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白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

中二病でも恋がしたい! 第12話 最終話感想 追記/補足

2012-12-21 19:20:57 | 京アニ
昨日のエントリーではちょっと言葉足らずだったところがあるのでちょっと補う。

まず、ナレーションでかたをつけたのがどうして駄目なのか、だけど、それは、中二病という病に対して、勇太や六花がどう向き合ったかについて、自ら語る機会を奪ってしまったから。

昨日も書いたように、そのことに自覚的に取り組んで、かつ、自分なりの回答を得たのは丹生谷だけなんだよね、作中では。

モリサマーによれば、俺様モード(オレ/アタシは特別!って自意識をもって)で何かに熱中しているのは、その対象が何であれ、中二病だ、ってことだった。
要するに、自意識過剰なまま何かを打ち込むのは、等しく中二病だ、ってことになる。

で、その、何か打ち込んでしまってる自分に対して、それを冷静に見るもう一人の自分がいるのが、中二病を卒業した自分=モリサマーだ、ってことになる。

要するに、自分のコントロールが出来る、ってこと。
もちろん、その上で、中二病的振る舞いをするのは、全くオッケーになる。
だから、彼女的には、街頭ゲリラ・パフォーマンスは、それがどれだけ奇天烈であっても、わかってやっている以上、問題なし!、ってことになる。

その「わかってやってる」って意識が大事。

で、その意味では、前回と今回の変化で見る限り、実は凸守もそうだったように思える。

そんなのわかってるけど、やってる、ってこと。

だから、結局、頭のいい、優秀な子は、比較的カンタンに中二病から離脱できる。
というか、中二病を行き来できる。

もっとも、そんな行き来ができる時点で既に「病い」ではないのだけど。

で、六花と勇太については、そういうプロセスが全然見えないまま、終わってしまった。

だから、彼らにとっては全然、中二病「でも」いい、じゃないんだよね。

実際、最後に、勇太は、まだ「恥ずかしい」なんて言ってるわけだから。

さらに、六花の場合は、もっと重症で、そもそも彼女にとっては、中二病的奇行は文字通り、現実逃避のためのものでしかない。しかも、その発端は、勇太の奇行を見て真似したところから始まっている。なので、これは、もはや病いですらない。

ここが、グルグル周り、って言ったところ。
要するに、勇太と六花は、実は互いが互いの鏡像だった。
その鏡像どうしが、最後に、よくわからんけど「恋」って言葉で誤魔化されて、互いに互いを許してオッケーということにしてしまった。

しかも、そのことに何ら、自覚的な発言をせずに。

この点で一番気になったのは、終盤になって、ほとんど六花が受動的な態度しかとらなくなったこと。特に今回なんか、ほとんど意志のある言葉を発していない。

そして、意志のある言葉を発さないから、第三者と全く意味のある対話をしない。

勇太に至っては、二年前の自分からの突然の(超・ご都合主義的なw)手紙を見ての、自己との対話しかしてない。

つまり、六花も勇太も、何か、勝手に自分で納得して終わっただけ。

そして、そのステージを、周りが、ありえないくらいのホスピタリティでお膳立てをしてくれる。

というか、いくら何でも、二代目邪王心眼はないだろ。
くみん先輩を便利に使いすぎだよ。

いや、コミカルだからもちろん笑えるんだけど。

でも、最後に、くみんが出てきて勇太に六花の経緯を告げる当たりは、いくらなんでも、調子が良すぎる。もちろん、突然、示し合わせたかのように、六花の実家に集ってる、丹生谷、凸守、一色もね。

この優しすぎる隣人たちは、なんというか、宮崎アニメ的ご都合主義なので、それだけでニンマリできるけど、でも、それだけなんだよね。

彼らのお膳立てにのって、六花と勇太は、なんちゃって逃避行をする。。。。

で、ここにも、二人の主体性はほとんどない。

だから、一言で言うと、幼稚なんだよ、二人とも。

で、その幼稚さを挽回する最後の機会が、自分たちで「中二病でもいい」って自覚し、発言することだったはずなんだけど、その機会を、天の声=ナレーションが奪ってしまった。

ついでに言えば、このナレーションのCVのおっさんの声、嫌いなんだよね。
いかにも訳知り顔ふうな語りが。
しかも、結局、この声、第一話の冒頭と、最後に出てくるだけで、登場人物の誰かであったわけでもない。
なので、一体、この天の声は、何の権利があって、こんなお節介なコメントを物語の前後に組み込んでくるのか、全く不明。

普通は、ナレーション的声は、途中で誰か作中人物の一人であることがわかり、その人の目線で語ってるんだな、ってわかるのだけど。

例えば、最近なら、ヨルムンガンドのヨナとか、昔だったらギアスのCCとか。
あるいは、京アニだったら、ハルヒのキョンでもいい。

何にせよ、誰が、どんな資格で、物語の解釈に繋がるナレーションをしてるのかが、明らかにされる。

それが最後までないままだった。
モリサマーであればまだ納得できた、というのはこういう理由から。

で、その天の声が、「中二病でもいい」と言ってしまい、六花と勇太に宣言させる機会を奪って、ぶち壊し。
そこには、何のカタルシスもない。
ヌルい自己肯定がそこにはあるだけ。

もちろん、六花も勇太も単にイタイやつとして、中二病やってた、というだけなら、そんな自覚なしで終わってもいい。

でも、六花の場合は、父の死の受け止めを巡る不調や、それを基づいた家族関係の崩壊、という話を途中で入れてしまった。さすがに、それだけ重たい問題を六花の奇行の原因として作中で示したのなら、形だけでもそれに作中で答えないと駄目だろう。

十花が延々と抱え込んだ六花と母の問題はどうなったのか、そもそも、六花の母はちゃんと六花と対峙することができたのか。六花の爺ちゃんにしたって、ただ堅物だから、騒ぎ立てていたわけじゃなく、彼なりに孫のことを考えての叱責や怒りだった。

そうした六花の家族を取り巻く、結構厳しい表現に対して、それらに何ら応えることなく、終わってしまった。

これは、やっぱり、物語としては、不誠実だと思う。

京アニでいえば、過去のKey関連作品は、そういう家族の問題については、作中で提示したら、一応、ちゃんとそれに答えていた。単に、物語を盛り上げるために、都合よく使ったりはしなかった。

それに対して、この『中二病でも・・・』は、放り投げっぱなしで終わらせた。
あるいは、そのあたりの描写をすっ飛ばした。
これは作劇の仕方として、不誠実でしょ。

で、そうした不誠実な畳み方は、12話しか尺がないから、というのでは理由にならない。

全ての伏線に物語が応える必要があるとは思わない。
けれども、物語の根幹に関わるものについては、きちんと応えるのは大事なことだと思う。

そして、このあたりの対応が、どうもアニメオリジナル(ないし、それに近いもの)については、結構蔑ろにされているなぁ、というのが、最近、気になるところ。

アニメは作画だけじゃなく、まず、物語がある、ってところに戻って欲しい。

そうでないなら、ただ、綺麗な作画だけを、イラストとして流通させればすむことだから。
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