1988年(昭和63年)に新潮社から刊行された村上春樹の四本目の長編小説の文庫版。村上にとっては最初の書き下ろし長編。彼の中で最高傑作と評価する人が多いという。まだ半分しか読んでいないので私なりの評価はあとに譲るとして、「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つのストーリーがパラレルで展開していくスタイルは、確か福永武彦の作品で呼んだ記憶がある。
まず主人公の「世界の終わり」における「僕」とその影の「俺」、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」という三つの一人称使いが凄い。当然、意味はあるのだろうが、この作品は英訳されているというから、英語版ではここをどう訳したのだろうか、とても気になる。
次にこれまで読んできた作品とは違って、少なくとも上巻だけかもしれないが、音楽の叙述が少ない。ざっと拾い上げても「ダニー・ボーイ」、「ローベル・カサドシェが弾くモーツァルトのコンチェルト」、「ジョニー・マティスの『ティーチ・ミー・トゥナイト』」、「ステッペンウルフの『ボーン・トゥー・ワイルド』、「マービン・ゲイの『悲しい噂』」くらいだ。
下巻でどういう展開を見せるのかわからないが、どうやらこの小説は「こころ」に収斂されていきそうな予感がする。「世界の終わり」の中で図書館の女性が「あなたの心が開かないのは私のせいなのかしら?」「私があなたの心に応えることができないから、それであなた心は固く閉ざされてしまうのかしら?」と立て続けに質問する。
それに対し「僕」は彼女のせいではなく、自分自身の問題だとして「ずっとあとにならなければそれを理解することができないという場合だってあるし、そのときにはもうすでに遅すぎるという場合だってある。多くの場合、我々は自分の心を見定めることができないまま行動を選び取っていかなくちゃならなくて、それがみんなを迷わせるんだ」と答えるダイアローグが象徴的だ。
まず主人公の「世界の終わり」における「僕」とその影の「俺」、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」という三つの一人称使いが凄い。当然、意味はあるのだろうが、この作品は英訳されているというから、英語版ではここをどう訳したのだろうか、とても気になる。
次にこれまで読んできた作品とは違って、少なくとも上巻だけかもしれないが、音楽の叙述が少ない。ざっと拾い上げても「ダニー・ボーイ」、「ローベル・カサドシェが弾くモーツァルトのコンチェルト」、「ジョニー・マティスの『ティーチ・ミー・トゥナイト』」、「ステッペンウルフの『ボーン・トゥー・ワイルド』、「マービン・ゲイの『悲しい噂』」くらいだ。
下巻でどういう展開を見せるのかわからないが、どうやらこの小説は「こころ」に収斂されていきそうな予感がする。「世界の終わり」の中で図書館の女性が「あなたの心が開かないのは私のせいなのかしら?」「私があなたの心に応えることができないから、それであなた心は固く閉ざされてしまうのかしら?」と立て続けに質問する。
それに対し「僕」は彼女のせいではなく、自分自身の問題だとして「ずっとあとにならなければそれを理解することができないという場合だってあるし、そのときにはもうすでに遅すぎるという場合だってある。多くの場合、我々は自分の心を見定めることができないまま行動を選び取っていかなくちゃならなくて、それがみんなを迷わせるんだ」と答えるダイアローグが象徴的だ。