ウヰスキーのある風景

読む前に呑む

火のないところにも煙が立つ

2015-05-26 | 雑記
いつもいつもいつもいーつーもー、なんとか上人の話ばかりで飽きが来るであろうから、秋になる前に更新をしようと思ったので、つい思いつきでタイトルをつけた。だが私は謝らない。


訳のワカラン冗談は措くとして、タイトルの話にさっそくいこうと思う。今日はきっと短いはず。


昔々、あるところに、チャーチルというおじいさんがいました。

ブリテンという、国土は小さいけれども、大きな国の宰相をやっておりました。最小の宰相、なんぞという冗談はおよしなさい。

チャーチルじいさんは葉巻をこよなく愛しており、愛用のサイズには自分の名前を冠されるほどだったそーな。


そんなじいさんの日課は、人前で演説をぶつことで、人々に幸せだとか高揚感だとか、そんなまやかしを与える、実は手品師だったのです。


おじいさんは、愛用の葉巻に針金を差し込んで、吸いながら演説をします。

するとどうでしょう!葉巻は今にも燃え尽きんとするのに、灰が落ちようとしないではありませんか!!

かくして、演説に集った民衆は、おじいさんのお話なんぞそっちのけで灰が落ちるか落ちないかでハラハラして、ハイになったそーな。めでたしめでたし。




さて、実際に灰が落ちそうで落ちないからといってハイになったかはわからないが、そーゆー話があったと聞く。

まあ、援護するよーに敢えていうとしたら、灰皿に灰を落とすようなことをすると、おじいさん自身も気が散るので、そのための措置だった、といえなくもない。
それが奏功したと、言っておけば、普通の人の話に聞こえるな!これでよし!



さて、現代は煙を文字通り煙たがる世の中である。煙を煙たがるのは基本的に虫だと思うが、そんなことを言うと「ヒジンドウテキだ!訴訟も辞さない!」となりそうなので、言わなかったことにする。


話が進まない。


ひるがえって現代をなんとなく想像して欲しい。

ニッポンの政治家(中央地方問わず)の言動がとても馬鹿馬鹿しいのが目立つ。まあ、わしも津々浦々見てきたわけではないが、なんとなくそう思えることが多いのではなかろうか。


いつ間抜けなことを言うかに気を取られて、我々は実際、何も聞いてないのかもしれない。


しかし、政治だけではないだろう。別に擁護しようとは思わんが、例えば韓国人の言動。これもよく槍玉にあがる。


時代は下り、情報が幅広く行き渡るからといって、チャーチルの葉巻の灰に気を取られていた当時のイギリス人と、実際は何も変わらないのではないかと。


葉巻をくゆらせる必要などなく、そこらじゅう煙が上がっているのである。

煙を煙たがるがゆえに、煙を見て騒ぐ。虫と変わらないといったら失礼極まりないとはいえ、失笑を禁じえない。




とある漫画家のネタだが、「火のないところに水煙!」などといっておった。


古来より、木を見て森を見ず、という。


さしずめ、「煙を見て火を見ず」というところだろうか。

これやこれ、不見煙(みずけむり)という。


煙に巻かれて人は死ぬが、水でも人は死ぬ。努々、注意を怠ることなかれ。


では、よき終末を。


行動について

2015-05-17 | 雑記
さて先日。手相占いをしてみた。いや、無料でな。

スマホとやらで手のひらの写真を送れば無料で診断してくれるというやつである。
仕事中のお遊びでやってもらった。わしは今もガラケーである。

細かい内容は忘れたが、わしは行動力がある、といわれた。スマホの持ち主はちと不思議がっていたが、「そういえば安生さんは多趣味だし、あたってるかな」と考え直し、納得したようだった。

「あなたの趣味は何ですか」と問われれば、わしは「ない」と答える。

それでも重ねて聞いてくるなら、こう答える。「敢えて言うなら、生きていること自体が趣味である」と。


おかしなことを!ゲームバカみたいにやってるじゃないか!と、最近は日常のことを書かないので、脳みそが脂肪でおかしくなってる上人様を非難するところ以外を見たことがない人には突っ込みようがないが、そう突っ込まれてもおかしくはない。

わしにとっては酒呑むことと変わらん。酒が趣味かといったらあれも生きてるからやってること。呑めない体や状況になった場合はやめるだけである。結構落ち込むではあろうな。目が見えなくなってゲーム辞めるとか、耳が、とかなれば。


いきなり話が飛んだような感じなので、一度お忘れいただく。


さて、行動力があるという話について。


例えば上人の話をしてみようか。まさか・・・日蓮!?ではない。死んだ人間を非難する悪趣味は持ち合わせておらん。


かの為清上人は、若かりしころは満員電車に乗って通勤するサラリーマンだったそうな。

「こんなことを続けてたらおかしくなってしまう!」というわけで脱サラとやらを行い、太田龍の仕事の手伝い(翻訳の)を始め、いくつか翻訳著書を出版し、現在は農地を買って、自給自足の生活こそが人類と地球にとってあるべき姿だとのことで、現代文明を否定する作業に着手しておられる。

その行動力はとても素晴らしく、現代文明の粋たる病院に出向き、血液検査を行うほどであるそうな。はて?


それはともかく、かつての言の葉であるが、「社会運動を起こしたかった」と発せられていた。

まるで紅葉した葉がひらひらと舞い落ちるが如く、そして落ちたら落ちたで風で葉っぱ吹き飛ばす奴で片付けられたような、そんな流れである。


現代文明を否定する先に真の文明がある、とのことであったはずだが、血液検査なんぞをする。

あるものは使うといいたいのだろうが、そもそも(上人が)バカにしている日本人をたぶらかすために使っているわけで、ふざけているだけである。


これは行動力があるから行っている、または行われてきたからではない。

ただ流行を示されたら動物のように反応する(と思しき)ゴイムと同じである。


血液検査云々ではかつて、どこぞの鹿、じゃなくて歯科がやっておったことと変わらん。

くるみそばだかを食べ過ぎた時のわたしの血液の状態ですぅ。血が汚くなってしまいましたぁ。などと、鹿みたいな顔でやってるわけである。


体に異常(糖尿)が出たから、食べてるものが悪い、もっといいものを食べようと、その体のサインに気づかずどんどん栄養を取り込んでいれば、しまいには本当に糖尿になるのだ、と野口晴哉は非難し嘆いていた。


あなたは、あなた方は、社会に変革を起こしたいのではない。

社会に自分を変えてもらいたいだけの甘ったれである。

だから、外に向かって行動するのである。


彼らが特に非難する、テレビでCMするものに飛びつくゴイムと何一つ変わらないのである。


とはいうものの、人というのは何かそうやって刺激があるから動くというのは自然ではある。それがどこから来たものか、という違いはあろうが、原理は同じ。

わしの部屋は汚くて、「何年も行ってないから掃除にしにいってやる」と母親がやってきて、ある程度掃除したものである。
まだ、わしが寝ている部屋の方が手付かず(二人が寝転がれる分くらいは母親が来る前の日にやったが)なので、また来るとのことである。

そこはいいとして、母親が言う「一人だとなかなか掃除できんよ。わたしだってそうだから」と。


つまりは、何も変わらないのに一定の基準(つまりは思い込み)であれが正しいだの間違えているだのと非難してるだけで、どんぐりの背比べでしかないのである。

ゴイム、なんぞという言葉は絵空事である。ユダヤも非ユダヤもそもそも人でしかないわけで、そもそもが馬鹿げた言葉だったのに振り回されてきたら、上人のようになる。

すべてが幻だというのなら、健康だとか陰謀だとか、素晴らしいだとか酷いだとか、無意味ではないのか?
なのに振り回され、「どんぐりの背比べ」に終始する。


わしはとても感動する。そのような行動力に。むしろ行動力がないことに。


わしは行動力がなくて動かないのではない。外に向かって行動することに意味がないから、自分に向かって行動をしているだけである。そーなると、動かないという行動に行動力を注いでいるというわけだな。


前に書いたが、社会運動だなどと無意識に言い放つが、どこを指しているのだ?と。

社会とやらが自分を抜かした外側でしかないから、「社会が」とほざく。


テレビを捨てても「テレビ」にすがっているようでは、いつまで経ってもゴイムである。

ま、人のことは言えん。そもそも人が人の姿である限りは、みな「ゴイム」ではあろう。


「俗人共は皆自分自身のことを見ず、外からの刺激、例えばテレビやらのマスコミなどの情報で動かされているだけだ。わたしは違う!」というのが、上人に限らずどこにでもいる。

では何が動かしているのか?と思ったら何も変わらなかった。上人は「自分自身」だと思っているが、森などの「所謂自然」との関わりで出来上がった、関係性の中での約束事で動いているだけである。

他の人も見ているであろうという前提の下のマスコミによる情報での関係性の中での約束事で動いている世人と何が違う?


何も変わらん。テレビが木になっただけだ。


上人はいうだろうなぁ。

「人間が健康に生存できることこそ無上の価値だ!」とでも。


健康に、生存できる、というのもまた「一定の基準」である。


では、問おう。己が生存していることは、全てを押しのけてまで振りかざせる、王権かなにかなのか?と。

なんか気取った聞き方なので、書き直す。

お前が生まれてきたことは無上の価値だと誰かが決めてないとお前は生きていけないのか?と。


ない。そんなものはないのである。ないものをあると言い張るのは、オカルトである。


筒井康隆が、「愛煙家通信」のインタビューでいっていたが、周りがタバコにうるさい時にタバコ吸うときゃこういやぁいいと。

「殺さば殺せ」と。

実際に殺されるこたぁない、みたいなことを言っていた。


何食おうが何しようが思えばいい。「殺さば殺せ」と。

その食べたものが、しでかしたこと自体があなたを殺すことは通常無いとしても、いつかは「自然」があなたを殺すのである。

正しい食い物を食ってようが死ぬのであるから、もう普段から「殺さば殺せ」と思ってれば間違いない。

とどのつまりは、何やっても一緒。これだけである。


これが、でぃすくろーじゃーなリクツによる行動についての解である。


さて、余談であるが、わしが上人の下でフルータリアンだとか脳足りあんことを言っていたときから、「チンパンジーが他の動物捕まえてたまに食う」だとか散々言って書いてきた覚えがある。時期が重なっていたかは本当は忘れたが、言ったことはある。

風の噂で聞くところによると、上人だかそのフタコブラクダかははっきりしてないが、書くことがなくなったのであろうか、その話を書いていたそうな。「チンパンジーやゴリラもたまに肉を食う」だとか。

全ては一つである。上人は集めてきた情報を並べることはできても、全然統合することのできない奴ではあったが、それを端的に示している。

上人とはゴイムの別名である。まさに全ては一つであった。
※ゴイムは分裂している、とよく言っていた。

では、よき終末を。今までたまにこう書いてきたが、週末と間違えているわけではないことをお断りしておく。