一時的な喜びや楽しみに舞い上がらない人は、悲しみや苦しみに直面しても落ち込むことはありません。喜びや楽しみに巻き込まれて自分を失ってしまう人は悲しみや苦しみにも巻き込まれて自分を失ってしまいます。自分を客観的に見ることができれば、いつも平安に生きることができます。
自分の宗教信仰だけが正しい、と自負している人は精神的ストレスから解放されることがありません。そのストレスの表れが「傲慢(ごうまん)」であり、その傲慢が宗教対立や宗教戦争を生むのです。そのストレスは社会を害しますが、その本人をも害してしまうのです。
「給料が少ない」「会社が悪い」「仕事がつまらない」と言って、“不足不満”で毎日を過ごすなら、きっぱりと仕事を止めるべきです。なぜなら、その“不足不満”のマイナス・エネルギーがその人を不幸にしてしまうからです。「やるか、やらないか」二つに一つです。
親や配偶者を亡くして深く悲しんでいる人にもただ一ついいことがあります。それはこれから先、親を失う悲しみを二度と味わうことは無い、ということです。配偶者を失う恐れがもう無い、ということです。
どんな仕事でも日々、難問が生じたり、限界にぶつかります。仕事とは、そうした難問を解決したり、限界を克服することです。仕事を楽しむ、ということは、難問を解決すること、限界を乗り越えること、ということになります。人生もそれと同じです。生じた問題やぶつかった限界を苦しみや悩みとするか、それとも楽しみや挑戦とするか、あなた次第です。
体力や美貌に恵まれた人はその体力や美貌につまづき、財産や名誉を手にした者はその財産や名誉につまづいてしまいます。つまづきは破滅へとつながっています。つまづきの原因は体力や美貌や財産や名誉ではなく、それらへの執着です。執着がなければ、何ものにもつまづくことはありません。
何ごともじっくりと味わえば人生の一瞬、一瞬が楽しくなります。そして、充実してきます。50年の人生が100年に、100年の人生が200年になります。
人はただ、気づかないだけで、家の外にいても、家の中にいても、日々生命の危険にさらされて生きているのです。いわば、みんな“死に損ない”です。その“死に損ない”が今日も生きられた、ということは奇跡中の奇跡としか言えません。今日も果たすべき尊い役割があるからです。
自分だけは神や仏に護られていると信じ込んでいるほとんどの人々の心に恐れや不安が潜んでいます。他人に起こるいかなることも自分に起こりうると覚悟している人に恐れはありません。