが...)
そんな彼女から本当に久しぶりにメッセージを貰ったのですが、彼女曰く、
『色々とありがとうございました。そして、ごめんなさい。おかげさまで私は今、
毎日、幸せに頑張っています』
…との事でした。
僕にとっては、‘この一言’が何よりの喜びであり、うまく言えませんが、泣けました...
こうした心の触れ合いこそが、僕らの活動の本質なのだと再確認させられた出来事でした。
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本当に、腹立つ~、なんでやねん~ってことが、山ほどありますが、たま~に、こういった心温まる話があるから、私たちも活動を続けることができるのかもしれませんね。
Aさんのような保育士に出会えた子供達は、幸福です。
この子も結局将来収入が安定したら、真っ先に親・兄弟のために「家でも立ててあげたい!」という潜在的願望を宿していることでしょう。
日本人の価値観を押し付けようとするのはこの国の伝統文化に対して失礼かと存じます・・・。
実を言えば、99の苦難に対して、1の救い…そんな感じかも知れません。
まあ、でも、その‘1’が希少だからこそ、効くんですね...
お互い頑張って参りましょう。
さて、お言葉を返すようですが、(少なくとも)この記事中で、私が、そうした比人たちの文化を否定し、日本人の価値観でジャッジしましたでしょうか?
また、上記のような状態が恰も比国のスタンダードだとした誤解を招くと良くありませんので、申し上げますが、私は、ここセブで足掛け10年、500世帯を超える庶民層の方々と関わりましたが、‘これほどまでの事例’に遭遇したのは、後にも先にも、これ一度きりです。
上記では端折りましたが、実は、Aさんの兄弟姉妹は、バラバラに親戚縁者を頼って‘離散’し、一部は、薬物中毒に陥り、社会復帰が不可能な状態になっていると聞き及んでいます。
即ち、Aさんについては、最早、家族の為に何かを為そうにも、‘家族そのものが霧散してしまっており’、どうにもならない状態なのです。(辛うじて、彼女一人が人並みにやっていられる状態になったと言う事です)
まあ、これは、私の意見ですが、こうした極端な事例までもを、‘これで良いのだ’と肯定してしまっては、それこそ、個々の一家の積み上げである国家も崩壊する事になりかねません。
特に最近、当地セブで、路上に溢れて来ている子供たちの姿を見て、最早、家族とか、地域社会とかが、そうした‘不条理’を吸収出来る限界を超え始めたのではないかと危惧しております。
「お目当ての黒のポロシャツを。。」
なんと入り口のまん前にあるでは、ありませんか。
手にとって。。横を見ると。。。一枚のプレート。
『父の日のプレゼント・・・!!!』
少し寂しく、『父の日』を買って帰る、私でした。
《有難う》この感謝の気持ちに本当に救われますね。私は日本とフィリピンでしか生活をした事が有りませんから分からないのですが 諸外国でも日本人の様に感謝の気持ちを大切に考え、そしてそれに対して何とか応えようとするものでしょうか?勿論個人差が有りますから一概に言えないと思いますが…。
もらい泣きしました。
私もそんな経験がありますが、私の場合は、あまり将来の無い高齢者でしたです!
私は、3年前に、ストックホルムで、在スウエーデン日本人高齢者非営利協会(シルバー会)を発足して、高齢者や病気、一人住まい、日常生活で困っている方々、そして、協力したい方、と供に助け合い活動をしてきました。
その中で、「ありがとう」の言葉を残し、他界されましたが、本当に嬉しかったです。
他国で頼りにしていたご主人に先立たれ、言葉も不自由でずいぶんん心細かった事でしょう。ご主人を追うようにして、3ヵ月後に行ってしまいましたが、私たちは、頼りにされて、それに応えられて、感謝されて、嬉しかったです。
私たちの努力が、心に伝わった事が!です。
権兵衛さまの活動は、将来ある、希望の在る、子どもたちへの努力ですから、嬉し涙が光ってますよね!
ますます、応援させていただきます。
彼女の苦労の一端がわかるいいエピソードです。誰でも一人では生きていけません。助けているようで、どこかで助けられている、そんな援助関係でありたいと思います。
一つの喜びをエネルギーに変えて、暑いセブで元気に過ごしてくださいね。
飼い主も、飼い犬もある意味、子沢山です…飼い犬の方は、自ら種を蒔いておりますが..(苦笑)
そうですね。僕もモノは貰っておりませんが、‘この日’に僕の事を思い出してくれた人たちが数人いたと言う事が何にも代え難い‘プレゼント’でしたね。ありがたい事です...