Andyの日記

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桂宮さまの葬儀「斂葬の儀」行われる

2014-06-18 16:51:29 | よしなしごと

これだけ近代化された21世紀の日本なのに、こういう皇室独特の行事って
いうのはなくならないものだ。そしてそれを見てなんとなく厳粛な気分に
なるのは、日本人に共通した感情だと思う。もちろん、「俺たちには何も
関係ない」と思う人も少なくないだろうが、今の日本人を日本人たらしめて
いるもののひとつが皇室の存在であることは間違いない。

そもそも、どうして今の日本人は皇室をそんなに特別視しているのか。
というのは、神代の昔から国中の日本人が、天皇のことを崇め奉っていた
わけじゃない。日本人が天皇のことを意識するようになったのは明治維新
以降のことで、それ以前の江戸時代に天皇のことを知っていたのは
将軍家やお公家さんなどのごく限られた人たちだけ。ほとんどの人にとって
一番えらいと思われていたのは公方様だ。

それがなぜ、大政奉還の後に明治政府が発布した大日本帝国憲法では、
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」なんてふうに定義されたのか。
すべては、日本をひとつにまとめるための方策だったと言って過言ではない。

話をさらに少しさかのぼらせよう、明治政府が天皇をそこまで祭り上げる
きっかけになったのは戊辰戦争だった。こないだNHKの大河ドラマで
やっていた、「八重の桜」の前半のほとんどを使って描いていたあの戦いだ。
当時の会津藩は全国でも有数の武門の誉れの高い有力な藩だったが、
結果は知っての通り薩長が勝った。あのドラマでは薩長の武器が会津の
武器より近代化されたいたからだというような描かれかたをしていて、
確かにそれも敗因の1つではあったが、本当に問題だったのは会津の
一般の人たちの反応だった。

確かに会津武士は全員勇猛果敢に戦ってはいたが、それ以外の農工商の
人たちはまるで意に介さず、荷物をまとめてさっさと逃げていたことが
わかっている。それに対して薩長は、官民一体となって死に物狂いで
戦っていた。ここが、勝負の決め手となった。このとき薩長軍を
率いていた板垣退助は、「もしも会津の農工商すべての人が力を合わせて
薩長と戦っていたら、とても勝ち目はなかっただろう」と戊辰戦争後に
述懐している。と同時に板垣は、このような日本のありかたについて
考え込んでしまったらしい。

今後日本は開国を進めて海外に打って出て行くことになるが、もしも
その流れの中で諸外国と戦争にでもなった場合に、軍人以外の市民が
我先に逃げ出していては、人口が少ない日本のことなので、あっと
いう間に攻め滅ぼされてしまう。そうならないためにも、日本人全員が
有事の際に戦う心構えを持っていなければならないのは明らかだ。

しかし、そんなことをどうやったら実現できるか。まず明治政府が
やったのは、いわゆる四民平等。士農工商の区別をなくしたことで、有事の
際には身分のわけ隔てなく全員野球で国を守るための土台ができた。
もうお侍さんにだけ戦を任せておく世の中じゃないんだぞ、と国民に
知らしめておいたのだ。とはいえ、仏像彫って魂入れずではないが、
挙国一致で戦うための環境はできたが実際に国民がすすんで戦って
くれるかどうかは甚だ疑問だ。戦なんてまっぴらごめんとか言って、
逃げ出したり怠けたりするものが出てきても何の不思議もない。

そこで明治政府は、日本の文化・習慣を改めて研究して、どうすれば
国民感情を挙国一致に導くことができるかを考え出すことになった。
あれこれと意見が出される中で、次の2つの点が有効であろうという
ことになった。

o 家の意識
o 祖先崇拝

大和王朝以降、日本では家柄を重視する氏姓制度という制度が定着した。
話しは日本に稲作が伝播した遠い昔にさかのぼるのだけど、お米作り
というのは一人ではできないので、共同作業をするしかない。あちこちの
家族がまとまって作業をするのが常だった。しかし集団での作業というのは
昔も今も変わらないけど、誰かが適切に指揮を取らないとうまいこと
いかない。で、そういう指導者というのはたいてい頭がよく、力も人望もある
ような人物が選ばれるのが常だ。そしてそういう人物のところには、
人やものが自然と集まってくる(強引に奪い取ったケースもあるだろうけど)。
やがてその家がその地域の農作業を取り仕切り、農作業に必要な農具、
家畜、蔵などもまとめるようになり、どんどん栄えることになる。これが
大和王朝の頃になると氏姓制度としてまとめられて、力のある家は
いわゆる豪族になっていくわけだ。やがて豪族は検非違使ではたちうちできない
ような大規模な盗賊たちから身を守るために自分たちで武装するようになり、
それが武士につながっていく。・・・と、これが日本で家という単位が
重要視されるようになった流れだ。

そして時代が下って明治に入るまで、この「家」という単位はずっと変わらずに
日本の社会で重要な単位であり続けた。たとえば一介の武士は将軍のような
トップクラスの人たちよりも、家という単位での組織を重視していた。
具体的には、武家社会での「奉公」というのは、生まれてこのかた顔を
見たことすらない雲の上の存在でしかない将軍様に対する、実感を伴わない
抽象的なものではなくて、実際に自分を雇って食べさせてくれている主君の
家に対する現実的な関係を意味するものだった。

具体的に言うと、たとえばセブンイレブンでバイトしている高校生が
いるとしよう。セブンイレブンジャパンの親会社はイトーヨーカドーだが、
セブンイレブンの本社はもちろんアメリカにある。つまり偉い順に言うと

7-Eleven, Inc(米国)

イトーヨーカドー

セブンイレブンジャパン

セブンイレブン ○○店

という図式になる。でも、そのバイトの高校生がアメリカ本社の
セブンイレブンになんて何の思い入れもないのは明らかだ。バイトの
高校生にとって大事なのは、自分を雇っているバイト先の店と、
そこからもらえるバイト代だけで、それは武士にとってもまったく
同じことだった。

こんな感じの形で、武家社会では各大名の下にはいくつもの家が
仕えていて、各家はそれぞれの主君に対して一身をささげて尽くす
ことで生活を保障してもらっていた。こういう家意識はひとり武家に
だけあったわけではなく豪商や豪農の家にもあったようで、後世に
残された数々の豪商や豪農の家訓からも、武家社会の奉公のような
関係が雇用主と使用人との間にあったことが確認されている。

次に、祖先崇拝だ。日本はよく無宗教な国だといわれる。実際に
どういうのを無宗教というのかわからないが、少なくともキリスト教や
イスラム教のような、絶対神のようなものがトップにいるような
宗教というのは、確かに日本にはない。いちおう神様仏様というのは
あるけれど、それは心のよりどころや自らを戒める存在として意識していると
いうよりは、祭祀的な行事のときに形式的に崇めているものだ。
日本人というのは現実的なのか、そういう観念的なものを自分たちの
価値観の基準にしようとはしなかったし、自分たちでそういう宗教を
作り出そうともしなかった。代わりに日本人が長年尊重してきたのは、
ご先祖様だ。

今ここに自分がいるのは、偶然じゃない。ぼうふらじゃないんだから、
自然に沸いて出てきたわけではない。父ちゃん母ちゃんがいて、
じいちゃんばあちゃんがいて、ひいじいちゃんひいばあちゃんがいて、
そのまた上に・・・、と際限なく続いていく。そのご先祖様たちは、生前に
幾多の苦労を乗り越えて私たちを育ててくれた。それだけでもありがたいのに、
ご先祖様は今は天国から自分たちのことを見守ってくださっている、
だからご先祖様は大切にしなければならない、というのが祖先崇拝の
基本的な考え方だ。実際、お正月とかに神社でお参りをするときと、
お墓参りで墓前に手を合わせるときとで、どちらのほうがより神妙な
気持ちになるだろうか。他の人はわからないが、私は墓前に手を合わせて
いるときだ。

ところで、日本人というのはずっとずっと遡っていくと一番最初の
祖先というのは誰になるんだ?という疑問を持ったことがある人は
いると思う。今だったら遺伝子検査で「あなたの祖先はポリネシア系です」
とかいう詳しいことがすぐにわかるが、明治の人にはそんなことは
もちろんわからない。そこのところをうまいこと利用したのが、
明治政府だった。すなわち、「日本人というのは万世一系の天皇こそが
日本人の源なのである。ということは日本人というのは、初代天皇を
共通のご先祖様に持つ大きな家族であり、1つの大きな「家」に住んで
いるのだ」、という意識を与えた。ここから、「国家」なんていう言葉も
生まれてきたわけだ。明治政府は修身の教科書の中で、このことを
以下のように書いて日本人全員にその意識を徹底させている。

昔天照大神は御孫瓊瓊杵尊をお降しになつて、此の国を治めさせられました。
尊の御曾孫が神武天皇であらせられます。天皇以来御子孫がひきつゞいて
皇位におつきになりました。神武天皇の御即位の年から今日まで
二千五百八十余年になります。此の間、我が国は皇室を中心として、
全国が一つの大きな家族のやうになつて栄えて来ました。御代々の天皇は
我等臣民を子のやうにおいつくしみになり、我等臣民は祖先以来、天皇を
親のやうにしたひ奉つて、忠君愛国の道に尽しました。世界に国は多う
ございますが、我が大日本帝国のやうに、万世一系の天皇をいたゞき、
皇室と国民が一体になつてゐる国は外にはございません。我等はかやうな
ありがたい国に生まれ、かやうな尊い皇室をいたゞいてゐて、又かやうな
美風をのこした臣民の子孫でございますから、あつぱれよい日本人となつて
我が帝国のために尽さなければなりません。

うまいこと考えたじゃありませんか、日本は「大きな家族」ですよ。
これなら、その家族の長である天皇の安全が脅かされるような戦争が
始まったら、天皇陛下をお守りするために戦おう、なんて気にもなるじゃ
ありませんか。そしてこの意識は、もう1つの効用もあった。それは
内戦の防止に効果があったことだ。

言うまでもなく、徳川家康が江戸幕府をつくりあげるまで、日本では
群雄割拠の戦国時代が続いた。血で血を洗う時代が長いこと続いていた
けど、家康がとりあえず一休みさせることができた。結局は明治維新の
流れの中でまた戦争が起きてしまったけど、それまでは戦のない社会が
実現されていたわけだ。

ところが修身の教科書のおかげなのか、それ以降に日本では内戦らしい
内戦は起きていない。冷静に考えれば、天照大神が日本人全員の祖先で
あるなんていうのは、「ダーウィンの進化論などたわごとに過ぎない」
と言っているのと同じなわけで、進化論を信じない一部の狂信的な
人たちのことを笑えない。でも不思議なことに、今この時代になっても
日本では内戦が起きていないのだ。東日本大震災では、「絆」なんて
言葉まで持ち出して、互いに協力し合おうという声も多くあがった。

もちろん、内戦なんてしたくてもできやしない。ていうかそんなこと
しようものなら会社クビになっちゃうでしょ、とかいろいろ理由は
あると思う。でももし、最近議論になっている改憲の動きに伴って、政府が
「日本がひとつの家族だと教えていた修身の教科書は完全に誤りです。
天皇家が日本人全員の祖先であるなどということはなく、天皇家も
この機会に廃止します。また日本は実際には多民族国家であり、
しかも各民族間には何ら生物学的なつながりはありません」などと
公式見解として言ってしまったらどうなるだろう。

ただでさえ緊張感みなぎる昨今の日本社会のこと、内戦までいかずとも
全国あちこちでイザコザが起きるであろうことは間違いない。
差別的な待遇を受けることもあるだろうし、さまざまなトラブルが
続出することは容易に予測できる。

そう考えると、天皇や皇族の姿を見て目を細める日本人社会と
いうのは、ある意味憲法9条よりも大切なものなのかもしれない。