アクアコンパス 3   世界の歴史、社会、文化、心、読書、旅行など。

カテゴリー「案内」に人気記事と連載の目次があります。Twitter に yamada manabuで参加中。

スペインとポルトガルを巡る旅 21: リスボンと大航海時代

2014年12月05日 | 連載完 スペインとポルトガルを巡る旅

< 1. べレンの塔: 1519年完成の港の砲台 >

西端のポルトガル人が東端の日本(種子島)に漂着したのが1543年でした。
今日は、ユーラシア大陸の東西が巡り会った経緯を簡単に追います。



< 2. 16世紀末のポルトガル船帰港風景、南蛮屏風より >

大航海時代とは
15世紀末から,スペインとポルトガルは探検航海によりアフリカ、アジア、アメリカ大陸に進出し始めた。
コロンブスのアメリカ大陸到達(1492年),バスコ・ダ・ガマの喜望峰経由のインド航路発見(1498年)などが画期となった。
16世紀末から、海外進出の主役はオランダ、フランス、やがて英国へと移っていった。
これ以降、世界の交易と植民地が拡大し、やがて産業革命が起こる。
一方、キリスト教の布教も進んだ。


< 3. 1572年当時のリスボン >

リスボンの歴史
ここは西ヨーロッパ、最古の都市の一つで、フェニキア人が北方との交易拠点にしたことに始まる(紀元前1200年頃)。
その後、ローマ帝国の西端最大の都市となり、次いでイスラム教徒の支配を受け、レコンキスタの後、リスボンはポルトガルの首都になって発展していく。



< 4. 大航海時代の主な航路 >

大航海時代はどうして始まったのか
13世紀頃、世界各地で、開拓や技術向上による農業発展、交通や商業の発達による都市の成長により経済発展が進行していた。
中国と東・南シナ海、インドとインド洋、アラビアとアラビア海、ヨーロッパと地中海では、大消費地を中心として海上交易が発展していた。
しかし全体の繋がりは薄かった。

東アジアでは、14世紀後半になると中国は海外貿易を禁止し、中国や東南アジアと交易していた琉球も16世紀中頃には交易時代を終え、国主導の交易体制は後退した。
7世紀に誕生したイスラム帝国は、またたく間にイベリアから北アフリカ、インド、東南アジアまで勢力を伸ばし、地中海から東シナ海までの海上交易を支配した。

しかし、十字軍遠征(11から13世紀)を契機に、イタリアの港湾都市ベネチアがジェノヴァを負かし、東地中海貿易を支配するようになった。
ベネチアはアラブ商人を通じて、インドの胡椒を独占輸入し繁栄した。
そこでジェノヴァは活路を、大西洋沿いの北アフリカとイベリアに求めた。
この両地域は既にイスラム化しており、後に探検航海を支援することになるユダヤ人も多く流入していた。


< 5. 1400年頃の勢力図 > 

当時、ヨーロッパはアラブや中国より遅れており、輸出品が少なく(奴隷など)、支払いは金や銀に頼らざるを得なかった。
さらに各国は相次ぐ巨額の戦費を調達しなければならず、通貨としての金銀が必要だった。
金は北アフリカで産出していたが、アラブ商人が握っていた。

ポルトガルは12世紀に誕生した小国だが、13世紀中にはイスラム勢力を駆逐していた。14世紀前半には、ジェノヴァの経済・技術的支援の下、後半には国王や商人達が探検航海に投資しするようになった。
それが1415年のモロッコ北端の攻略に始まり、幾度もの挑戦を経て1488年の喜望峰発見へと進んだ。
この後、ヴァスゴ・ダ・ガマやコロンブス、マゼランの快挙へと繋がり、ポルトガルとスペインは黄金時代を迎えることになる。

これらの航海は、難破や病死など多大な危険を孕んだものだった。
しかし、航海者や資金提供者は一攫千金を夢見、ポルトガル王は国力増強とキリスト教布教を切望し、挑み続けた。

到達地では、交易や布教だけではなく殺戮や略奪、後には植民地支配が横行した。
ヨーロッパは豊かになったが、アフリカから1千万人の黒人奴隷と新大陸から多くの金銀が掘り尽くされた。
この後遺症は今も続いている。

しかし一方で、近代世界システム(ウォーラーステイン提唱)が誕生し、世界は有機的に繋がった。

あとがき
リスボンのショッピングセンターや町を歩いていて感じたことがある。
15世紀に沸き起こった情熱は、今は無く、栄光は残照の如し。
国や民族の栄枯盛衰を感じざるを得ない。
しかし、あらゆる人種が共に暮らしている様子を見ると、400年前のことは杞憂に過ぎず、人は仲良く暮らしていけるものだと感心し、羨ましくも思えた。

次回は、リスボンの町歩きを紹介します。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿