「短歌研究」8月号に、第8回中城ふみ子賞が発表されている。
「舞ひ踊るをんなたちの裸体」イシカワユウカの50首である。
私は受賞作への選評も掲載されているのだが、特に時田則雄のものにかなりの違和感をもった。
・なまで見るはだはこんなに滑らかで透ける肋骨リップが光る
・柔らかく下着剥ぎ取るその手つき赤いライトの下であの娘は
・見てゐるわみんながあたしを見てゐるわこの胸の鼓動伝はるかしら
といった歌を引いて、時田は、
「作者自身もストリッパーに成り切って詠っており、そこには女性ならではの微妙な心理もみられ、
臨場感のあふれる、読みごたえのある内容であった。」
と書く。
ここには、女性の性的な表現を見て喜ぶ男性、という昔ながらの図式があらわれていないだろうか。
特に1、2首めなど、詩的な深みのある表現とはとても思えない。「あの娘は」という結句は殊に甘いだろう。
時田がこの3首を特に選んだのだとすれば、性的な内容に反応しているだけなのではないか、と疑ってしまう。
「女性ならではの微妙な心理」と時田は言う。それが、3首目を指しているのだとすれば、
従来からの男性の視線によって作られてきた都合のいい女性像を、そのままなぞっているにすぎないのではないか。
(男性に見られることを喜ぶ女性像)
「ゐるわ」「かしら」といった古色蒼然とした女言葉を使うことで、年配の男性(時田は1946年生まれ)が、
「女性ならではの微妙な心理」と読んでしまう。
作者も賞の選考の中で、そのような評価を、期待している面はあるのだろう。
そこには、何か、異様なものがある。
性の表現を、私は否定するものではない。ただ、
・目と鼻の先で開いたキレツにはなまなまと性のぬめりがあつて
・おつぱいに触りますかと手を引いて紙幣もぎ取る 減るもんぢやなし
のような刺激性だけを求めた表現も少なくなく、時田の言うような「歌壇に新しい風を起こしてくれる」作とは
とても思えないのだ。
・からつぽなあたしの中身を哀れんで外側の肉に騙されないで
性を売ることの苦悩を表現することは、確かに文学的に重要だと思う。ただ、「からつぽなあたしの中身」というふうに
捉えるのは、ややステレオタイプなのではないか。特にこの一連は作者が「ストリッパーに成り切って」歌っているのだと、
時田は読んでいる。もしそのように読むのなら、他者を「からつぽ」と捉えていることになり、非常に危うい表現と言えるのではないだろうか。
もし、この一連を評価するなら、
・肉塊に突起が二つと穴一つそれだけで価値がつくんですつて
などの、性の消費に対するまなざしのあらわれている歌などを重視するほうが良いように思う。
――こうした表現も、辰巳泰子などによって切り拓かれてきたものではあるけれど。
ほかに、
・青空の世界を去りて地下へ行く他人(ひと)の作つた光で生きる
・壊れつつある音響に慣れてゆくあたしももしくは壊れつつある
などが、私はいいと思った。
中城ふみ子は「大胆で奔放な性の表現」という先入観でよく見られているのだけれど、
・愛撫の記憶すでに止(とど)めぬわが髪は伸びきりて春浅き風に従ふ
のように、性を背後に秘めつつ、とても繊細な歌が多いのである。