新宿ピットイン
入社して独身寮に入りますと、同じ寮にジャズの好きな同期生が居ました。彼はオープンリールのテープレコーダーを持っていて、私に彼の好きなジャズを聞かせてくれます。ある日の夜ラムゼイ・ルイスの「ジ イン クラウド(群集の中で)」を聞いていた私が「なんとも悲しい、淋しい曲だね」と言いますと彼は私に「お前、本当にそう感じるのか?」と言います。それと言いますのもこの曲はジャズロックとして当時ヒットしていたテンポの良い賑やかな曲で、しかもライブ演奏を録音したものなので聴衆のノリノリな歓声も録音されていたのです。私はテンポの良い心躍る曲の底に、なんとも言えない孤独を感じ取っていました。
また、マル・ウォルドロンの「レフト アローン(独り残されて)」ではマルの哲学者のようなピアノに乗せて、ジャッキー・マクリーンのアルト・サックスが今は亡きビリー・ホリデイに代わって思い切り泣いていました。ピアノではファッツ・ウォラーのストライド奏法も同期生が教えてくれました。ファッツ・ウォラーでは「トゥー スリーピー ピープル(眠そうな2人)」が私のお気に入りで、この曲は近年カーリー・サイモンがジョン・トラボルタと2人で歌っていて、これもなかなかです。
その頃、仕事が早く終わると会社の帰りに私は渋谷のジャズ・バーに立ち寄っていました。ジャズ・バーでは、その時に掛かっているレコードのジャケットが紐で吊るされ、お店の真ん中で上下に移動しています。エリック・ドルフィーのグリーンドルフィン・ストリートを初めて聞いたのはそのお店でした。イントロはコントラバスとドルフィーのバス・クラリネットとのユニゾンで、「これはなんだ」と思ったものです。エリック・ドルフィーの、とんでもなく個性的な演奏は素晴らしく、また、フレディ・ハバードのチープなトランペットとの絡み合いも大変お洒落でした。
遡って学生時代には友人TTが「オスカー・ピーターソンは良いよ」と言いますので、私は折角なら知っている曲が良いと思って、アート・ブレイキーで大ヒットした「モーニン(うめいて。モーニング、朝では有りません)」のEPレコードを買いました。この演奏は素晴らしく、いつもこの曲を聴いていると眠り込んでしまったものです。オスカー・ピーターソンのピアノを今風に喩えますと、「ボルドーの赤ワインのように華やかだけれど、ブルース・フィーリングがしっかりと樽香のように残っている」となります。
20代の後半に私は東京都新宿区を担当しましたが、新宿区の早稲田に典型的な家庭用のお酒屋さんが有って、私はそういったお店も定期的に訪問していました。ここではそのお店を早稲田さんとでも呼んでおきましょう。早稲田さんは近隣の中小企業をお得意先として持っていて、お中元の時期にはかなりの数量のビールを扱っているようでした。ですから私はお中元の時期が近づきますとビール大瓶1打(ダース)用のダンボール箱を早稲田さんに持ち込み、ご主人の許可をいただいてうちの会社のビール1打(ダース)の箱を作り、銘柄指定の無い場合にはこれを出して下さいとお願いしました。早稲田さんの倉庫には各社のビールがぎっしりと積まれていました。早稲田さんの倉庫の天井近くまで積み上げられたビールのP箱(プラスティック製のビール箱)の山に足を掛け、取っ手を掴んでよじ登り、うちのビールの大瓶のP箱を1ケースずつ地面に降ろし、20本入りのP箱のビールを1打(ダース)入りの箱に詰め替えました。そしてお中元のシーズンが終わると、大概うちのビールは売れ残っていましたので、今度は1打(ダース)入りの箱から20本入りのP箱に戻しては倉庫の元の場所に積み上げたものです。それは大体10ケース程でしたが、体力に自信が無く、また運動神経が全く無い私にどうしてこんな事が出来たのか、今では不思議な事です。
さて、ビール瓶のカートン詰め作業は少なくとも3シーズンはやったと思うのですが、お中元も終わったある8月の事、早稲田さんのご主人から会社の私に電話が有りました。新宿ピットインが六本木に姉妹店の六本木ピットインを開店するので専売交渉に来て欲しいと言うのです。新宿ピットインと言えば日本全国でも有名なジャズのライブハウスです。新宿ピットインと商談が出来るのも不思議でしたが、早稲田さんがこのお店に納品していたのには驚きました。普通の家庭用のお酒屋さんなのに意外な事です。ご主人は、最初の商談だけは同行したいので、先ずは早稲田さんのお店に来て欲しいと言いました。
早稲田さんのご主人は私を連れて新宿ピットインの隣の洋品店の事務所に入って行きました。この洋品店が新宿ピットインの経営母体でした。早稲田さんのご主人は私に事務所の部長さんを紹介してくれ、部長さんから六本木ピットイン開店の大まかな計画を説明してもらいました。六本木ピットインの規模は新宿ピットインの2倍くらい有ったと思います。部長さんから開店時の協賛についての要望が有り、私はうちの会社の要望を申し上げました。部長さんからの要望は私が想像していたよりも大きいものでした。「早急に協賛可能な内容をお持ちします」と部長さんに申し上げて、私は早稲田さんのご主人と一緒に事務所を後にしました。
会社に戻った私は、部長さんの要望が大きすぎたので頭を抱えましたが、何とかこのお店は取りたいと思いました。方法は無いものだろうか。
2、3日経って洋品店の事務所に部長さんを訪ねた私は部長さんに提案をしました。「六本木ピットインさんだけでなく新宿ピットインさんもうちの製品に変えていただけませんか?そうすれば部長さんのご要望よりも大きな協賛が出来ますし、何よりもお店のお客様はどこそこの銘柄のビールを飲みたくてお店にいらっしゃる訳では無く、ジャズの演奏を聞きにいらしていると思いますから」。私は六本木ピットインと新宿ピットイン両方をうちの製品にしていただく場合の協賛内容だけを部長さんに申し上げました。部長さんも私の提案に関心を示し、少し考えさせてくれと言われます。仕事のお話はそこまでとして、私と部長さんはジャズ談義に入りました。折角新宿ピットインの部長さんと会えたのですから、どうしてもジャズのお話を聞かせて欲しかったのです。「ライブハウス」は今でこそ一般用語ですがその頃はまだまだめずらしく、ですから部長さんがライブハウスの裏話をしてくれますと私には新鮮な驚きでした。そして又、部長さんが「ナベサダさんをおたくのCMに使ったらどうですか?」と言われるので、「あれっ、ナベサダさんはもう出ていらっしゃいますよ」とお返事したのを覚えています。
結局、六本木ピットインの開店に合わせて、新宿ピットインもうちの製品に変えていただく事になりました。六本木ピットイン開店協賛の計画明細書に添付する六本木ピットインと新宿ピットインの業務店カード(台帳)の業態欄にはライブハウスと書きました。営業所長が計画明細書にハンコを押してくれるのを確認し、安心して自分の席に戻ろうとする私を営業所長が呼び止めてデスクから睨み上げました。
「コラコラ、このライブハウスゆうのは、一体なんや?」。
入社して独身寮に入りますと、同じ寮にジャズの好きな同期生が居ました。彼はオープンリールのテープレコーダーを持っていて、私に彼の好きなジャズを聞かせてくれます。ある日の夜ラムゼイ・ルイスの「ジ イン クラウド(群集の中で)」を聞いていた私が「なんとも悲しい、淋しい曲だね」と言いますと彼は私に「お前、本当にそう感じるのか?」と言います。それと言いますのもこの曲はジャズロックとして当時ヒットしていたテンポの良い賑やかな曲で、しかもライブ演奏を録音したものなので聴衆のノリノリな歓声も録音されていたのです。私はテンポの良い心躍る曲の底に、なんとも言えない孤独を感じ取っていました。
また、マル・ウォルドロンの「レフト アローン(独り残されて)」ではマルの哲学者のようなピアノに乗せて、ジャッキー・マクリーンのアルト・サックスが今は亡きビリー・ホリデイに代わって思い切り泣いていました。ピアノではファッツ・ウォラーのストライド奏法も同期生が教えてくれました。ファッツ・ウォラーでは「トゥー スリーピー ピープル(眠そうな2人)」が私のお気に入りで、この曲は近年カーリー・サイモンがジョン・トラボルタと2人で歌っていて、これもなかなかです。
その頃、仕事が早く終わると会社の帰りに私は渋谷のジャズ・バーに立ち寄っていました。ジャズ・バーでは、その時に掛かっているレコードのジャケットが紐で吊るされ、お店の真ん中で上下に移動しています。エリック・ドルフィーのグリーンドルフィン・ストリートを初めて聞いたのはそのお店でした。イントロはコントラバスとドルフィーのバス・クラリネットとのユニゾンで、「これはなんだ」と思ったものです。エリック・ドルフィーの、とんでもなく個性的な演奏は素晴らしく、また、フレディ・ハバードのチープなトランペットとの絡み合いも大変お洒落でした。
遡って学生時代には友人TTが「オスカー・ピーターソンは良いよ」と言いますので、私は折角なら知っている曲が良いと思って、アート・ブレイキーで大ヒットした「モーニン(うめいて。モーニング、朝では有りません)」のEPレコードを買いました。この演奏は素晴らしく、いつもこの曲を聴いていると眠り込んでしまったものです。オスカー・ピーターソンのピアノを今風に喩えますと、「ボルドーの赤ワインのように華やかだけれど、ブルース・フィーリングがしっかりと樽香のように残っている」となります。
20代の後半に私は東京都新宿区を担当しましたが、新宿区の早稲田に典型的な家庭用のお酒屋さんが有って、私はそういったお店も定期的に訪問していました。ここではそのお店を早稲田さんとでも呼んでおきましょう。早稲田さんは近隣の中小企業をお得意先として持っていて、お中元の時期にはかなりの数量のビールを扱っているようでした。ですから私はお中元の時期が近づきますとビール大瓶1打(ダース)用のダンボール箱を早稲田さんに持ち込み、ご主人の許可をいただいてうちの会社のビール1打(ダース)の箱を作り、銘柄指定の無い場合にはこれを出して下さいとお願いしました。早稲田さんの倉庫には各社のビールがぎっしりと積まれていました。早稲田さんの倉庫の天井近くまで積み上げられたビールのP箱(プラスティック製のビール箱)の山に足を掛け、取っ手を掴んでよじ登り、うちのビールの大瓶のP箱を1ケースずつ地面に降ろし、20本入りのP箱のビールを1打(ダース)入りの箱に詰め替えました。そしてお中元のシーズンが終わると、大概うちのビールは売れ残っていましたので、今度は1打(ダース)入りの箱から20本入りのP箱に戻しては倉庫の元の場所に積み上げたものです。それは大体10ケース程でしたが、体力に自信が無く、また運動神経が全く無い私にどうしてこんな事が出来たのか、今では不思議な事です。
さて、ビール瓶のカートン詰め作業は少なくとも3シーズンはやったと思うのですが、お中元も終わったある8月の事、早稲田さんのご主人から会社の私に電話が有りました。新宿ピットインが六本木に姉妹店の六本木ピットインを開店するので専売交渉に来て欲しいと言うのです。新宿ピットインと言えば日本全国でも有名なジャズのライブハウスです。新宿ピットインと商談が出来るのも不思議でしたが、早稲田さんがこのお店に納品していたのには驚きました。普通の家庭用のお酒屋さんなのに意外な事です。ご主人は、最初の商談だけは同行したいので、先ずは早稲田さんのお店に来て欲しいと言いました。
早稲田さんのご主人は私を連れて新宿ピットインの隣の洋品店の事務所に入って行きました。この洋品店が新宿ピットインの経営母体でした。早稲田さんのご主人は私に事務所の部長さんを紹介してくれ、部長さんから六本木ピットイン開店の大まかな計画を説明してもらいました。六本木ピットインの規模は新宿ピットインの2倍くらい有ったと思います。部長さんから開店時の協賛についての要望が有り、私はうちの会社の要望を申し上げました。部長さんからの要望は私が想像していたよりも大きいものでした。「早急に協賛可能な内容をお持ちします」と部長さんに申し上げて、私は早稲田さんのご主人と一緒に事務所を後にしました。
会社に戻った私は、部長さんの要望が大きすぎたので頭を抱えましたが、何とかこのお店は取りたいと思いました。方法は無いものだろうか。
2、3日経って洋品店の事務所に部長さんを訪ねた私は部長さんに提案をしました。「六本木ピットインさんだけでなく新宿ピットインさんもうちの製品に変えていただけませんか?そうすれば部長さんのご要望よりも大きな協賛が出来ますし、何よりもお店のお客様はどこそこの銘柄のビールを飲みたくてお店にいらっしゃる訳では無く、ジャズの演奏を聞きにいらしていると思いますから」。私は六本木ピットインと新宿ピットイン両方をうちの製品にしていただく場合の協賛内容だけを部長さんに申し上げました。部長さんも私の提案に関心を示し、少し考えさせてくれと言われます。仕事のお話はそこまでとして、私と部長さんはジャズ談義に入りました。折角新宿ピットインの部長さんと会えたのですから、どうしてもジャズのお話を聞かせて欲しかったのです。「ライブハウス」は今でこそ一般用語ですがその頃はまだまだめずらしく、ですから部長さんがライブハウスの裏話をしてくれますと私には新鮮な驚きでした。そして又、部長さんが「ナベサダさんをおたくのCMに使ったらどうですか?」と言われるので、「あれっ、ナベサダさんはもう出ていらっしゃいますよ」とお返事したのを覚えています。
結局、六本木ピットインの開店に合わせて、新宿ピットインもうちの製品に変えていただく事になりました。六本木ピットイン開店協賛の計画明細書に添付する六本木ピットインと新宿ピットインの業務店カード(台帳)の業態欄にはライブハウスと書きました。営業所長が計画明細書にハンコを押してくれるのを確認し、安心して自分の席に戻ろうとする私を営業所長が呼び止めてデスクから睨み上げました。
「コラコラ、このライブハウスゆうのは、一体なんや?」。