人間の
死体には
感覚、
感情、
思考が
ありません。
つまり、
死とは
感覚や
感情や
思考という
”生きる働き”が
停止すること
です。
人間に
とって
死が
恐ろしいのは、
自分の
肉体に
執着し、
家族や健康
財産や地位に
執着する
からです。
その
執着が
薄れる分だけ
人間は
死の恐怖から
解放される
のです。
人間の
死体には
感覚、
感情、
思考が
ありません。
つまり、
死とは
感覚や
感情や
思考という
”生きる働き”が
停止すること
です。
人間に
とって
死が
恐ろしいのは、
自分の
肉体に
執着し、
家族や健康
財産や地位に
執着する
からです。
その
執着が
薄れる分だけ
人間は
死の恐怖から
解放される
のです。
どんなに
時代が
変わり、
国や
民族が
変わっても、
神の存在を
信じても、
信じなくても、
永遠に
変わらない
”絶対普遍の善”
が
あります。
それは
「エゴが無い」
ことです。
地上の
すべての
悲劇は
エゴが
原因です。
”事物”
という
言葉で、
”事(こと)”
は、
目に見えないもの、
形のないもの
であり、
”物(もの)”
は、
目に見えるもの、
形のあるもの
として
解釈することが
できます。
”事”
も
”物”
も、
一瞬一瞬に
生滅し
とどまることなく
変化している、
ということが
宇宙自然の大法則
です。
それが
納得されれば、
固定的、
潜入的
観念も
概念も
本来は
成り立たない、
ということが
理解できます。
したがって、
本来は
概念や
観念である
宗教も
哲学も
科学も
成り立たない、
ということに
なります。
逆に、
すべて
変化するという
法則を
教える
宗教や
哲学や
科学は
成り立ちます。
磁石には
N極とS極が
あります。
一本の磁石を
半分に切っても
やはり
N極とS極が
できて、
どちらか
一方だけを
取り出すことは
できません。
人生も
それと同じで、
成功には
失敗が、
勝利には
敗北が、
得には
損が、
賞賛には
非難が
付いてまわることを
覚悟しておかなければ
なりません。
多神教か、
それとも
一神教か。
こちらを
立てれば
あちらが
立たずで、
相反します。
したがって
どちらも
真理では
ありません。
多神教も
一神教も
時代や
場所や
民族によって
変わる
概念・観念に
過ぎません。
何にでも
当てはまり、
何とも
相反することの
ないものが
真理なのです。
不確かなことを
やみくもに
信じて
生きるより、
確かなことを
はっきりと
理解して
生きたほうが、
個人も
幸せになり、
社会も
平和になるのです。
確信とは
理解に
基づいた
信念です。
人間の
執着は
衣食住など、
形あるものだけが
対象では
ありません。
宗教や信仰、
主義や思想など、
形のないものにも
執着します。
過度の執着は
自分ばかりか、
他人をも
不幸に
おとしいれて
しまうのです。
自分に
自信の
無い人は、
他人に
少しでも
自分を
よく見せるために
見かけに
こだわります。
そして、
自分の
正しさを
他人に
主張することに
懸命です。
ほんとうの
自信をもって
生きている人は
いつも
リラックスしていて
心静かで
穏やかです。
神とは
概念としての
「完全なる愛」
「完全なる知」
意味します。
自由気ままに
人間を
喜ばせたり、
苦しめたりする
創造主など
宇宙に
存在しませんが、
人間が
理想とする
「完全なる愛」
「完全なる知」
としての
究極的境地は
存在します。
「完全」を
求める
人間の
内なる欲求が
神を
創造したのです。
”生きがい”
とは
心と体
への
刺激に
ほかなりません。
刺激が
なくなったり
刺激に
慣れてしまえば
生きがいも
消えて
いきます。
生きがいを
失うことを
恐れ、
生きがいが
なくなれば
不幸の
どん底です。
人間が
自分の死に
直面したとき
生きがいも
役に
立ちません。
人間は
生きがい
だけでは
幸せに
なれないのです。