思いつくままに断章伊東

昔の出来事や最近の出来事から思いつくままに書きます。

関川村は教育村と言われてきた

2020-07-01 14:10:46 | 日記
 関川村議会の鈴木紀夫議員の教育に関する一般質問は、教育振興基本計画とインクルーシブ教育などについてであった。基本計画は教育基本法17条2項に定められた村民と教育を結ぶ大事なもの。ところで議会だよりの見出しが「教育立村せきかわ」とあり、そこで標題で書くことにした。                関川村は何故、教育村と言われてきたか。伊藤三郎村議会議長は、土沢小学校100周年記念誌に「村から大学、高専に進む人が、他町村に比べて多かった」と書いて理由とした。ご本人は東京農大。隣町の金子好町長が中学校長の私に語った「関のしょ(関川村の人たち)はよく勉強したので、いい学校へ行った」と符合する。行けない人もいた。父は関尋常高等小学校を品行方正学術優等で通した。しかし、東京の丸善書店(ジュンク堂を創った)に勤め東大に出入りしたと私に聞かせた。同級生の本家の当主は青山学院大卒である。寄生地主制下の封建的しきたりでは、分家の人間の進学など許されなかった。父の優等生の証書も本家に保管されていた。叔母も、高等女学校へ行きたかったと言っていた。私の小学校の冬休み、小さな木箱が回ってきた。中には上手な作文が入っていた。夜風呂をもらいに家を出ると、読本を朗読する声が聞こえた想い出がある。村人は確かに勉強を大事にした。     そして昭和21年7月2日開校、全国唯一の6・3・3制実験校、関谷学園が教育村の象徴となった。松山高校から東大に進んだ渡邉家の渡邉萬壽太郎当主、安角集落出身の佐藤仙一郎栃木師範学校教授が、城戸幡太郎教育研究所主任に関谷村を紹介、渡邉家が援助して設立された。一貫教育、男女共学の関谷学園は、学校教育法の施行に伴い新学制に吸収され9か月で幕を閉じたが理念は引き継がれ、教育村の面目躍如の役割を果たした。民主教育に賛同し集まった帝大中退、師範学校、旧制高校卒など多士済々、個性豊かな先生方と生徒は、6・3・3制発祥の栄を担った関谷学園を誇りにし、たくさんのエピソードを残した。数学の学力別編成、英語で通す授業など先進的な試みもあったが、学園の理念の一つ働きながら学ぶ実を高校定時制分校が挙げた。関川村議会議員の過半数がその出身者だったことがある。村政で村に尽くしたのである。進学者は学生会を作ろうとしたその名簿もある。教育村の条件整備では、通学の7時台越後下関発坂町行を村長が先に立って国鉄に働きかけ実現している。後年、学校で消耗品費が他町村に比べて多いと言われた。村教委職員には教育村意識があった。女川は地区としての矜持を持って勉強した。人材も輩出。私が赴任した奥三面の冬、「へき地の医療」を研究テーマにした学生が来た。村人の信頼は厚く、あらゆる情報を提供、また教えてもらった。女川中、村高卒、東大保健学科の逸材だった。女中は1学年1学級。担任が私に「クラスの一人残らず自分が目指す高校に合格し、小躍りして喜んだ」と語ったことがある。そんな教育風土。前述の定時制分校教師は高橋重右衛門、佐藤貞治の両先生。女川であられる。教育村についてエピソードを集めておきたい。      これから、人口減少の深刻化、高齢者人口がピークの関川村で、どのような未来を実現していくか。地方制度調査会などからは、そのビジョンの共有が求められている。そのとき、教育は資源として重要になるのではないか。教育は村の未来の灯になる。そして、地方行政もデジタル化が進められるとき、人を惹きつけて已まない、人が集まる教育はどうあるべきか。教育村の大きな課題であると思う。(2020.7.6:伊東正夫)














































人口減少が深刻化し高齢者人口がピークを迎える夜会 
 


























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