海鳴記

歴史一般

松方正義と生麦事件 (21)

2010-12-06 08:54:27 | 歴史
 もとより、薩摩・大隅・日向・道之島(奄美諸島)・琉球領を合わせても、実高40数万石しかないのである。たとえ、黒糖の専売制で一時的にかなりの利益を得たとしても、他藩もそのあと追いをしたりしたので、恒常的な高い収益になったかどうかは疑わしい。さらに、斉彬がその罪で調所を死に追いやった密貿易の収益だって、どれほどのものかはっきりしない。従来は何となくこれらの収入が幕末の薩摩藩を支えたように思い込んでいただけで、それは薩摩藩が贋金を造っていたという「事実」があいまいだったからだ。
 徳永氏は、文久2年末の琉球通宝の鋳造開始からほどなく、同型の偽天保通宝も造られ出し、慶応元年10月頃からは、通称天ぷら金といわれる洋銀に金メッキを施した贋二分金も鋳造されたのは間違いないとしている。また、これらの発想、実行はすべて久光側近である大久保一蔵、中山中左衛門らという。中山は途中で失脚したから、やはり、中心は大久保だろう。目的のためなら手段を選ばないかれの手法は、終始一貫している。
 そんなマキャベリストである大久保が、強気な新任の公使がやって来たとなれば、何らの処置もしなかったと考えるほうがおかしいだろう。そうではないだろうか。文久3年11月1日以来、下手人処刑問題はペンディングの状態だった。そして、その後もずっと宙ぶらりんのままだったのだろうか。果たしてそんなことはありうることなのだろうか。ましてや、口頭で「下手人を処刑します」と約束したのではなく、長い間保存される両国間の外交文書の中に記録されているのだ。少なくとも、約束が反故されていることにクレームをつけてもいい英国側から、以後何の抗議も出さなかったのはなぜなのだろうか。
 その答えは、表舞台ではなく、裏舞台で合意が取れたから英国側もそれ以上追及しなくなったのである。そのように考えない限り、この問題をどう理解すればいいのだろうか。
 現在私は、慶応元年閏5月18日に、奈良原喜左衛門は、生麦事件の現場責任者として詰め腹を切らされて死んだとほぼ確信している、「ほぼ」というのは、これを裏づけることのできる状況証拠はあっても、決定的証拠なり史料がないからだ。だが、私の確信を揺るがす証拠も史料もないことも同様に確かなことなのである。



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