海鳴記

歴史一般

チャールズ・L・リチャードソン殺害事件審理裁定(70)

2011-08-04 10:20:57 | 歴史
A委員;「三次さんと離婚した奥さんは長生きしなかったのですか。それと子供さんはいなかったのでしょうか」
長岡;「亀尾さんはのちに再婚しておりますが、その2年後の大正5年には、夫の赴任先の朝鮮で病死しています。亀尾さんは、養女として奈良原家に入り、そこの家の跡取りと結婚したことになるのですが、その跡取り息子は大学時代から芸妓屋に通うような男でしたから、いわば形だけの結婚生活だったでしょう。それでも、緑子という娘を産みましたが、飛行機に愛人を乗せて新聞記事になるような夫にはもう我慢ができなくなったのでしょう。娘を奈良原家に残してでも、去ることにしたのかもしれません。それにしても、その後数年で亡くなるとは何か薄幸な女性です。
 ところで、娘の緑子は、昭和の初め、水谷八重子の劇団に入って、新聞で騒がれたこともあったようですが、生涯独身で父親と一緒の家に住んでいたようです」
A委員;「父親が亡くなったあとも生きていたんじゃないですか」
長岡;「戦後も父親の飛行機の弟子が用意した千葉の家に住んでいたようですが、昭和30年代には亡くなっていると記憶しておりますので、貢氏との接触の可能性はなかったように思います。」
D委員;「長岡さん、今まであなたが述べてきたことは資料⑫にはありませんが、何を根拠に言っているのですか」
長岡;「三次氏に関しては、平木国夫の『空気の階段を登れ』や『南国のイカロスたち』を参考にしております。なお、平木氏は、三次の飛行機造りの弟子である伊藤音次郎の「日記」を基にして書いておりますので、間違いないと思われます。なお私は、皆様には資料として提出できないのですが、繁や三次の除籍謄本も所持しております。
 それでは、他にご質問がなければ、話を先に進めたいと思います。ただ、質問攻めに合いましたので、どこまで話をしたのか忘れてしまいました。どこまで進んでいたでしょうか、左門委員長」
左門委員長;「貢さんの情報源が、父親の吉之助氏ばかりでなく、福島ヨネさんという三次さんの愛人だった女性からではないか、ということでした」
長岡;「あっ、そうでしたね。つまり私は、ヨネさんが繁の大礼服の写真を持っていたということは、三次氏から寝物語か何かで奈良原家の秘密を聞いていたのではないかと思うのです。それを、貢氏が彼女を訪ねて行ったときに、話したのではないか、と。どこで聞いたか、あるいは読んだか忘れてしまったのですが、貢氏と会ったヨネさんは、彼のことを奈良原家の一族として遇し、また快活な人柄を気に入り、大礼服を預けたのだそうです。


2 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-05-18 00:13:44
先程コメントした者ですが、緑子さんは他ならなぬ伊藤家に身を寄せていたのですよ。

言い方は悪くはなりますが、当時の飛行機関係者は奈良原男爵の資産にたかって
いたようですね。

男爵の死後、緑子さんは伊藤家に身を寄せ、緑子さんは着物も沢山持っていたらしいですが、その着物も伊藤家で売られてしまったにもかかわらず、ろくな物も食べさせてはもらえずに栄養失調から肺結核になったと聞いてます。

美しく華族のお嬢様然とした方だったらしいですが、お嬢様で世間知らず、金目の着物も半ば騙し取られたような有様で後ろ盾もなく慣れない田舎の暮らしでさぞ苦労なさったでしょうね。

このことを知るのも今は父から話を聞いた私の家族くらいでしょう。

緑子さんのお墓はどこにあるかははっきりとはわかりませんが、東峰は成田空港が出来る時にお墓も掘り起こして成田市三里塚桜川にある墓地に移転したので
無縁仏として三里塚桜川の墓地に埋葬されているかもしれません。

伊藤家の人なら何か分かるかもしれませんが、緑子さんの半ば騙した事を知っていれば口は重いかもしれませんね。

それにこのことは伊藤音次郎氏の子供も既にかなり高齢であることから知らないかもしれませんね。
伊藤音次郎氏の90歳過ぎている娘さんはご存命ですが親のやったことを知らないかもしれませんし、昔の事で聞いてもわからないと仰るでしょうね。
緑子嬢のこと (長岡由秀)
2015-08-14 13:25:08
 久しぶりにブログコメント欄を見ましたので、返事遅れました。悪しからず。
 私は、緑子さんが父の死後、伊藤音次郎家に世話になったことは知っておりました。ただ、いつ頃亡くなったのか、墓はどこにあるのかなどは皆目わかりません。緑子さんのことでわかっているのは、昭和2年、18歳で水谷八重子のいる新派の劇団に入団したことぐらいです。当時、緑子さんは男爵令嬢だったのですから、ゴシップ記事のネタにされたのでしょう。その後の消息はわかりません。
 ともかく、緑子さんは美人系だったことは想像に難くありません。しかしながら、なぜ父の三次氏が彼女に婿をとり、男爵家を継がせなかったのかよくわかりません。不思議なことです。
 三次氏は、昭和19年7月14日、音次郎氏が提供したという、市川市大字市川新田246番地の家で亡くなっております。当時、華族制度はまだあったのですから、養子縁組をして届出をしていたら、緑子さんにも年に相応の金が入り、栄養失調になることもなかったと思うのですが・・・。
 奈良原繁家の子孫は、戸籍外の子孫を除けば、緑子さんだけでなく、他に数人、若くして栄養失調で亡くなっていました。気の重くなる調査結果でした。

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