言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

手触りを失った世界

2016年12月13日 | Weblog
 昨日の続きである。 

 白紙の紙に24穴を開けてファイルしてあったものの冊数が多量に残っている。いつかは取り組む題名・材料となるであろうと夢中になって書き取っていた形跡がありあり。
 そこに記述(?)されてある字や文の読み取りは困難を極める。

 どだい、中味は何年、いや何十年も以前のものというという代物なのである。

 お蔭でタダでさえ悪筆の上に乱雑な走り書きが、書いたはずの本人である自分自身でさえ読み取れないのだ。
 何て書いてあるのか?他人様に訊きたくなるほどなのだからウンザリである。

 と言っても、しかし、そのメモの断片が途切れた記憶をまさぐるような誘惑をかき立てる。
 何を知りたかったのか?どの部分が面白かったのか?それをどうしたかったのか?その先の知的方向は? 等々、湧いても消えている欠落部分の存在がもどかしい。

 さて、話しは「旋盤」に関しての言葉に惹かれてであったことは間違いない。
 センバンが変化して、バンに「子」を附けて、愛称としてバンコと呼ばれるにいたる。
 その注記として40年前と書いてある。「今」から遡っての40年前なんだか、それさえ今となっては不明である。

 この「旋盤」は、1894年(明治27年)「工学字彙 第3版」に登場する、らしき記述。
 コンピューター付きの旋盤を“NCせんばん”と呼んだ、とメモってあるが、今や製造設備にコンピューター内蔵でない方がごく少数のはず。と言うよりも、コンピューターという“物”が入っていると言う認識はあるのだろうか?と言う程に当たり前の物となっている。

 そこから又記憶が途切れる。eww medical --G01,*100.00 z-30.00 何のことだかもうサッパリと分からない。

 ただこのバンコからPCが内蔵されていく過程に於いて、重大な変化というか、決定的に変わってしまったことがある。
 
 旋盤を手で操作することによって、自分の経験知によって得られる職人芸と称される精緻な技術は“手応え”として身体に覚え込まれたものであったのだ。

 が、ボタン一つを押せば電子回路に依って自動的に製造されていくとなると、自分で操作しないという、“機械”が動いてくれるという別の次元の出来事に変わるのだ。
 
 造作をする・操るという手応えを失っていくことなのだ。
 それが、削る・はつる・なめる……と表現される微妙な手触りを失っていく結果を招いている。

 凄ワザは“計算”されることによって得られる事に置き換わったという事なのだ。
 そこには、もう「なめたり、さらったり・もんだり・むしったり…」する感覚は無い。これは良い事なのかどうかと言う善悪の問題でも無く、さらに価値観の問題でも無い。

 やがては、AIに取って代わられて、人類存亡を問う迄の、いや存在そのもの意味意義とは何かという根源の問題になっていくのは如何にも空恐ろしいではないか。

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