みちあき神父のふぉと日記

カトリック教会の司祭です。日記のテーマは「がんばらない―Take it easy―」。ここで、ひと息ついてくださいね。

知命

2010-06-27 21:30:00 | Everyday is special
おかげさまで本日、この世の人生、満で50年を生きました。
半世紀を生きたと思うと、なんだかとても長く生きたように思えます。
同時に、自分というものは、ちっとも変わっていないなとも感じています。
が、肉体的な衰えは、このところ身につまされるように感じています。

これまでお世話になった皆さんに感謝を申し上げます。
傷つけてしまった方々にはおゆるしをお願いしたいと思います。

そして、神さまに感謝をささげます。

で、はからずも、真生会館聖書センター発行の「今日のみことば」の、きょうの説教の担当はぼくでした。
そこで、全文掲載はできませんが、記念に最初と最後の部分を、以下引用させていただきたいと思います。

ちなみに、きょうのミサの朗読箇所は、
第1朗読・・・列王記上19:16b、19-21
第2朗読・・・ガラテヤ5:1、13-18
福音朗読・・・ルカ9:51-62
です。

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「惑いながらも真っすぐに」

 ―知命―
 じつは、今日は私の誕生日です。ちょうど五十歳になりました。イエスより約五百年前に活躍した中国の孔子は、「吾(われ)十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る」と言いました。私はと言えば、とっくに不惑(四十)を過ぎ、知命(五十)になったというのに、恥ずかしながら人生いまだに戸惑ったり迷ったりしていますし、本当の天命を知る境地にまで至っていません。しかし、イエスは、まさに三十歳にして立ち、その後も惑うことなく、初めから天命を知り、一心に福音を宣べ伝え、エルサレムに向かって行かれました。イエスの歩いた道のりは、まだ誰も歩いたことのない十字架の神秘への道です。イエスの前には誰もいません。イエスが先頭に立って歩んでいます。私たちは日々惑いながらも、どのようにイエスに従って歩んでいけばよいのでしょうか。

[中略]

―イエスに引っ張られて―
 今日の福音の後半では、先頭に立ってエルサレムに向かわれるイエスに従う者の心構えが語られます。その最後に「鋤(すき)に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われますが、この鋤は、牛馬に引かせて畑を耕す農具で、人間は牛馬の後ろから片手で手綱を持ち、もう片方の手で鋤を操ります。ですから、真っすぐに前を見ていないと耕されてできる畝(うね)は曲がってしまいます。私たちの日常生活の中では、神が何を望んでおられるのか見えにくく、つい自分の思いを先に立たせてしまうものです。すると、歩みは曲がってしまいます。今日の第二朗読でパウロは、このことを肉と霊の対立によって説明しましたが、自分の思いではなく神の思いに従って歩むことができるのは、イエスご自身が牛馬のように、鋤を掛けた軛(くびき)を引っ張ってくださるからだと思います。
 司祭年が終わりましたが、この一年間自分の司祭職について私なりに思い巡らしてきました。その間、ゆるしの秘跡や病者の塗油で急に病院に呼ばれたり、ミサや黙想会をあちこちで頼まれたり、悩み考える暇を与えないほどイエスは私を司祭としてお使いくださっていることを身にしみて感じました。イエスは、私たちがどんなによそ見をしようとも、真っすぐに力強く導いてくださいます。私たちは、先頭を歩まれるイエスに、ただひたすら転ばぬように、喜んでついていくしかありません。しかし、その先には、もはや惑うことのない素晴らしい本当の自由の世界が広がっているのだと思います。(M.C.)
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写真は、昨年11月、フィリピンのカレルエガ黙想の家に隣接する畑で働く人と牛を撮らせていただきました。見えにくいですが、使われている農具が鋤です。

それから、50歳になった記念に、ブログのデザインも心機一転、新しくしてみました。今後とも、ご愛顧のほど、よろしくお願いします。

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