シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

寺山修司の歌

2013年05月27日 | インポート

今年は寺山修司没後30年で、「短歌研究」が5~6月号で特集を組んでいる。
6月号では、私も小文を書いている。最も好きな歌として

  夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む

を引いたのだが、この歌を挙げたのは、もう一人が横山未来子さん。
私は、
「寺山の初期の歌は、あまり日本の風景という感じがしなくて、この歌もヨーロッパの田園のような感じがしてしまうのだが、私だけだろうか。」
と書いた。すると、横山さんも、
「はじめて読んだとき、日本ではない、どこか外国の田園風景の中にいるような少女の姿が鮮明に目に浮かびました。」
と書いていて、ちょっとびっくり。(打ち合わせをしたわけではない)

これは結構すごいことで、この歌にはどこにもヨーロッパの田園を直接指示するような言葉は使われていないのに、同じような〈幻影〉を、読者に見せるのである。こういったことは、なかなか起こらない。
「木皿」が外国を想起させるのだろうが、その語だけで読者のイメージを一つの方向に誘導していく。一語のもつイメージ喚起力がやたらに強いのである。
その力の源は「しずめて」にある。
水に浮かんでしまう「木皿」を、水中に沈めて洗う。そのときの水の手ごたえ。
「しずめて」が、少女の手の力を感じさせるので、いきいきとしたリアリティを読者は抱いてしまうのである。
リアルな表現には、触感が大きな影響をおよぼしていることがよくわかる。

  大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ

これも有名な歌で、加藤治郎さんが挙げている。
この歌には二つの解釈があって、

① 〈私〉が老母をもてあましていて、買ってくれる町がないか探している

② 〈私〉には母がいないので、老母を買える町がないか探している

のどちらでも読むことができる。
①は姥捨て山のような、不気味なイメージ。
②は、不思議な母恋の歌ということになるだろう。
加藤さんは①の解釈で読んでいる。

寺山は、

  亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり

のように、現実の母は生きているのに、母が死んだ歌を作っていた。
作品の内部では、〈私〉は、母のない子であった。だから、②の解釈も成り立つわけである。

どちらで読んでも、優れた歌であることは変わりない。
ただ私は、②の読みのほうを好んでいる。
結句で「つばめよ」と呼びかけている。つばめは、無垢な鳥のような気がする。
だから、「買ってでもいいから、母にもう一度会いたい」という思いのほうが、つばめには合っているような感じがするからだ。

寺山修司の死後に刊行された『月蝕書簡』という歌集がある。
生前には未発表だった作品が収められている。
そこには、

  月見草今日もカタログ読みあかす通信販売の母はなきかと

という一首が含まれている。
あまりいい歌ではないが、これは明らかに、母を買おうとしている歌である。

この歌があるから、②の解釈が正しいと私は言いたいわけではない。

ただ、寺山には「母を買う」というモチーフがずっとあって、現実の世界では母を選ぶことはできないが、文学の逆転された世界の中で、子が母を選ぶことができるという夢想を、リアルに描いてみたかったのではないか。
反世界を生み出す夢が、ここには存在していたようにおもう。

映画『インセプション』は、リアルな夢の世界を作り出し、眠っている人の意識を操るという話である。そのために、精密な映像をイメージできる少女に、夢の中の街並みを描き出させるという場面がある。

寺山の歌にもそういうところがあって、現実とは別の世界を生み出すために、非常に映像的な描写がいかにも臨場感をもって作り出されるのである。

  チエホフ祭のビラのはられし林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび

の、林檎の木が「かすかに揺るる」なんて、いかにも本当のようだが、見方を変えれば、じつに作り物っぽい感じもする。「チエホフ祭」自体が、虚構的な設定だ。
緻密に描かれれば描かれるほど、世界は嘘っぽくなる。
夢と現実のあわいを、寺山は綱渡りのように、かるがると歩いてみせる。
寺山のこの軽やかさは誰にも真似できなかった。


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