シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

比較の詩型

2017年12月10日 | 日記

「ユリイカ」2016年8月号「あたらしい短歌、ここにあります」が発行されてから、もう1年以上が過ぎたのですね。早いものです。

備忘のために、これもアップしておきます。短歌の現状分析として、どれくらい当たっているでしょうか?

文中で引用している大岡信さんの『うたげと孤心』は最近、岩波文庫で復刊されましたね。

 

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比較の詩型 そして比較できないもの


 

1 比較によって生み出される時間性


 短歌は、つねに比較を誘う形式である。

 比べるためには、何らかの共通性がなければならない。たとえば清少納言と紫式部を比較する、というのは、よくあることだが、〈平安時代を生きた女性文学者〉という暗黙の共通性があるからこそ、それは成立する。

 短歌は、字余りや字足らずもあるけれど、およそ三十一音という共通性がある。そうであるから、今作られた歌と、千年以上前に作られた歌が対比されるということも、ざらに起きるのである。たとえば栗木京子の『うたあわせの悦び』(二〇一三年)では、

 

  雪のうちに春は来にけり鶯のこほれる涙今やとくらむ

       藤原高子『古今集』春上

  ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は

       穂村弘『シンジケート』(一九九〇年)

 

の二首を、小さな涙に注目した歌として、対照させながら論じている。まったく時代が異なる作品であるにも関わらず、ある一点において響き合うということが、短歌ではしばしばあるのである。

 小説や詩では、形式や内容がそれぞれ違っているので、二つの作品を比べるのは慎重にならざるを得ないが、短歌では慣習的に容易(たやす)く行われている。これはある意味で乱暴なことである。時代状況を無視して並べるということも起こりやすいからだ。ただ、現在作られている歌は、過去の歌と地続きであるという時間認識を呼び覚まされるという良さもあるだろう。好むと好まざるとに関わらず、短歌は、古い歌と比較されることで歴史性を強く帯びる詩型である。

 最近、ミステリ作家として著名な北村薫による『うた合わせ 北村薫の百人一首』が刊行された。「歌合(うたあわせ)」とは、二首の歌の優劣を議論しながら競い合う遊戯で、九世紀末から行われていたという。競い合うという短歌の性質は、時代を超えて、脈々と受け継がれているらしい。

 比較する、ということは、〈何が新しいのか〉という問いを、いつも前景化させる。

 ここで俵万智の『サラダ記念日』がベストセラーになったときの論調を振り返っておきたい。永田和宏の時評集『[同時代]の横顔』からの孫引きとなるが、次のような文章は、ある種の典型と言っていいだろう。

 

「新聞や週刊誌が、俵万智や歌集ブームをこれだけ大々的に扱っているにもかかわらず、わが歌壇はじつに奇妙である。その第一は、歌壇外でこれだけにぎやかな話題を提供しているにもかかわらす、本家本元の歌壇では、ピタリ音無しという点である」

(時評「奇妙な歌壇」細井剛、「岬」87年9月)

 

 この文章について永田は、「『ピタリ音無し』などでは全くなく、少々はしゃぎすぎるくらい書かれている」と苦言を呈している。今読み直して興味深いのは、〈古い歌壇に対抗して、若い世代から新しい歌が生まれている〉という図式が明瞭にあらわれていることである。

 『サラダ記念日』が刊行されて今年でちょうど三十年だが、伝統的な歌壇に対抗して新しい歌が登場してくる、という話型は、その後も繰り返し用いられてきた。枡野浩一のように、歌壇から認められないことを積極的にアピールする歌人もいる。もっと前に遡れば、与謝野晶子の『みだれ髪』も、旧弊な和歌に叛逆する歌集として、賛否両論を引き起こしたのだった。そして現在も、この図式に沿って、新しい歌が紹介されやすい――テレビなどで若い世代の短歌が取り上げられる場合、だいたい保守対革新のような語り方になる。

 考えてみれば、三十年間もずっと変わらず、強固な伝統歌壇が存在しているはずはないのだが、非常に古い世界が一方にあって、それに対決する形で新しい短歌が生まれてくるという見方で論じられやすいのである。実際は、古い歌を継承することで優れた歌を生み出している歌人もたくさんいるのだけれど。

 もちろん短歌には、宮中歌会始のように皇室とつながっている側面があり、伝統性がことさら強調されやすいのも事実である。旧来の短歌VSインターネット時代の短歌、というように、二項対立的にとらえたほうがおもしろいし、議論が盛り上がりやすいという側面もあるだろう。先にも書いたように、比較によって短歌は活性化するわけで、それが生み出している現象なのかもしれない。鴨長明が書いた十三世紀の歌論集『無名抄』にも、当時の旧派と新派の対立について書かれている。〈新旧の対立〉は、何度も繰り返されてきた、それ自体が歴史的なものなのだ、という視点を持っておくことも重要であろう。

 よく言われることだが、短歌では歴史を知らなければ、ほんとうに新しい歌かどうか判断できない。自分は新しい歌と思っていても、じつは過去に何度も試されてきたものである、ということはよくあるからだ。そのため、短歌では、歴史的なまなざしを持つ読者の存在が非常に大切になる。もちろん、そうした読者に全員がなる必要はない。しかし少数であっても、過去から現在を見通そうとする読者が、つねに求められるのである。

 

2 短歌とは何か、という問い

 これまでとは違った短歌が出てきたときに、〈これは短歌ではないのではないか〉という反応が生じることも、よく見られる風景である。『サラダ記念日』が出たときも、短歌以外の別物である、という批判はいくつも書かれた。短歌は五・七・五・七・七という型以外、何も制約がない。そのため、その型で書かれていれば何でも短歌と認められるのか、という問いが生じてくる。

最近、「偶然短歌」が話題になった。インターネット上の辞典、ウィキペディアから、たまたま五・七・五・七・七になった部分を抜き出すと、短歌のように見える、というものである。

 

  西側にあったホームは撤去され、花壇に花が植えられている

 

 福井県の「三方駅」の説明の中から抜き出されたもの。これは短歌といえるのだろうか? 短歌とはいえないと考える人も多いかもしれない。しかし一方で、

 

  強風にリフト止めても可能ならすぐまた動かす「ガーラ湯沢」は

       奥村晃作『都市空間』(一九九五年)

 

といった、事実だけを記す方法で作った歌も存在している。短歌か/短歌でないかの境界は、非常に曖昧なのである。

 かつて穂村弘は、

 

  たすけて枝毛ねえさんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顏

       飯田有子『林檎貫通式』(二〇〇一年)

 

という一首を、「定型からは大きく外れた破調」であるが「切迫した孤独感のモチーフ」があり、「世界が酸欠状態にあるから、歌が喘いでいるのだ」と評価した(『短歌の友人』二〇〇七年)。三十一音を大幅にオーバーしているが、短歌として読むことで、定型に収めることのできなかった心情の激しさを読もうとする。

 「たすけて」の繰り返しが、確かに印象的な作だが、一回的なインパクトなのか、それとも真に新しい表現なのか。当時、大きな話題になったけれども、あまり論議が深まることはなかったように記憶する。今考えると、これも「短歌か/短歌でないか」という枠組みの中での議論だった。それは「世界は酸欠である」という認識に賛同するか、賛同しないか、という問いにもつながっていた。もしもこの歌を認めないのなら、この息苦しい世界を肯定していることになる、と穂村は読者に迫ったのだった。

 

 「現在の酸欠世界においては、愛や優しさや思いやりの心が、迷子になったり、変形したりして、そこここに虚しく溢れかえっている。」(『短歌の友人』)

 

という理由で、短歌の定型から逸脱していく表現を肯定する。

 ただ、「枝毛ねえさん」という言葉はおもしろいとしても、「西川毛布のタグ」にどこまで短歌表現としての必然性があったのか。当時、世界は酸欠状態だったとして、十五年以上経て、大震災や原発事故を経験した現在、どうなっているのだろう。そうした過去を検証する議論があまりなされないのが、現代の短歌界の大きな問題点であると思う。「短歌とは何か」という問いはたしかに重要だが、話題作が次々に消費されるような形で、時間が流れてしまっているのが残念なのである。

 

3 「分かる/分からない」という議論

 

  小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく

        フラワーしげる『ビットとデジベル』(二〇一五年)

 

 最近ではこうした歌が取り上げられることがある。「宝石ではなく」というところから、つつましい仕事をしているようであり、彼女は挫折感を抱いているのかもしれないが、それ以上どう読めばいいのか、よく分からない一首である。この歌も、定型を大きく外れているが、その意味をどう考えればいいのかも理解しにくい。「枝毛ねえさん」のような過去の歌を踏まえて批評する、ということもできない。過去の歌と現在の歌のつながりが見えなくなっているのである。

 しかし、〈歌の分からなさ〉は、一つの価値となっている面がある。たとえば、フラワーしげるの「小さなものを」の作について、何人かで話し合う場があったとしたら、さまざまなストーリーをそれぞれが紡ぎだすことができるだろう。作品そのものを鑑賞することは難しいけれども、いろいろな会話を導き出すきっかけとなる。歌の意味が分からないことは、親しい間柄でコミュニケーションを楽しむための呼び水になるのである。

 逆にいうと、価値観の違う人たちとの場では、こうした歌を論議の対象にするのは困難だろう。「これはそもそも短歌なのか」というところから、話し合いをはじめなければならない。作品が議論を引き起こすにしても、〈仲間内の議論〉になりやすいことは指摘しておかなければならない。

 

  シャンデリアを梳くひとにしかできない頰ずりを雨の目の前でして

        瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海end.』(二〇一六年)

  鍵盤の白鍵、西暦二千年、なつかしくなる交通事故は

 

 瀬戸夏子の歌集から、ランダムに選んだが、こうした意味の取りにくい歌が並んでいる。一首目の「シャンデリアを梳く」は、髪のようなシャンデリアに触れている感じなのだろうが、下の句とのつながりがよく分からない。二首目も、「白鍵」「西暦二千年」「交通事故」の関連がまったく理解できない。なぜ、こうした歌が現在作られているのだろうか。

 おそらく瀬戸は、「分かってほしくない」ということを全力で伝えようとしている。現代は何でも分かりやすく透明化されていく時代である。どんな人間か、ということが分析されデータ化されていく。今、インターネットでは、これまで買ったものの履歴から、あなたが欲しいものはこれですね、と自動的に勧めてくるシステムも作られている。そういう現代社会の中では、自分のことを理解されたくない、自分はもっと混沌としたものでありたい、という欲求も生まれてくる。そうした「分からなさへの希求」が、こうした歌のバックボーンになっているのではないか。瀬戸の歌は、価値観の異なる人々には全く伝わらない表現だと思うが、感性や心情を共有するサークルの中では、高く評価をされているようである。

 

  銀幕を膀胱破裂寸前の影が一枚ゆらゆらとゆく

      木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(二〇一六年)

 

 逆にこんな歌はどうだろう。一見分かりにくいかもしれないが、映画の上映途中で、尿意をこらえられなくなった人が、ホールから出ていく様子を歌っているのである。その人の影が、映画の画面をゆらゆらと横切っていく。きっとあの人は「膀胱破裂寸前」だったのだろうなと作者は想像している。状況がうまく省略されていて、歌の意味に気づくと「なるほど!」という快感が生じる。切れ味のいい、おもしろい一首である。

 瀬戸夏子の歌とは、真逆の方向で作られている歌と言っていいかもしれない。しかし、ある共通性を認めることもできる。木下の歌も、親しいサークルの中で楽しむことができる遊戯性が強いということである。もちろん、木下の歌のほうが、多くの読者へ広がっていく伝導性を持っていると感じるが、謎解きを楽しむという面が強い。こうしたハッと気づかされるおもしろさは、ツイッターとの相性もよいだろう。

 集団の中で言葉を楽しむことを、大岡信は「うたげ」という語でとらえた。古典和歌の時代から、酒宴などの場で、機知に富んだ作品や人々の心を弾ませるような作品が生み出されてきたことを踏まえて、大岡はこう述べている。

 

 「日本の詩歌あるいはひろく文芸全般、さらには諸芸道にいたるまで、何らかのいちじるしい盛り上りを見せている時代や作品に眼をこらしてみると、そこには必ずある種の「合す」原理が強く働いていると思われることに、興味をそそられるのである。」

(大岡信『うたげと孤心』一九七八年)

 

 四十年近く前に書かれた文章だが、インターネット時代の詩歌にも確かに当てはまるのではないかと、私は考えている。一首の歌をめぐってさまざまな人が語りながら盛り上がる。それはインターネットが発達することで、直接に人と人が会わなくても、簡単に可能になった。インターネットを利用した歌会は、十数年ほど前から活発に行われている。また、インターネットを使った告知や宣伝が容易になったため、歌集の批評会や朗読会、文学フリーマーケットなど、実際に人が集まるイベントも盛んになっている。「合す」原理が強く働いており、今はまさに「うたげ」の時代だと言っていいのではないか。

 

4 「孤心」の必要性

 けれども私は、この一節につなげて次のように大岡が書いていることに注目したいのである。

 

「もちろんただそれだけで作品を生むことができるのだったら、こんなに楽な話はない。現実には、「合す」ための場のまっただ中で、いやおうなしに「孤心」に還らざるを得ないことを痛切に自覚し、それを徹して行なった人間だけが、瞠目すべき作品をつくった。しかも、不思議なことに、「孤心」だけにとじこもってゆくと、作品はやはり色褪せた。「合す」意志と「孤心に還る」意志との間に、戦闘的な緊張、そして牽引力が働いているかぎりにおいて、作品は稀有の輝きを発した。」

(『うたげと孤心』)

 

 「孤心」とは文字通り、孤独な心である。コミュニケーションが非常に発達している時代には、さらに強い「孤心」が重要となるだろう。鳥居という若い女性の歌集『キリンの子』が、多くの人々の心を揺さぶったのは、鮮烈な孤独感とともに、リーダビリティ(読み易さ)を持っていたからではないか。リーダビリティというのは、他者に「合す」ということにほかならない。鳥居の歌は、孤心だけに閉じこもるものではなかった。

 

  目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

        鳥居『キリンの子』(二〇一六年)

  透明なシートは母の顏蓋(おお)い涙の粒をぼとぼと弾く

  理由なく殴られている理由なくトイレの床は硬く冷たい

 

 鳥居は自殺した母の歌を繰り返し詠んでいる。二首目は、「ぼとぼと弾く」という表現に、まざまざと情景が浮かぶリアリティがある。三首目はいじめられた体験を歌っているが、「理由なく」の繰り返しに、どうしようもない無力感が漂っているし、「トイレの床」の触感が強く迫ってくる。こうした歌を背景とするとき、一首目の「キリンの子」の歌の、幼い美しさが、胸に沁みてくるのである。

 鳥居の歌には、傷ついている自己を、外側から見ているようなまなざしがある。感情を殺して、非常に即物的に場面を見つめている。だから、母の自殺や虐待などの異常な体験を歌っているのにも関わらず、静かで明晰である。こうした分裂した自己のあり方も、論じられるべき価値があるだろう。

 鳥居の歌は、境遇が特殊すぎるという意見もあるかもしれない。もちろん、そうした歌がすべてなのではなく、日常的な場を詠んだ歌にも「孤心」がくっきりとあらわれることはある。

 

  これは君を帰すための灯 靴紐をかがんで結ぶ背中を照らす

        大森静佳『てのひらを燃やす』(二〇一三年)


  秋茄子を両手に乗せて光らせてどうして死ぬんだろう僕たちは

        堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(二〇一三年)


  音もなく道に降る雪眼窩とは神の親指の痕だというね

        服部真里子『行け広野へと』(二〇一四年)


  金魚鉢をのぞく少女の眼球がガラス一杯に拡がりてゆく

        楠誓英『青昏抄』(二〇一四年)


  気の弱いせいねんのまま死ぬだらうポッケに繊維ごちやごちやさせて

        吉田隼人『忘却のための試論』(二〇一五年)


  「生きろ」より「死ぬな」のほうがおれらしくすこし厚着をして冬へ行く

        虫武一俊『羽虫群』(二〇一六年)

 

 近年の第一歌集から、こうした歌を挙げておきたい。四首目の「金魚鉢」の歌は、機知的な作だと感じられるかもしれない。しかし、どこか悪夢のようななまなましさがあり、暗い印象が残ってゆく。三首目も同様で、眼窩を「神の親指の痕」ととらえる発想に、いつかは失われる身体への恐れがにじむ。「孤心」とは、いつかは喪失するものに向き合う態度と言ってもいいだろう。生のはかなさが裏側に貼りついているために、秋茄子やポケットの中の繊維などの物が、確かな存在感をもって、指先に触れてくるのである。最後の虫武の歌からは、肉声のような響きが伝わってくる。短歌はやはり「うた」であり、リズムによって、作者の呼吸がいきいきと感じられることがある。そうした歌は、人の心を揺り動かす力を持つ。

 短歌とは比較の詩型である、と私は書いた。しかし、どうしても比較できないものが、一首のなかに澱のように残る。それは死であり、死を帯びている生である。それはいくら「うたげ」が続いていても、消え去ることがないものであった。


セガンティーニをめぐって  斎藤茂吉・葛原妙子・塚本邦雄

2017年12月10日 | 日記

12月2日の「クロストーク短歌 絵画と短歌」で話した「セガンティーニをめぐって」を掲載しておきます。

実際に話したものとは、多少変更されています。私は絵画については素人なので、多少誤りがあるかもしれませんが、ご寛容を。

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ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858ー1899)はイタリア北部のトレンティーノに生まれました。1865年に母を、その翌年には父を亡くしています。幼いセガンティーニは、異母姉(父の先妻の娘)に預けられます。しかし、異母姉は仕事に追われていたため、セガンティーニは十分な世話を受けることなく育ちます。あとで触れるのですが、母の愛情への渇望は、彼の後の作品に大きな影響を与えることになります。セガンティーニの少年時代は貧困で、浮浪罪でミラノで少年更生施設に入れられたこともありました。そんな厳しい境遇に生まれついたのですが、絵の才能を認められ、じょじょに活躍の場を広げていきます。セガンティーニの絵には、アルプスの農民の姿を美しく描いたものが多いのですが、そこには厳しい生活を送る人々への共感が含まれているのかもしれません。

日本では、倉敷の大原美術館に「アルプスの白昼」という絵が収蔵されています。

さて、文芸雑誌の「白樺」は、西洋画を近代の日本に紹介することにおいて大きな役割を果たしました。武者小路実篤や志賀直哉を中心とする有名な雑誌ですね。

1910年10月号の「白樺」には、南薫造が「ヂオヴアンニ・セガンチニ」という文章を書いており、「信仰によつて慰めらるヽ悲み」という絵が掲載されているそうです。時間がなくて、「白樺」のこの号はまだ見ていないのですが。

1921年には『セガンティニ 泰西名画家伝』(佐久間政一)という本も発刊されています。これは京都府立図書館にありました。モノクロですが、セガンティーニのさまざまな絵の写真が多数載せられています。このようにして、セガンティーニの名は、日本人に知られていったものと思われます。

斎藤茂吉は、ドイツに留学したとき、セガンティーニの絵を見ています。

茂吉は手帳に詳細な記録を残しているのですが、茂吉全集の『手帳13』にこんな記述がありました。1924年、ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘンの近現代美術館)を訪れたときに書かれたもののようです。

◎セガンチニーノ絵ガ一ツアル、一人ノ男ガ二頭ノ馬ノクツワノ処ヲトツテヰル、一人ハ後ロデスキヲ使ツテヰル、畑ガ半バ耕サレテヰル。

これは、次の「耕作」という絵を見て書いたのでしょう。二頭の馬のくつわを取っている、というところからわかりますね。

茂吉のメモはとても詳細で、「前面ノ方ニハ石ガ大小コロガツテヰル」「寺ノ塔ガ二ツ見エル」「ソノ向ウハ雪ヲイタヾイタ山デアル。」というふうに書かれています。たしかに前方には石がありますね。寺の塔は2つありますかね? これはちょっと分からなかったのですが、絵の隅々までよく見てメモしていることがよく分かります。ここまで精密に書くことにちょっと驚いてしまうのですが、絵の写真が簡単に手に入れられる時代ではないので、自分の目に焼き付けるように記憶するしかなかった、ということなのでしょう。当時の日本人で、ヨーロッパで実物の絵を見ることができる人はほんのわずかでした。ですから茂吉には、見ることのできない人のためにもじっくりと見なくてはならない、という使命感もあったのかもしれません。茂吉はとても執念深い人で、その性格もよく表れています。

このメモは、

ヨク注意スルトソノカキ方ハ一筆一筆コレハ又Goghナドヽチガツテ細イ筆デヌリ上ゲテ行ツタモノデアル。ソコデ何ダカ織物ヲ見ルヤウナ気ガスル。(略)イロイロノ単色ヲバ丁寧ニヌリアゲタモノデアル。ソコデ気魄ニ乏シイガ静カナシツトリシタ落付ガ見エル。

と続きます。この絵の空を見ると、細い筋のようなタッチが見えますね。これは「色彩分割」と呼ばれる手法です。簡単に言うと、絵の具を混ぜないで、色を並べることによって、透明感のある色彩を生み出す方法なんですね。絵の具を混ぜると色が濁りますから、明るい光の印象を作り出すためには、「色彩分割」が有効なわけです。モネなどの印象派の画家が用いた技法です。

茂吉はそれにも注目してメモしています。「織物」を見ているようだ、という観察は鋭いのではないでしょうか。

『セガンティーニ』(2011年・西村書店)のマティアス・フレーナ―の文章には、

セガンティーニもスーラと同様に純粋色を使用しているとはいえ、その純粋色を斑点としてではなく、描かれた面の上を広がっていく糸状の長い筆触として用いた。セガンティーニは、通常、これらの長い筆触の間に残された空隙を補色関係の純粋色によって埋めていくのである。

と、セガンティーニの「織物」のような筆触について書かれています。

茂吉の歌集『遍歴』には、セガンティーニの絵を詠んだ歌が収録されていて、とても興味深い。


    チユーリヒ。九月二十三日著(一九二四年)

アルプスの高原といへばきびしくもつつましく生きし画家に親しむ

セガンチニーの展覧会をゆくりなく見たる(さひはひ)いひ合へりけり

チユーリヒはセガンチニーにて心足りこれよりRigi(リギー)に旅たたむとす

牛の(くび)にさげたる鈴が日もすがら鳴りゐるアルプの(あをはら)を来も

かなたには雪原(ゆきはら)となりつづけるに(いはほ)のうへに羚羊(かもしか)ひとつ


これらの歌は、チューリッヒ美術館のセガンティーニの絵を見て作られたものと考えられます。

チューリッヒ美術館にあるセガンティーニの絵といえば、

「アルプスの牧場」(上)、「靴下を編む少女」(下)などが挙げられます。茂吉はおそらくこれらの絵を見たのではないでしょうか。

茂吉も山形県の農村の出身です。蔵王などのみちのくの山々がそびえたつところに茂吉は育ちました。ですから茂吉はこうした絵に描かれた風景に深く共感したのは間違いないと思います。「きびしくもつつましく生きし画家」「展覧会をゆくりなく見たる」といった表現には、厳しくも美しい自然の中で生きたセガンティーニへの敬愛がこもっています。

そうして茂吉は、リギ山(アルプスの有名な観光地)に向かいます。そこで茂吉はアルプスの風景を描いた歌をいくつも作っていますが、その構図の作り方には、セガンティーニの影響があるような気がします。「かなたには雪原(ゆきはら)となりつづけるに(いはほ)のうへに羚羊(かもしか)ひとつ」なんて、じつに絵画的ですよね。遠景に雪原があり、近景に羚羊がいるという構図。このように、目に浮かぶような遠近法を言葉で生み出していく。こうした手法は、短歌が西洋画から学び取ったことの一つだと思います。

茂吉には「リギ山上の一夜」というエッセイもあり、そこでもセガンティーニの絵について触れられています。

丹念で静かなこの絵(セガンティーニ『曙』)は、アルプス高山国の農民を題材にして、疲れた旅人の僕の心を慰めてくれたのであつたが、今も僕はRigi山上にあつて其等の絵を思ひおこし、その写象は一種の現実性を帯びて僕の眉間にあらはれるのであつた。

アルプスの農民を描いた絵は、ドイツ留学中の茂吉の孤独な心を慰めるものでした。そしてようやくアルプスの高原に実際に訪ね、セガンティーニの絵の世界に入っていくことができたわけです。「その写象は一種の現実性を帯びて僕の眉間にあらはれる」というのは、絵の中の風景が、さらにリアルなものに感じられてきたということですね。「眉間」というあたり、じつに茂吉らしい身体的な表現だと思います。

茂吉の最後の歌集『つきかげ』(1954年刊)にも、

 

セガンチニの境界の山くだりきて青野のうへに少女(をとめ)ひとりたつ


という美しい歌があって注目されます。このころ年老いた茂吉は日本の敗戦を体験し、深く傷ついていたのですが、セガンティーニを見た日々を回想し、ひとときの慰藉をおぼえているのでしょう。先ほど挙げた「靴下を編む少女」のような「をとめ」を思い浮かべればいいのかもしれません。「境界の山」というのが不思議な表現ですね。空を区切っているようなアルプスの山、世界を分けているような雪山、というふうに理解すればいいのでしょうか。


さて、葛原妙子の『飛行』という歌集にも、セガンティーニを詠んだ歌があるのです。


岩山に凍死の捲毛眩しきにセガンティーニ描く「奢侈の刑罰」


1953年の歌です。この絵はおそらく、「淫蕩な女たちへの懲罰」と呼ばれている次の絵を指しているのでしょう。

「岩山に凍死の捲毛」というのが、この絵にぴったりですね。

とても不思議な絵なのですが、初めのほうで挙げた『セガンティニ 泰西名画家伝』(1921年・佐久間政一)には、


『贅沢の懲しめ』は子を産まざることの懲罰である。この画に於いてはかかる罪を犯した婦人が寒風のまにまに広漠たる雪の原の上で浮動して居る。


というふうに書かれていました。当時の日本では、だいたいこのように理解されていたのだと考えられるでしょう。

葛原妙子は、なぜこの歌を作ったのでしょうか。


あるときは空に突き刺さる山岳をわれは恋する人間よりも     『飛行』

残酷にわが飛ばしゆく幾ページひたすらに子を夫を詠むうたなれば


葛原は同時期にこのような歌を作っています。葛原は戦時中、長野県の浅間山の山麓に疎開していました。ですから、この絵に描かれた雪山の風景は、戦時の記憶を強く呼び覚ますものだったでしょう。一首目の「空に突き刺さる山岳」はまさに日本アルプスの風景ですね。

そして、葛原は「ひたすらに子を夫を詠むうた」を嫌悪しました。古い家族観に縛られることを望まない女性の一人でした。そのような自由な女性は、男性社会の中では処罰を受けることになります。葛原妙子はセガンティーニの絵を詠むことで、自分も罰を受ける側の女性なのだ、ということを、自負も含めて宣言しているのではないでしょうか。

ただ、一言付け加えると、先に引用したマティアス・フレーナーは、

 

しかし客観的には、描かれた女性たちは苦しんでいないし、耐え忍んでいるようにも見えないことを指摘しておくべきだろう。(略)セガンティーニの探求は、主として形に関したもので、人物像と風景との間にバランスのとれた調和を確立することであり、あからさまに倫理的な批判を加えることではなかった。


とも書いています。セガンティーニは幼いころ母を亡くして異母姉に育てられたため、女性に対する複雑な感情を抱いていました。しかし、それは単純な善悪意識ではなく、「淫蕩な女性」を罰するといっても、美の中に埋葬するような不思議なかたちで発露したのでした。芸術は「あからさまに倫理的な批判」で作られるものではない。倫理的な批判に落ちてしまっては芸術は死んでしまう。それは、短歌にも共通して言えることなのかもしれません。


ところで、須藤岳史さんに教えていただいたのですが、葛原妙子は「藝術新潮」という雑誌を読んでいたらしいのです。「藝術新潮」は1950年に創刊された雑誌で、敗戦から間もないころの日本人に、海外の芸術の情況を伝えるという大きな役割を果たしていました。葛原の歌は1953年の作なので、この年の「藝術新潮」を調べてみました。ちなみに当時の「藝術新潮」は、大阪の中之島図書館で閲覧することができます。

すると、1953年12月号の「冬の断想」というモノクロの口絵ページに、あの絵があったのです!



絵のキャプションには、セガンティーニ「奢侈の刑罰」と書かれています。ですから、この「藝術新潮」12月号をもとにして歌を作ったのは、ほぼ間違いないと言っていいでしょう。

当時の「藝術新潮」は、数は多くはないですが、カラーの口絵ページで海外の絵を紹介したりしているし、美術評論が豊富に掲載されています。1953年といえば、敗戦から8年しか経っておらず、貧しく苦しい時代というイメージを私は持っていたのですが、文化においては非常に早く復興している感があります。1952年には、東京国立近代美術館やブリヂストン美術館が開館しています。戦争の時代、アメリカによる占領期が過ぎ、庶民がようやく自由に絵画を楽しむことができるようになった時代と言っていいのではないでしょうか。

それからこの年は、斎藤茂吉が亡くなった年でもあります。葛原妙子は茂吉に深い関心を抱いていました。


「茂吉をこっちへ取ってしまおう!」

余り遠くない昔、森岡貞香と茂吉を論じた末、噴き出したいような熱っぽさで話し合った記憶がある。とってしまおう、が、もともとこっちのものなのだ、となり、二人共決死的大真面目であった。

『孤宴』


1958年に書かれた文章です。「とってしまおう」というのは、茂吉から表現を摂取しよう、ということです。葛原は茂吉を必死に読んでいました。1948年に出た茂吉の『遍歴』、つまりセガンティーニを詠んだ歌が含まれている歌集も、おそらく読んでいたはずです。

茂吉は、アルプスの農民を描いた写実的な絵に心惹かれました。葛原妙子はそれに対して、セガンティーニの幻想的・象徴的な絵を歌いました。ここに、葛原妙子の茂吉への対抗心が表れている、と読むのは無理があるでしょうか。

茂吉は、セガンティーニの象徴主義的な側面を全く理解しようとしませんでした。「雪中の木」という1938年に書かれたエッセイがあります。

 

そして「悪しき母」と題してあるので、よく画面を凝視すれば、左手の山嶽に近い木の処にも幾組かさういふ母子を描いてゐる。セガンチニは、かかる深秘的夢幻的象徴的な内心の要求によつて、斯く描かねばならなかつたものと見える。/併し自分は、さういふ母子などが全く無いことにしてこの絵を鑑賞することを好んだ。この気持は今でも大方変らないやうである。


これは、ウィーンのベルヴェデーレ・オーストリアに展示されていた「悪しき母たち」について書かれたものです。

このエッセイでも茂吉は、絵の様子を細かく記述しています。茂吉は「心の寂しい時には度々見に行つた。」と書いています。好きな絵だったのでしょう。

ところが茂吉は、この絵の「深秘的夢幻的象徴的」な表現を否定します。「自分は、さういふ母子などが全く無いことにしてこの絵を鑑賞することを好んだ。」というところには、唖然としてしまいます。セガンティーニは、幼年期に母を失い、母の代わりとなった人に冷遇された体験を、こうした絵の中で象徴的に表現しているわけですが、茂吉はそれを全く受け入れることができません。母子の姿は無視して、雪山や雪の木だけを鑑賞していたわけです。茂吉は「写実・写生」の歌人なので、このような幻想的なモチーフには、拒絶反応を示すのです。

これに対して、塚本邦雄は猛然と批判を加えています。塚本は『茂吉秀歌 [霜][小園][白き山][つきかげ]』の、「セガンチニの境界の山くだりきて青野のうへに少女(をとめ)ひとりたつ」(『つきかげ』)を取り上げた後の部分で、次のように痛烈に攻撃しているのです。

 

この程度が、茂吉の、セガンティーニ観の「境界」でもある。彼に、セガンティーニは理解できないだらう。この画家の真骨頂は、決して素朴なアルプス風景やその地の風俗などではない。

 

これでは折角セガンティーニに会ひながら、目をつむつて通り過ぎたも同然、この人の鑑賞眼も、対象は結局、ルネサンスから印象派どまりだらう。

 

茂吉のセガンティーニ観には、はしなくも彼の幻想芸術、もしくは象徴主義芸術理解の限界が露呈されてゐる。


塚本は、茂吉には「セガンティーニは理解できないだらう」と厳しく切り捨てます。これは正確には、セガンティーニの象徴主義の側面は理解できない、と言ったほうがいいのかもしれません。セガンティーニには、「落穂拾い」などの農民の姿を写実的に描いたミレーを尊敬する思いもありました。しかし、それだけではなく〈母性〉という魔を、絵画で描こうとする意志がありました。セガンティーニは1899年に亡くなってしますから、ギュスターヴ・モロー(1826-1898)などの「世紀末芸術」の画家たちと同時代でもあるわけです。

ギュスターヴ・モロー「オルフェウス」


写実的な表現の中に、悲傷的な物語を呼び込むという方向性や精神性には、共通するものがあるように思います。

そして、葛原妙子も、それに共鳴していたように感じるのです。


水死のオフェリヤ顕(た)つはしばらく水に揺れただよへるあはき花びらのゆゑ    『飛行』


下の句を読むと、水に揺れる花びら(現実)を歌っているのですが、それに「水死のオフェリヤ」という幻影を重ね合わせている。セガンティーニの、写実的な雪山に浮かぶ女性の幻像という画面構成に近い方法が試行されているわけです。

セガンティーニという同じ画家であっても、絵を見る人が違えば、まったく別々のものを引き出してしまう。特に世代が違う場合、絵の見え方は大きく変わってしまうのです。斎藤茂吉・葛原妙子・塚本邦雄という三人の歌人の歌や文章を並べてみると、絵画の影響の変容が鮮明に見えてきて、大変興味深く思います。