ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

ヨガとの出会い

2014年01月31日 | 日記
ヨガとの出会い

 私がサラリーマン生活を送りながらどうしてヨガの道に入ったのか、そのあたりのいきさつをお話しします。私は神経質な性格で人前に出るとひどく緊張するタイプです。学生時代には他の人達も自分と同じようなものだろうと思って気にもしていなかったのですが、会社に就職して自分は他人とは随分違うのだとショックを受けました。アメリカ式の「俺が俺が」という風潮に乗って行けず、私は自信を失っていました。外から見れば左程の事でも無かったのでしょうが私自身には大変重大な問題だったのです。ましては仕事が酒類メーカーの営業だったので、仕事では自分なりに成果を挙げながらも内心では不安が一杯でした。

 30才になった年のある日、私は日経新聞の広告に目をとめました。「リラクセーションの技術」と言う文字が有ったのです。それはペール・ウインター(プレム・ヨーギ)と言う先生によるヨガの通信教育でした。その頃の私はヨガと言うものを知りませんでしたが、藁をもつかむ思いでこの通信教育をを受けて見る事にしました。ペール・ウインター先生(プレム・ヨーギ)は1937年生まれのノルウェーの人で、北インドのリシケシュのシヴァナンダ・アーシュラムで総合的なヨガの修行をした人です。

 通信教育では6ヶ月間、毎月1冊「ヨーガ教室①~⑥」と言う本が送られて来ました。私はその実践的なヨガの教科書を理解しながらヨガのアサナ(坐法、ポーズ)やプラーナヤーマ(呼吸法)の練習をします。指導が懇切丁寧なので私はすぐにコツを覚え、翌月に新しい教科書の来るのが待ち遠しい程になりました。そして6冊の実践的な教科書と一緒に「別冊」が2冊、適切な時期に送られて来ました。「別冊」ではペール・ウインター先生(プレム・ヨーギ)の詳しいヨガの経歴やヨガの思想が親切丁寧に書かれていて私を魅了しました。「別冊」の2冊目はヨガの8段階について、それは詳しく分かり易く書いて有ります。ヨガがリラクセーションの技術だけに留まらず、雄大な思想哲学である事がすぐに理解出来た私はヨガの実践哲学(インド思想)をもっと知りたくなりました。ペール・ウインター先生(プレム・ヨーギ)は1度新宿のお寺を借りて生徒達を集め、スクーリングをやってくれました。ヨガの独習による間違いを無くす為です。それでも通信教育は通信教育です。私はヨガの教室に通うべきだとはっきり自覚しました。その頃私は仕事で新宿区を担当していましたので、新宿御苑前に日本ゴーシュ・ヨガ道場が有るのは知っていました。でも、いきなり本格的なインドヨガの道場に入会するのはちょっと怖いとその頃はまだ感じていました。

 私がペール・ウインター先生(プレム・ヨーギ)についてヨガの通信教育を受け始めたのは日本で第1次のヨガブームが起こる少し前でしたので、私は会社ではヨガについて話題にはしませんでした。奇人変人と思われるのが嫌だったからです。ところが間もなく日本では美容と健康の為のヨガブームが起こりました。時代は一変します。本屋にも美容と健康の為のヨガの本が並ぶようになります。31才になっていた私は、日本人で美容と健康の為のヨガの本を書いている人が展開しているヨガ教室に入る事にしました。週に1度教室に通ってヨガの指導を受けるのですが、少し小柄で髪はショートヘア、黒目のはっきりした綺麗な女性の先生はレオタード姿だったので目の保養はさせてくれました。しかし私は不満でした。先生の教えるヨガのポーズは行き当たりばったりで系統だっておらず、またインド思想の雰囲気もそこには有りませんでした。「これは本物のヨガじゃない」と私はすぐに分かったのですが、少なくとも半年はここで続けてみる事にしました。会社でも私はヨガの教室に通っている事をオープンにしました。そして私が最初に出会ったのがペール・ウインター先生(プレム・ヨーギ)だったのは本当に幸いでした。インドヨガに魅了されていた私はその頃にはどうしても本物のヨガを目指したくなっていました。ペール・ウインター先生(プレム・ヨーギ)は本当に立派な先生でしたが、振り返って見ますと私のグル(先生)では無かったようです。

 1979年、私は32才になっていましたが、ついに意を決して日本ゴーシュ・ヨガ道場に入門しました。先ずは夕方のクラスから始めましたが、道場には毎日予約を入れて通うのが練習の基本です。ジバナンダ・ゴーシュ先生は生徒さん1人ひとりに面接をしてその人に合ったヨガのチャートを作ってくれます。私も自分のチャートをいただきました。ヨガのアサナ(坐法、ポーズ)は横になってのポーズ(臥位)、坐ってのポーズ(坐位)、立ってのポーズ(立位)と順番が有り、またポーズとポーズの間には必ずサバアーサナ(死体のポーズ)が入っていてリラックスを強調しています。ポーズの際には反動はつけませんし、呼吸も息は止めずに普通呼吸です。こうして私は最初にヨガに出会ってから2年を掛けてやっと本格的なヨガの練習をスタートしたのでした。

 今でも私は人前に立つと緊張しますが、これが有ったからこそインドヨガと言う壮大な思想世界の扉を開く事が出来たのだと不思議に思いますし、また感謝の念も起こります。

 ペール・ウインター先生(プレム・ヨーギ)の「ヨーガ教室⑥」の末尾に現代に生きるグルが紹介されています。その中から私の知っている名前を列挙しておきます。37年も前のリストですから既に他界された人も多いと思いますが、優秀なお弟子さんが残っていて今もヨガの指導をされているかも知れませんので、皆さんがご自分のグル(先生)を探されるヒントになるかも知れません。

 スワミ・チダナンダ(スワミ・シヴァナンダの後継者)、ヴィシュヌ・チャラン・ゴーシュ(故人)、コルナ・ゴーシュ、ジバナンダ・ゴーシュ(私のグル)、シュリ・ヨゲンドラ、ジドゥ・クリシュナムルティ、スワミ・クリヤナンダ(パラマハンサ・ヨガナンダの後継者)、マハリシ・マヘシュ・ヨーギ、スワミ・サッチダーナンダ、沖正弘、バグワン・ラジネーシ、佐保田鶴治、桜沢如一、スワミ・シヴァナンダ(故人)、中村天風。

 追記

 ペール・ウインター先生の「ヨーガ教室 別冊」に、ウインター先生のグル(先生)であるスワミ・ラマと言う人が「中村天風と共にナレンドラナガールと言う所でババジと一緒に居た事が有ります」と、1968年に東京へ来た際にウインター先生に答えたと言う記事を見つけました。これは驚きです。








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ババジと18人のシッダ

2014年01月17日 | 日記
ババジと18人のシッダ

 私のヨガのグル(先生方)の系譜を振り返っておきましょう。
①ババジ(固有名詞では無く、おじい様と言った意味の敬称)。アバタラ(神の化身)であり時間や空間の制約を受けません。
②ラヒリ・マハサヤ(本名シャーマ・チャラン・ラヒリ)。インド北部のヴァラナシ(ベナレス)の人。日本で言いますと江戸時代から明治時代の人で、イギリス人の事務所で働き、妻帯して2人の子をもうけました。2人の子の名前はティン・カリ・ラヒリとドゥ・カリ・ラヒリです。ラヒリ・マハサヤはヒマラヤの山中でババジに会い、ババジからクリヤ・ヨガを伝授されました。私は1981年の3月にインド旅行をし、ヴァラナシ(ベナレス)で偶然にもラヒリ・マハサヤのお寺を訪問する事が出来、そこでティン・カリ・ラヒリの息子であるサットヤ・チャラン・ラヒリさんに日本人として初めて面会しました。そして1987年の8月に再度インド旅行をしましたが、サットヤ・チャラン・ラヒリさんはその年の1月22日に83才で亡くなられており、ラヒリ・マハサヤのお寺ではサットヤ・チャラン・ラヒリの息子のシベンドゥ・ラヒリさんにご挨拶しました。そしてこのお寺の近くにはラヒリ・マハサヤのお家が有り、そこではサットヤ・チャラン・ラヒリの甥(おい)に当たるB・ラヒリさんに日本人としては初めて面会し、宗教哲学のお話をしたものです。
③スリ・ユクテスワルジ。セランポアやヴァラナシ(ベナレス)に滞在し、ラヒリ・マハサヤからクリヤ・ヨガの伝授を受けます。ババジの要請を受け、「聖なる科学」と言う本を執筆しました。
④パラマハンサ・ヨガナンダ(本名ムクンダ・ラル・ゴーシュ)。カルカッタの人ですがヴァラナシ(ベナレス)でスリ・ユクテスワルジと出会い、ユクテスワルジをグル(先生)としてクリヤ・ヨガの伝授を受けます。ユクテスワルジやババジの要請を受けてアメリカへ渡り、アメリカでクリヤ・ヨガの伝授に勉めました。
⑤ヴィシュヌ・チャラン・ゴーシュ。カルカッタの人でパラマハンサ・ヨガナンダの実弟。ヨガナンダからヨガを教わり、カルカッタにヨガ道場を開きました。
⑥ジバナンダ・ゴーシュ先生とコルナ・ゴーシュ先生のご夫妻。コルナ・ゴーシュ先生はヴィシュヌ・チャラン・ゴーシュ先生の娘です。ゴーシュ先生ご夫妻はヴィシュヌ・チャラン・ゴーシュ先生の要請で日本にヨガを広める為に来日、日本ゴーシュ・ヨガ道場を開設しました。ジバナンダ・ゴーシュ先生は私のヨガのグル(先生)です。

 さて、昨年の暮に私は八重洲ブックセンターで「ババジと18人のシッダ」と言う本を見つけました。本の題名にババジの名が有り、もしかしたらラヒリ・マハサヤからパラマハンサ・ヨガナンダへと続くクリヤ・ヨガの事が詳しく書いて有るかも知れないと思い、買ってみました。

 この本には2人の主要人物が登場します。
①ヨーギー・ラマイア(1923~2006)南インドの人。兄弟弟子ニーラカンタンと共にババジからクリヤ・ヨガの伝授を受け、1952年にババジの要請でマドラスにヨーガの団体「クリヤー・ババジ・サンガ」を設立。南インドとアメリカでクリヤ・ヨガの伝授に勉める。
②マーシャル・G・サッチダナンダ(1948~)アメリカのオハイオ州コロンブス市に生まれる。この本の著者。1969年にワシントンのラマイアのセンターでヨーギー・ラマイアと出会い、1970年にババジのクリヤ・ヨガを伝授される。ヨーギー・ラマイアの弟子として活躍するが1988年の年末、ババジに「汝が他の者にクリヤ・ヨガを教える時が来た」と告げられ、ラマイアのサンガ(団体)を離れて1992年にカナダのケベックに「ババジのクリヤー・ヨーガ・アシュラム」を設立、クリヤ・ヨガの普及に勉める。

 「ババジと18人のシッダ」は不思議な本です。先ずは太古の昔にはインドの南に失われた大陸が有った事、そしてインドアーリア人がインドに侵入してドラヴィダ人を南方に押しやった際にドラヴィダ人の文化がアーリア人に伝わり、それが西へ西へとヨーロッパまで伝わった事が書いて有ります。アレキサンダー大王がインドに到ってギリシャにヘレニズム文化が興ったのは歴史的な事実ですからここでことさらに南インドの優位性を主張する必要も無かろうと思いますが、このあたりはヨーギー・ラマイアの話を筆者が英語で書き写したのでは無いでしょうか。ヨーギー・ラマイアには南インドのエリア・ナショナリズムが有るようで、これがアメリカ人の弟子達に南インドの生活慣習を強いる事になって弟子達を苦しめたようです。

 次に、これもヨーギー・ラマイアからの聞き写しなのでしょうが、ババジの誕生から成長、自己実現までの有様が書いて有って、ここは興味の有る所です。このあとババジからラヒリ・マハサヤ、スリ・ユクテスワルジ、パラマハンサ・ヨガナンダへのクリヤ・ヨガの伝承が簡潔に、わずか2ページで紹介されており、これには拍子抜けしました。

 さて、「ババジと18人のシッダ」のシッダとは成就者と言う意味です。この本には18人のシッダ(成就者)のリストが有りますが、この18人のうちの3人の説明しか書いて無く、またラヒリ・マハサヤ、スリ・ユクテスワルジ、パラマハンサ・ヨガナンダはこの18人のリストには入っていません。またゴータマ・ブッダもリストには無く、この本の題名は「ババジと18人のシッダ」よりも「ヨーギー・ラマイアのクリヤ・ヨガ」の方が適切な気がします。

 ヨーギー・ラマイアからの聞き写しと思われる部分はここで終わり、次にはいよいよクリヤー・ヨーガの具体的な説明に入ります。

 著者は68ページを使ってクリヤー・ヨーガの説明をしていますが、一通り読み通して見ますと、結果としてこれはラージャ・ヨガ(伝統的で綜合的なヨガ)でした。ラージャ(王者の)・ヨガでは有りますが、マントラ(真言)・ヨガとクンダリニ・ヨガを強調しているようです。

 人間の体には7つのチャクラ(輪、神経の集まり)が有るとされています。そして一番下のチャクラにクンダリニは眠っていると言います。クンダリニはとぐろを巻いた蛇として表現されますが、クンダリニとはシャクティの事です。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したものです。クンダリニ・ヨガはこの眠っているクンダリニを修行によって覚醒させ、一番下のチャクラ(輪、神経の集まり)からナーディーと呼ばれる経脈を通って一番上のチャクラまで上昇させて人間の眠っていたパワーを発現させる修行です。

 十分な心と体の準備無しにこのクンダリニを覚醒させますとその強烈なパワーが心や体を狂わせる事が有るそうでして、クンダリニ・ヨガは正統なグル(先生)の指導のもとでやらないと大変危険です。パラマハンサ・ヨガナンダが述べていますように、十分な心と体の準備が出来ると自然にクンダリニは覚醒するそうですから無理やりにクンダリニを覚醒させる必要は無いと私は思います。グル(先生)の直接の指導を受けずに本を読んだり通信教育を受けたりしてクンダリニ・ヨガを行うのは大変危険な事です。またクンダリニ・ヨガに限らずヨガのアサナ(坐法)やプラーナヤーマ(調気法)も直接にグル(先生)の指導を受けるべきです。グル(先生)の忍耐強い指導のもとでクンダリニ・ヨガは修行すべきですので、ヨーギー・ラマイアやこの本の著者がどのような指導をしているのかは気になる所です。

 さてクリヤー・ヨーガの具体的な説明のあと、この本は著者の回想録で締めくくられます。読者にとって著者の回想録は必要で外せないものです。そしてこの回想録を通読して見ますと、著者は色々と言い訳はしていますが、著者のヨーギー・ラマイアへの恨み節に思えてしまいます。

 ヨーギー・ラマイアの指導は大変厳しいものです。1日に8時間はヨガの練習をする事。週に40時間(週休2日だと1日8時間)は仕事に従事する事。ヨーギー・ラマイアの基金に一定額の寄付をする事。ここまでは何とかなりそうですが服装や髪の規定は厳しく、髪を切ってはならず男性は髭も剃ってはならない。これではアメリカに限らず日本でも社会生活を送るのは無理なように思えます。そして著者はこの規定に耐えるのですから驚きです。

 初めてヨーギー・ラマイアに会った時に著者は19歳のシェール・マンと言う娘に出会い、恋に落ちます。ヨーギー・ラマイアは妻帯しての修行を勧めていてこの2人がパートナーとなる事を認めます。しかし2年後にヨーギー・ラマイアは2人がこれまでの関係を終えるべきだと告げ ます。ここまでは良いのですが、その後ヨーギー・ラマイアはシェール・マンにアンナマライと言う名の男の子を生ませます。そしてその後シェール・マンはアシュラム(宿泊施設の有る道場)を去ります。ヨーギー・ラマイアの厳格な規律に従えなくなったのです。男性が女性に性的な関心を寄せるのは自然な事ですが、これはどうでしょうか。弟子の彼女の横取りはいけません。私はシェール・マンの事を気の毒に思います。そして著者はそれでもヨーギー・ラマイアに従うのですが、さぞ悔しかった事でしょう。自我意識を消滅させる為のショック療法だ等と、私は受け入れる事が出来ません。

 またヨーギー・ラマイアは度々大勢の弟子達の面前で1人の弟子を叱り飛ばします。弟子達に厳格な規定を守らせ、南インドの生活慣習を強い、お金を要求し、弟子の彼女を横取りし、感情的に弟子達を叱り散らかす。著者の書いている事が本当ならば、ヨーギー・ラマイアと言う人は人格に問題が有ります。ババジはどうしてこのような人にクリヤ・ヨガを伝授したのでしょうか。

 1988年の年末にこの本の著者はババジから「汝が他の者にクリヤー・ヨーガを教えるときがきた」と告げられ、著者はヨーギー・ラマイアに事の次第を話してラマイヤのサンガ(団体)から離れる事になります。1990年にはゲテイン・ウレと言う女性と結婚、いよいよクリヤ・ヨガの伝授活動を始めようとしますとヨーギー・ラマイアはクリヤ・ヨガの伝授活動を止めるよう通告してきて話は物別れになり、1992年に著者はカナダのケベックに「ババジのクリヤー・ヨーガ・アシュラム」を設立して今日に至ります。ババジが著者にクリヤ・ヨガの伝授を要請したので有ればヨーギー・ラマイアにもそれはババジから伝わっている筈ですし、これはおかしな話です。著者はヨーギー・ラマイアが建前と本音を使い分けたのだろうと言います。ヨーギー・ラマイアは自分の組織を守る為に建前として反対はするのだが本音では応援しているのだと言う訳ですが、そんな事が有るのでしょうか。ババジがヨーギー・ラマイアに見切りをつけてクリヤ・ヨガの伝授を著者に託したのか、あるいは誰かが嘘をついているのか、そのどちらかなのでしょうが私にはどうにも理解出来ません。卓越したヨガ行者は一般に厳格では有っても穏やかで優しい雰囲気を持っていますし、こんなギクシャクした話は聞いた事が有りません。

 ラヒリ・マハサヤもスリ・ユクテスワルジもパラマハンサ・ヨガナンダもヨガについて厳格では有っても穏やかで優しい人だったようですし、私がインドのヴァラナシ(ベナレス)でお会い出来たサットヤ・チャラン・ラヒリさんもB・ラヒリさんもやはり厳格では有っても穏やかで優しい人でした。

 ババジがニーラカンタンやヨーギー・ラマイアやこの本の著者のマーシャル・G・サッチダナンダにクリヤ・ヨガの伝授をしたのは本当なのでしょうが、私はそれとは異なるラヒリ・マハサヤからの流れに有るジバナンダ・ゴーシュ先生からヨガを教わって本当に良かったと思いますし、インドのヴァラナシ(ベナレス)では日本人としては初めてラヒリ・マハサヤの子孫の方々にお会い出来ましたし、これからも他のグル(先生)によそ見せずに人生を歩むつもりです。

 「良ければここで少し瞑想していきなさい」とサットヤ・チャラン・ラヒリさんに、「話をするのも良いが少し黙想してごらん」とB・ラヒリさんに勧められたのを昨日の事のように思い出します。












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Chシュヴァルブラン1970

2014年01月10日 | 日記
Chシュヴァルブラン1970

 私の下の娘は昨年結婚しました。結婚して入籍はしましたが諸般の事情で結婚式はまだ挙げていません。この夫婦は夫々に別の仕事をしていますのでなかなか一緒の休みが取れません。ところが今年の元日は一緒に休みが取れるので夫婦でうちへ遊びに来る事になりました。結婚して初めての夫婦での来宅になるので彼等をどう迎えようか。そうだ、あのワインを抜いて見よう。うちにはCh(シャトー)シュヴァルブラン1970と言うとんでもないワインが有ります。これを開ければ新婚夫婦の来宅にふさわしいビッグイベントになるのですが、これには大きな問題が有りました。

 このワインを何時(いつ)買ったのかを覚えていませんが、会社では時々訳有りのワインを社員向けに販売していました。そして有る時、訳有りセールのリストを見ますと、Chシュヴァルブラン1970が有りました。ワインが液漏れをしてラベルに赤い筋がついているので売り物にならず出品されたようです。これを見逃す手は無い、私は一番乗りで販売会場に行き、通常価格5万円位のを2万円位で買った記憶が有ります。

 1975年の4月、私は生まれて初めての海外旅行として、営業部員のヨーロッパ・ワイン研修ツアーに参加しました。そしてフランスのボルドー地方でも南部のサンテミリオン地区には大きな印象を受けました。私達はサンテミリオン地区の第1級シャトーであるChシュヴァルブランとChオーゾンヌを見学しました。シュヴァルブランとは「白馬」の意味だそうでして、平坦なエリアに有る端正で優美なシャトーは忘れる事が出来ません。「白馬」の名にふさわしく「上品」と言う言葉がぴったりのシャトーでした。一方Chオーゾンヌは起伏の大きい雄大な丘に有り、360度の景色が見渡せたものです。そしてオーゾンヌとは「丘の上」と言う意味だそうです。

 一般にボルドー地方では混醸と言いまして複数の葡萄品種で醸造します。赤ワインですとカベルネ・ソーヴィニヨンとカベルネ・フラン、白ワインですとソーヴィニヨン・ブランとセミヨンと言った風です。一方ブルゴーニュ地方では単醸と言いまして単一の葡萄品種で醸造します。赤ワインですとピノノワール、白ワインですとシャルドネと言った風です。そしてサンテミリオン地区とそれに隣接するポムロール地区ではボルドー地方には珍しくブルゴーニュ地方のように単醸で、メルロと言う品種の葡萄だけで醸造します(最近では混醸のようですが)。

 さて、うちのChシュヴァルブラン1970には大きな問題が有りました。ワインは一定の温度と一定の湿度を好み、また太陽光線や蛍光灯の光を嫌うのですが、うちにはワインセラー(定温定湿のワイン保管庫)等は無く、ワインは押入れの中に突っ込んで有ります。ですから夏はクソ暑く冬は相当寒い環境の中でこのワインは数十年を過ごして来たのです。またこれは液漏れの訳有り品でしたので液漏れした分だけボトルには空気が入っており、その分だけ酸化が進んでいる筈です。何分1970物なので43年も経過しており、これが健全に生きている可能性は10%も無く、おそらく5%程度でしょう。それでもいつかは開ける必要が有ったのですがそう言う機会はそうそう無いもので、それで今日に至ってしまったのです。ですからこのワインを開けて駄目になっていたらそれに代わるワインが必要です。私と妻は適当な代替ワインを探しに成城石井へ行って見ました。

 成城石井のワイン棚を見ますとサンテミリオン2010のACワインが有りました。ラベルのACとはアペラシオン・コントローレと言ってサンテミリオン地区の条件を満たすワインで有る事をフランス政府が保証しますよと言う表示です。そしてそのプライスカードには面白い事が書いて有ります。このワインはChペトリュスが手掛け、その技術を傾けて作った特別の廉価ワインであり、それを成城石井が直接に輸入していると言うのです。Chペトリュスと言えばサンテミリオン地区に隣接するポムロール地区のシャトーワインですがその値段が余りにも高い事で知られており、1本20万や30万は当たり前と言う代物です。Chペトリュスが手掛けているのならば他のサンテミリオン地区のワインより少々高くても、これは飲んで見たい。私達夫婦はこれを買う事にしました。

 寝かしておいたChシュヴァルブラン1970のボトルを立て、2日間掛けて澱(おり)を沈めました。そして元日になり新婚夫婦は午後2時に来ると言うので午前10時には抜栓しました。ワインを室内の空気に馴染ませる為です。そして新婚夫婦はやって来ました。

 私はこの2人に今日は特別な日だからこのワインを抜くのだと言ってこれまでの事情を説明し、先ずはこの2本のワインを比べて見ようと提案しました。ワイングラスを2つずつ並べて片方にはChシュヴァルブラン1970を注ぎ、もう一方にはサンテミリオンAC2010を注ぎます。

 1970からは充分に香りが立ち上がって来ます。良かった、死んでないよ、生きてるよ。見た目はどうでしょうか。少し褐色がかってはいますがしっかりと赤く、脱色もしていません。口に含んで見ますとボディは少々衰えているものの充分に美味しく樽香もしっかり残っています。飲み下したあとにも味覚の余韻はずっと続きます。43年の時を経てChシュヴァルブラン1970は見事に生き抜いていました。元日の奇跡で有ります。

 一方の2010には若さに任せた勢いが有って、これはこれで大変よろしい。ボトルの裏張りには「ムエックス サンテミリオン」と書いて有ります。

 ところで実は、私が娘の夫君と会うのは今回が2度目でした。最初に会ったのは彼が結婚を申し出た日で場所はホテルのカフェテリアでした。その時の私は殆ど人事の面接官のようで、その日に私は彼と娘の結婚を承諾したものです。

 元日に初めてうちへ来た夫君と私達夫婦は上等なワインと妻が提供するワインに良く合うオードブルとで大いに話が弾み、この日の彼等の滞在6時間だけで娘の夫君と私達夫婦との距離感は一気に縮まったと思いますし、今はChシュヴァルブラン1970の元日の奇跡に感謝しております。






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靖国参拝

2014年01月03日 | 日記
靖国参拝

 年末に安倍総理が靖国神社を参拝し、中国や韓国がこれを批判して日本のマスコミもこれに同調、アメリカやEUも懸念を表明しましたがこれをどう見ましょうか。国境を隣接する国同士の仲が悪いのは世界中どこでもの常識ですから皆が醒めた目で静観して居れば良いと思いますし、靖国参拝程度の事で騒いで居られると言うのは、実はこれが極東地域の安定を象徴している事象なのだろうとも思います。もし金正恩が暗殺されて北朝鮮の国内が混乱すれば間髪を入れずに中国は軍を北朝鮮に投入し、中国の傀儡政権を作るか北朝鮮を中国の北朝鮮自治区にするのでしょうが、その時に韓国政府はどう言う態度を取るのでしょうか。歴史認識も大切ですが現状認識はもっと大切です。そして新羅による朝鮮半島統一の際にも中国は新羅と結んで高句麗と百済を挟み撃ちにしましたが、わずか1300年ばかり前の事を朝鮮半島の人達は覚えていないのでしょうか、これでは彼等の歴史認識を疑ってしまいます。

 ところで特定秘密保護法案には笑ってしまいました。かなりぎりぎりの時期になってマスコミ各社は一斉にこの法案反対の報道を展開しましたが、この法律にひっかかるような危ない取材をしている新聞やテレビが1社でも有るのでしょうか。政府の発表の垂れ流しをしているだけの会社が恥ずかしくはないのかなあ。恥ずかしいのは恥ずかしいけれどもここは一応反対しておかないと格好が付かないから短期的に反対しておこう、そしてそのあとは知らんぷりと言うのが本当の所だと思うのですがどうでしょうか。

 原発ゼロにしても特定秘密保護法案反対にしても、そして選挙での自民党の圧勝にしても、その根源は1票の格差、現在の選挙制度に有ります。ここを直さないと政権のやりたい放題を抑える事は出来ません。

 そして最高裁判所は選挙違憲の判決は下せますが、有るべき選挙制度についての細かい提案は出来ません。そして更に国会では参議院議員が「参議院は不要、これは盲腸のようなものである」等と言いますでしょうか。自らの存在を否定するような主張等望むべくも有りません。衆議院議員も同じ事で、自分の不利になるような制度改革に積極的な訳が有りません。それならばどうすれば良いのだろうか。

 大変恥ずかしい事ですが、ここはアメリカに出しゃばってもらって、「現在の選挙制度のもとでは日本は健全な民主主義国家とは言い難い」、「1票の価値を農村部に手厚くしているのは完全な非関税障壁であり、日本の消費者の利益を著しく損なうものである」と恫喝してもらえば日本の国会も重い腰を上げざるを得ませんでしょう。悲しい事ですが日本と言う国は外圧でしか変われないのです。

 ところで最近マスコミは「円安効果で企業が力を付けて日本の株価が上がっている」と囃していますが、これは本当でしょうか。例えば日本の投資家はアメリカ企業の株を買う時に、「100万円だけ買っておこう」とは考えますが「1万ドルだけ買っておこう」とは考えませんよね。それと同じようにアメリカの投資家は日本企業の株を「1万ドルだけ買っておこう」と考えます。そうしますと円安になれば見た目の株価は円安に反比例して上がってしまう事になります。こんな簡単な理屈をどうして日本のマスコミは指摘出来ないのでしょうか。現在1ドルが105円としますと、1ドルが77円の時と比べて36%の円安と言う事になりますから、その時と比べて株価が36%上がるのは当たり前の事なのです。株価が60%上がったとしたらそのうち36%は為替変動によるものであり、株価が上がった分だけ景気が良くなっている訳では有りません。

 自動車メーカーが代表選手だと思いますが輸出依存度の高い企業は円安で得をしますが、一昔前と違って主要企業は工場の海外移転も既に済ませていますから昔程の恩恵は受けていないでしょう。それでは円安によってどこが得しているのでしょうか。

 円安によって株価が上がりその分だけ見た目の資産が増えた上場企業は体力が付いた事になりますから勝ち組ですよね。そして国内の投資家は円安が進むにつれて株価が上がりますからこれも得をしています。

 しかし、こうして円安で得をしている人達が居る分だけ、それで損をしている人達も居ます。円安によって石油や食料品の輸入価格が上がり、それが日本の一般庶民の家計を直撃しています。これを言って見れば、大企業や国内投資家に利益を与える為に国民は広く負担を強いられている訳で、これでは国民がまるで消費税を払わされているようなものです。それに加えて実際に消費税も上がるのですからこんな理不尽な事が有りますでしょうか、日本のマスコミは一体誰の味方なのだろうか。

 そして自国通貨が値下がりして喜んでいる国が何処に有りますでしょうか。貿易依存度の極めて高い韓国等は自国通貨安を歓迎するのでしょうがブラジルやトルコ等は為替対策で頭を抱えていますでしょう。自国の通貨安が進めばインフレが進み、その国の政権基盤に影響を与えかねません。自国通貨は高い方が良いのです。

 以上、新年早々くどくどと書いてしまいましたが、漫然とテレビ等を見ていますと、これは違うよと言う場面が多すぎはしませんか。



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