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たまたまたまには

2017-09-18 | 雑記
昨日だったかその前だったか。その辺りはよく覚えていないが、家に転がっている六月十日の新聞を拾い上げ、なんとなく社会面を読んでいた。

もちろん、某宗教団体のあの新聞である。そこはともかく。

六月九日に、天皇の退位に関する特例法が国会を通ったという記事だった。

来年の末を目処に退位するとのことらしい。天皇は上皇に、皇后は上皇后と呼ぶことになるそうだ。

退位と同時に、皇太子が天皇に即位というのもセットである。今さら知ったのか?といわれたら、「そうだ」と答える。


記事を一通り読み上げて、拙はこうつぶやいた。「カウントダウンが始まっていたのだな」と。


何がカウントダウンか、と思われるが、日本はそもそも始まっているのかしらんが、終わるのだろうなと。


話は変わるが、ここと同じgooブログで、皇室の惨状を書き綴っているブログがある。


そこで聞いた話を前提で書くなら、日本の皇室というのは、まともではないといえる。

昭和天皇の代については不明だが、皇后と皇太子妃については、真っ黒な人間がごり押しで入内しているという。

かつてここでもやっていた(今も0ではないといえるが)陰謀論では、明治天皇は摩り替わってるだのとあるし、昭和天皇はイルミナティの狗だとか言われている。

それはともかく。今上陛下も、戦後に洗脳を受けているとすらいう。何せ、自身の誕生日に「A級戦犯」などとと戦勝国の都合で犯罪者扱いされた日本の指導層の絞首刑を執行とかいう、本来ならトラウマものの出来事に感謝するような心理構造を作り上げられているようだ。

その洗脳を施したといわれる人物は、名前も記録されている。バイニングというそうだが、バイニングという洗脳の手法なのかと、一瞬勘違いした。ちょっとありそうな名前だったからである。

皇后についてはGHQ。皇太子妃については、我が実家の創価学会の手のものだとか。


拙の父親はよく、天皇がテレビに映ったときには、「あいつら金持ちで庶民のことなんか考えてないんだ」と非難すること仕切りだったものである。

裏を返せば「我らが創価学会という物は、庶民のためにある正義の団体なのだ」と言っているのだが、それがどうして皇室に食い込んでいるのだろうか。

これは父親の言葉通りである。すなわち「金持ちは庶民のことなんぞ考えてない」からである。


ついでに、世の中についても、「普通の人達は金のことしか考えてない」とけなす。

だから、テレビや新聞は創価学会の偉業を報道しないのだ、などと言っていた。

創価学会は金では動かないのだ、とも言っていたので、それを踏まえた言である。

それで、その金のことしか考えてない普通の人達の集まりが製作するテレビで創価学会のCMが流れる理由はなんなのだろうか、とは考えられないのだろう。世の中が我々の思うように変わってきたからだ、などと思うのだったら、実にめでたいというしかない。

繰言になるが、「金持ちは庶民のことなんぞ考えてない」からである。

さて、もう少し詳しく話すなら、テレビ局には、「外国人採用枠」があるという。TBSが最初に作らされたと聞いた。

創価学会には在日が多いと聞く。在日はすなわち、国籍としては「外国人」となる。その心は・・・?皆まで言わなくても判ろうか。

世の中が変わったのではなく、腐らされているの間違いである。この「外国人採用枠」の如きものが、例えば皇室にもあるというわけで、GHQの手先だったり創価学会の信者だったりが入内しているのである。「外国人採用枠」とは謳ってないが、中身はその状態であるというわけだ。スパイに国籍なんぞ関係なかろう?


この手の話を書いているブログがあると記した。

先ほど、ブログのアクセス数などを確認する際に、編集画面から確認できるgooブログランキングを見ると、そのブログらしいタイトルだが、違う名前になっているものがあった。


タイトルが変わっていたのは、ブログを凍結されたからだそうな。凍結される前に閉めようと思って整理していたのだそうだが、なんやかんやで始めたようだ。


冒頭の新聞記事で、今さらな報告を確認しなければ、思い出して見ることもなかったろうし、こういう流れでなければ、もしかしたら、そのブログ主が執筆を再開してなかったのかもしれないな、などと思う。


話は普段の珍妙な方面へ向かう。似た話は、以前にも書いたかもしれないが。


先日、夜の仕事上がりに、だらだらしないでさっさと帰ろうと、普段より早く仕事場を出て、電車に乗った。

十分早く出れば十分早くつくだろうというのは、当たり前のように思えるが、乗換えが集中するので、関係ないことが多い。

普段より早く出た場合は、その目論見通り、十分早くなるのだが、そこは余談である。

つり革に摑まり、入り口の方を向いていた。座席前に立つことも叶わぬ満員状態であったので、車両の真ん中あたりの広場のつり革に摑まっていた。

しばらくして、目の前で人が急に滑った。歩いているわけでもないのに。

拙が立っていた方とは反対方面の出入り口すぐの座席の壁にもたれていた女性が、急に滑り落ちたのである。

足元がぐらついて、体勢を整えるために足を踏み鳴らしたとかいうなら判るが、滑って転んでいる。

余りの勢いに、何が起こったのか、目の前の人も一瞬判らなかったかもしれないが、ともかく女性が倒れた。

その女性のすぐ側に立っていた男性が立ち上がらせたが、どうも尋常でない倒れ方であった。

とはいえ、「大丈夫です」と言って元の位置に立ったのだが、程なくして、同じ勢いで倒れた。

「車掌に報せるべきか」と考え、視界に車内電話でもないかと思ったが、ああいうのは連結部にしかない。

ただ、幸いなことに、すぐに駅に着いた。最初に立ち上がらせた男性ともう一人の男性が、到着後、ホームに担ぎ出していったものである。

その出入り口からすぐに、ガラス張りの待合室があったので、女性はそこに座り、両手で顔を覆っていた。その先どうなったかは判らないが、あの倒れ方は、使い古された言い方をするなら、「糸が切れたかのよう」だった。

「たまに体調不良者の介抱で電車が遅れるとかいうのがあるが、こういう感じなのかもなぁ」などと考えたが、その電車はアナウンスされるような遅れもなく、そのまま進んだ。

これは拙が早く帰ってみようと考え、その電車に乗り合わせたからこそのめぐり合わせなのかもしれぬ、などと思うのである。

何を世迷いごとを。たまたまだろうが。と言われるだろう。

何か起こるのも起こらないのも、意識しているかしていないかの違いなだけで、たまたまである。


良かった悪かったというのは、人間の浅慮である。実を言うと、たまたま、というのも同じ。


つまり。たまたまなどということもない、となる。


冒頭の新聞記事の話と、たまに見ていたブログの凍結からの再開、それを受けて記事の更新というのも、たまたまではないというわけである。

余り、たまたまと書いていると、目が変になりそうなので、この辺りで終わることにする。


では、よき終末を。


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