海鳴記

歴史一般

奈良原家の怪(6)

2013-11-11 13:57:32 | 歴史
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 明治十七年、奈良原繁が養子にした櫻田太吉少年が一人戸籍だったように、奈良原トミもそうだったのだ。だから、それ以前の関係を辿れなかったのは当然といえば当然であろう。ただ、太吉少年の場合、「廃家名」にできたが、トミの場合、それはできなかった。なぜなら、奈良原喜左衛門の家名を残すために原田雅雄を養兄にしたのだから。それほど、繁は兄・喜左衛門に何かを負っていたのだ。その何かというのは、自分のために兄が犠牲になったことに対する終生の負い目である。より具体的にいえば、本当は自分がリチャードソンに切り付けた「犯人」なのに、それが不問にされ、兄・喜左衛門のみが責任を負わされたということである。兄・喜左衛門があの行列の当番供頭だったというだけで。
 実際、生麦事件関係の喜左衛門犯人説の文献を読んでみるといい。兄・喜左衛門は久光の駕籠周りにいて警護していたという(注1)。だが、数十メートル(十数メートルでもよい)先の異変に気づいた。もし、その異変というのが、多くの文献にあるように、リチャードソンが馬の踵を返そうとしていた混乱のことをさしているのならば、奇妙なことなのだ。なぜなら、駕籠の前方にはやや列を乱し始めた二、三十人の小姓組がいるのである。喜左衛門はそんな中をまだ踵を返していないリチャードソンのところへ二、三秒(五、六秒でもよい)で辿りつけるだろうか。せいぜい二、三間(3.6~4.8メートル)の道幅なのだ。
 私は無理だろうと考えている。誰かが小姓組の前にいて、リチャードソンの動きを見ていて斬りつけたのだ。その合図は、行列の責任者である喜左衛門が抜刀して近づいて来るのを見たからだろう。単なる供目付だった喜八郎(繁の当時の通称)は、小姓組の先頭にいた(注2)。そして、兄が近づいて来るのを見たから、斬り捨て御免の許可が下りたのだと判断し、リチャードソンに襲いかかった。

 もちろん、これらはあくまで私の想像にすぎない。しかしながら、私が奈良原繁を追えば追うほど、これらの想像を許すさまざまな証拠や状況証拠が出てきては私を悩ませている。それゆえ私は、嘘偽りなく、もう私の想像を拒否する証拠が出てきてくれないか、とすら思っている。

(注1)・・・松方正義もその近くにいた。彼は、周りが騒いでいたのにも関わらず、泰然自若として駕籠のそばを離れず、のち久光から褒められた。
(注2)・・・どの文献にも奈良原繁が行列のどの辺りにいたのか誰も書いていない。まるで、繁の存在を意図的に消しているかのように。同じく供目付だった海江田信義が行列の先頭で、最終的にリチャードソンに止めを刺したことをいやというほど書いているのに。



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