シュガークイン日録3

吉川宏志のブログです。おもに短歌について書いています。

自分の内部に他者を生み出す読み

2020年01月13日 | 日記

短歌作品を、1首だけで読むか、作者と絡めて読むか、という問題について書いた文章。

私は今も、基本的にこのスタンスだなと思います。(違うときもあるかもしれませんが)

時評集『読みと他者』(2015年 いりの舎刊)にも収録しています。

 

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自分の内部に他者を生み出す読み

(初出・角川「短歌年鑑」2009年12月)

 

 短歌における作者名と作品の関係は、現在でも解決できていない問題であろう。
 小高賢の『この一身は努めたり 上田三四二の生と文学』の中でも、この問題はたびたび論じられている。上田三四二は、癌という大病に耐えつつ文学に生きた歌人である。そのイメージがあるため、歌の読みにどうしてもバイアスがかかってしまう、というのである。

 

  いつまで生きんいつまでも生きてありたきを木犀の香のうつろひにける    上田三四二『照径』

 

 たとえば小高はこの歌を引用して、こう述べる。

 

「上田三四二という署名がなかった時、はたして切実感が伝わってくるのだろうか。(中略)
 無署名で、歌会の批評にさらすことを考えてみよう。上三句に具体性がなく、その内実が分からない、あるいは下句の「木犀の香」が上句を支えきれていない、というような意見が、おそらく続出するだろう。(中略)ところが、上田三四二という歌人を知っている、あるいはその生涯が背景として、情報として読み手にインプットされる。すると、作品はまったく異なった顔をもって立ち上がってくる。むしろ具体性がないことが、かえって読み手の想像力を刺激する。短歌という文芸のおもしろさであり、パラドックスである。」

 

 たしかに、この歌を無署名で読んだら、上句がやや大げさに感じられるかもしれない。しかし、上田三四二の歌として読むと、どうか。木犀の花が散り、冬に入ろうとしていく季節のうつろいと、自らの生命の終わりが近づいてくる焦りや不安や悲哀が重なり、しみじみとよく理解できるような気がする。そのように読んだとき、この歌が大げさだとは、まったく感じない。
 小高が「パラドックス」と言うとおり、署名によって読みが変化することは、短歌の長所でもあり短所でもあるのだろう。短歌の読みの不確実さや不思議さを、改めて認識させられるのである。
 塚本邦雄は、かつて次のように書いた。

 

「戸籍上の私は作品の何処にも棲息しない。否生存を許さない。(中略)人間、この崇高にして猥雑極まる存在がそのようなクレドで律し切れるものではない。律し切れぬ不如意に時として私は唇を噛んだ。私は「私」を昇華しおおせたか。駆逐し追放し抹殺することに成功したか。」            (『花隠論』)

 

 塚本は、現実の自分と作中主体を完全に切り離そうとする。けれども、いくら切り離そうとしても、作者の生活の影は作品からにじみだしてくる。そのことに、塚本は絶望する――いや、絶望しつつも、言葉と生身の人間が結びついていることに、彼はひそかなよろこびを感じていたのではないだろうか。塚本ほど〈私〉を否定しようとした歌人はいないが、〈私〉を否定すればするほど、存在がたしかになっていく自己の生を、逆説的に愛していたようにおもうのである。
 短歌は作者名とともに読むべきなのか。それとも作者名を消して読むべきなのか。
 塚本邦雄の試行が示しているとおり、作品と作者を切り離して読むことは、最終的には無理なのだろう。詩歌とは、声にもっとも近い表現である。声と身体を切り離すことはできない。
 たとえば、上田三四二の歌であれば、「いつまで生きんいつまでも生きてありたきを」という字余りのリズムからは、なまなましい作者の〈声〉のようなものが響いてくる。小高賢も「くりかえしに近い祈りのような上三句の二十音が、切実な気分をかもし出している」と指摘しているが、そのとおりであろう。文字で書かれた〈声〉を感じ取ることが、短歌を読む上で、最も大切なことだが、その〈声〉がどうしても作者の身体や人生と結びついてしまうのである。
 しかし、塚本邦雄の試行が無駄だったというのではない。それどころか、非常に大きな遺産なのだと思う。
 塚本邦雄の論の最も重要な点は、「もし、無署名で読んだとしたら/作者の人生と切り離して作品だけを読んだら」という〈仮定法の読み〉を前景化したことなのである。
 つまり、こういうことだ。
 私たちは、作品を一つの見方からしか読んでいないことが多い。ところが、「もし、無署名で読んだとしたら」という問いが与えられた場合、現在の自分から離れて、別の人間――作者を知らない人間――の視線を想定して作品を読むことになる。もちろん、まったく別な人間に成りきることはできないから、その視線はバーチャル(仮想的)なものだ。ただ、自分の主観を疑うことで、他の角度からの読みが意識化される。上田三四二の歌であれば、ただ作者の病に同情しているのではなく、「無署名で読んだら」という冷静な読みが加わることによって、歌の奥行きはさらに深くなるのである。自分の読みだけを絶対化せず、別の視点からの読みを想像してみる、という余裕が、詩歌の読みでは大切なのだ。無署名の歌を、他人とともに読む歌会というシステムが重要なのは、そのためなのだろう。

 

  蛾になって昼間の壁に眠りたい 長い刃物のような一日        笹井宏之『ひとさらい』

 

 この作者は一年ほど前、二十代で亡くなった。その急逝は若い世代の歌人に衝撃を与え、追悼集会が行われたり、追悼特集が組まれたりした。
 笹井には意味を理解しにくい歌も多く、私は彼の歌の良い読者ではなかったが、この一首については、作者の生前、次のように書いたことがあった。

 

 「「長い刃物のような一日」という比喩もおもしろい。上句の「昼間の壁」とも響き合っているところがあって、壁に射している日光が、長い刃物の感じを生み出したのかもしれない。」     (『対峙と対話』)

 

 私は、日光の輝きを刃物の光る様子に喩えた、ユニークな歌として味わっていたのである。この読みが間違っているとは思わない。しかし、作者の人生が、死後になってわかってくると、別の読み方も存在することに気づかされた。
 作者は、つねに激痛を感じつづける病気に罹っていたため、一日中寝たきりで生活しなければならなかったらしい。それならば、「長い刃物のような」は、むしろ痛みの比喩ではなかったのだろうか。長く続く痛みのために眠れない昼、「蛾になって眠りたい」とふとつぶやいた言葉を一首にしたのではないか。一見軽い口調の背後に、どうにもならない苦痛があったのかもしれない。
 作者の情報に寄り添って解釈することが、ほんとうに正しいかどうかはわからない。だが、そう読むことによって、私には遠く感じられていた歌人の作品が、ふいに生々しく見えてきたのも事実である。自分の内部に、別の読み手を作り出すことで、読めるようになる作品もあるようだ。

 

  「好きだつた」と聞きし小説を夜半に読むひとつまなざしをわが内に置き
            横山未来子『水をひらく手』

 

 この歌を、私は最近とてもおもしろいと思っている。
恋人が「好きだった」と言った小説を読んでいるとき、恋人のまなざしを意識しながら読んでいることに気づいた、という歌だ。「あの人はきっとこの場面に感動したのだろう」とか想像しながら小説を読んでいるわけである。そのような体験は、誰にでもあるのではないか。横山の歌は「読む」という行為の本質を、じつに鋭く捉えている。
 読むということは、一見、個人的な行為のようだが、じつは自分ひとりで行うものではない。自分の内部に、仮想的な他者を棲まわせながら、言葉を認識していく行為なのである。読者である〈私〉を固定させず、変化させたり分裂させたりすることによって、初めて他者の言葉に触れることができるのだ、と言ってもいい。自分の内部に、自分以外の「まなざし」をもつことは、歌の読みをたしかに豊かにしてくれるのだ。