ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

新宿ピットイン

2011年09月29日 | 日記
新宿ピットイン

 入社して独身寮に入りますと、同じ寮にジャズの好きな同期生が居ました。彼はオープンリールのテープレコーダーを持っていて、私に彼の好きなジャズを聞かせてくれます。ある日の夜ラムゼイ・ルイスの「ジ イン クラウド(群集の中で)」を聞いていた私が「なんとも悲しい、淋しい曲だね」と言いますと彼は私に「お前、本当にそう感じるのか?」と言います。それと言いますのもこの曲はジャズロックとして当時ヒットしていたテンポの良い賑やかな曲で、しかもライブ演奏を録音したものなので聴衆のノリノリな歓声も録音されていたのです。私はテンポの良い心躍る曲の底に、なんとも言えない孤独を感じ取っていました。

 また、マル・ウォルドロンの「レフト アローン(独り残されて)」ではマルの哲学者のようなピアノに乗せて、ジャッキー・マクリーンのアルト・サックスが今は亡きビリー・ホリデイに代わって思い切り泣いていました。ピアノではファッツ・ウォラーのストライド奏法も同期生が教えてくれました。ファッツ・ウォラーでは「トゥー スリーピー ピープル(眠そうな2人)」が私のお気に入りで、この曲は近年カーリー・サイモンがジョン・トラボルタと2人で歌っていて、これもなかなかです。

 その頃、仕事が早く終わると会社の帰りに私は渋谷のジャズ・バーに立ち寄っていました。ジャズ・バーでは、その時に掛かっているレコードのジャケットが紐で吊るされ、お店の真ん中で上下に移動しています。エリック・ドルフィーのグリーンドルフィン・ストリートを初めて聞いたのはそのお店でした。イントロはコントラバスとドルフィーのバス・クラリネットとのユニゾンで、「これはなんだ」と思ったものです。エリック・ドルフィーの、とんでもなく個性的な演奏は素晴らしく、また、フレディ・ハバードのチープなトランペットとの絡み合いも大変お洒落でした。

 遡って学生時代には友人TTが「オスカー・ピーターソンは良いよ」と言いますので、私は折角なら知っている曲が良いと思って、アート・ブレイキーで大ヒットした「モーニン(うめいて。モーニング、朝では有りません)」のEPレコードを買いました。この演奏は素晴らしく、いつもこの曲を聴いていると眠り込んでしまったものです。オスカー・ピーターソンのピアノを今風に喩えますと、「ボルドーの赤ワインのように華やかだけれど、ブルース・フィーリングがしっかりと樽香のように残っている」となります。

 20代の後半に私は東京都新宿区を担当しましたが、新宿区の早稲田に典型的な家庭用のお酒屋さんが有って、私はそういったお店も定期的に訪問していました。ここではそのお店を早稲田さんとでも呼んでおきましょう。早稲田さんは近隣の中小企業をお得意先として持っていて、お中元の時期にはかなりの数量のビールを扱っているようでした。ですから私はお中元の時期が近づきますとビール大瓶1打(ダース)用のダンボール箱を早稲田さんに持ち込み、ご主人の許可をいただいてうちの会社のビール1打(ダース)の箱を作り、銘柄指定の無い場合にはこれを出して下さいとお願いしました。早稲田さんの倉庫には各社のビールがぎっしりと積まれていました。早稲田さんの倉庫の天井近くまで積み上げられたビールのP箱(プラスティック製のビール箱)の山に足を掛け、取っ手を掴んでよじ登り、うちのビールの大瓶のP箱を1ケースずつ地面に降ろし、20本入りのP箱のビールを1打(ダース)入りの箱に詰め替えました。そしてお中元のシーズンが終わると、大概うちのビールは売れ残っていましたので、今度は1打(ダース)入りの箱から20本入りのP箱に戻しては倉庫の元の場所に積み上げたものです。それは大体10ケース程でしたが、体力に自信が無く、また運動神経が全く無い私にどうしてこんな事が出来たのか、今では不思議な事です。

 さて、ビール瓶のカートン詰め作業は少なくとも3シーズンはやったと思うのですが、お中元も終わったある8月の事、早稲田さんのご主人から会社の私に電話が有りました。新宿ピットインが六本木に姉妹店の六本木ピットインを開店するので専売交渉に来て欲しいと言うのです。新宿ピットインと言えば日本全国でも有名なジャズのライブハウスです。新宿ピットインと商談が出来るのも不思議でしたが、早稲田さんがこのお店に納品していたのには驚きました。普通の家庭用のお酒屋さんなのに意外な事です。ご主人は、最初の商談だけは同行したいので、先ずは早稲田さんのお店に来て欲しいと言いました。

 早稲田さんのご主人は私を連れて新宿ピットインの隣の洋品店の事務所に入って行きました。この洋品店が新宿ピットインの経営母体でした。早稲田さんのご主人は私に事務所の部長さんを紹介してくれ、部長さんから六本木ピットイン開店の大まかな計画を説明してもらいました。六本木ピットインの規模は新宿ピットインの2倍くらい有ったと思います。部長さんから開店時の協賛についての要望が有り、私はうちの会社の要望を申し上げました。部長さんからの要望は私が想像していたよりも大きいものでした。「早急に協賛可能な内容をお持ちします」と部長さんに申し上げて、私は早稲田さんのご主人と一緒に事務所を後にしました。

 会社に戻った私は、部長さんの要望が大きすぎたので頭を抱えましたが、何とかこのお店は取りたいと思いました。方法は無いものだろうか。

 2、3日経って洋品店の事務所に部長さんを訪ねた私は部長さんに提案をしました。「六本木ピットインさんだけでなく新宿ピットインさんもうちの製品に変えていただけませんか?そうすれば部長さんのご要望よりも大きな協賛が出来ますし、何よりもお店のお客様はどこそこの銘柄のビールを飲みたくてお店にいらっしゃる訳では無く、ジャズの演奏を聞きにいらしていると思いますから」。私は六本木ピットインと新宿ピットイン両方をうちの製品にしていただく場合の協賛内容だけを部長さんに申し上げました。部長さんも私の提案に関心を示し、少し考えさせてくれと言われます。仕事のお話はそこまでとして、私と部長さんはジャズ談義に入りました。折角新宿ピットインの部長さんと会えたのですから、どうしてもジャズのお話を聞かせて欲しかったのです。「ライブハウス」は今でこそ一般用語ですがその頃はまだまだめずらしく、ですから部長さんがライブハウスの裏話をしてくれますと私には新鮮な驚きでした。そして又、部長さんが「ナベサダさんをおたくのCMに使ったらどうですか?」と言われるので、「あれっ、ナベサダさんはもう出ていらっしゃいますよ」とお返事したのを覚えています。

 結局、六本木ピットインの開店に合わせて、新宿ピットインもうちの製品に変えていただく事になりました。六本木ピットイン開店協賛の計画明細書に添付する六本木ピットインと新宿ピットインの業務店カード(台帳)の業態欄にはライブハウスと書きました。営業所長が計画明細書にハンコを押してくれるのを確認し、安心して自分の席に戻ろうとする私を営業所長が呼び止めてデスクから睨み上げました。

 「コラコラ、このライブハウスゆうのは、一体なんや?」。




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江川選手

2011年09月23日 | 日記
江川選手

 江川卓選手が東京読売巨人軍へ入団して活躍する前、つまり彼がまだ6大学野球で活躍していた頃、私は新宿区を担当していました。新宿区の淋しい住宅地に何の変哲も無い家庭用のお酒屋さんが有って私はそういう所も担当として定期的に訪問していました。このお酒屋さんはうちのビールの販売実績が無くご主人はいつも無愛想だったのですが、ある日私に声を掛けてくれました。6大学野球で江川選手の居る大学が優勝したので大学が祝勝会をやる、ついては条件が合えばうちの缶ビールを納品しても良いと言うのです。ビールの販売が伸びずに困っていたうちの会社は勿論OKで、すぐに缶ビール200ケースの注文をいただきました。

 祝勝会は日曜日の夕刻に行われるので私は日曜日に休日出勤をしてビールの出荷倉庫へ行き、十分に冷やした缶ビール200ケースを2tトラックに積んで運転手と一緒に大学へ向かいました。当時は缶ビール200ケースでも本当に有難かったものです。トラックは大学の裏門から入りました。運転手と2人で事務所へ行き、事務所の職員に案内されながら台車に積んだ缶ビールを学内へ運びます。「あれっ、祝勝会場じゃ無いの?」と思いながら職員に付いて回りますと、缶ビールは職員室のあちこちに降ろされて、100ケース程が祝勝会の会場では無く職員室に降ろされました。こういうのを学生達が見たら怒るだろうなあ。残りの100ケースを私と運転手とで屋外に設けられた祝勝会場の入口のテーブルの脇に降ろしました。そしてそこで帰るのも勿体無いので私達は祝勝会の様子を見る事にしました。入口で缶ビールを貰った学生達は大盛り上がりで舞台での選手代表の挨拶に応え、そのうちに「エガワ、エガワ」の江川コールが当然のように起こります。しかし江川選手は照明で明るくされた舞台に現れませんでした。

 江川選手は大学でもう1度優勝し、私はもう1度缶ビール200ケースを大学に納品しました。

 お酒屋さんのご主人とはすっかり打ち解けて、私は気軽にお酒屋さんを訪問するようになっていましたが、ある日薄暗いお店の中でご主人は外国人の男と親しく話をしています。外国人はインド人の洋服屋さんでした。ご主人が付き合ってやってくれよと言いますので私もこのインド人から背広を買う事にしました。

 会社の終業時刻にインド人の洋服屋さんは私の営業所へやって来ました。私の他にも客を紹介してくれと彼は言いますが誰も私に付き合ってはくれませんでした。当たり前ですね。空の会議室でインド人は私の採寸をし、10cm四方位のサンプル生地を見せて私に選ばせます。彼はそれを香港へ持って行き、香港で縫い上げて来週には背広を持ってくると言います。営業所長が会議室を覗いて私とインド人を睨みますので私は営業所長に事の次第を話しました。営業所長は「しゃあないな」という顔をして事務所に戻りました。出来上がった背広は私の気に入ったデザインでしたし、値段もお手頃でした。そしてこのインド人の洋服屋さんとのお付き合いは私が新宿区の担当を離れてもしばらく続きました。

 今回の題名は「江川選手」でしたが、江川選手は1度も登場しませんでしたね。最近ではテレビでのスポーツ観戦もサッカーやゴルフなど様々ですが、あの頃スポーツ観戦と言えばプロ野球と大相撲くらいしか有りませんでした。時代も変わり生活も裕福になったものです。

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フレッシュ、フレッシュ、フレーッシュ!

2011年09月17日 | 日記
フレッシュ、フレッシュ、フレーッシュ!

 英語のfreshは「新鮮な」ですがfleshは「肉欲の」です。

 大昔、松田聖子がゴールデンタイムのテレビで「フレッシュ フレッシュ フレーッシュ!」と歌った時にそれを見ていた欧米人達は肝を冷やした事でしょう。可愛らしい女の子が一家団欒の時間に突然「肉欲の 肉欲の にくよーくの!」とやったのですから、それは大事(おおごと)ですよ。

 新宿の映画館に「フレッシュ ゴードン」というアメリカのポルノ映画が掛かった時、小学生の男の子を連れて来た母親はあせりまくっていましたが、払った入場料がもったいないと思ったのか、なかなか席を立ちませんでした。いくらボカシが入っていてもねえ。

 英語のsitは「座る」ですがshitは「クソする」です。

 大分前にテレビで加藤茶がアラスカの先住民を訪ねる番組が有りましたが、先住民の天幕に入った加藤茶が「メイ アイ シット ダウン?」と訊ねると、それを聞いた先住民は「いやあ」と苦笑しました。日本人が自分の天幕へやって来ていきなり「クソしても良いか?」と言うのですから堪りません。先住民としたら苦笑(クショ)するしか有りません。

 うちのお向かいの一家が海外赴任でフィリピンへ行ったあと、エリック・ニルソンというアメリカ人の技師がしばらくお向かいに住む事になって隣近所へ挨拶に回りました。うちの隣のおばあちゃんはそれをキリスト教の押し売りと間違えて追い返してしまい、自分は英語が話せないので自分の事を謝って来て欲しいとおばあちゃんに頼まれた私はエリック・ニルソンに会いに行きました。彼はおばあちゃんの事を理解してくれ、ついでにゴミの出し方等を私に聞きました。打ち解けた私は「日本語は話せますか?」と聞くつもりで、やってしまいました、「キャン ユー スピーク イングリッシュ?」。

 さて、他にも面白い話が有ります。日本の森喜朗元総理大臣がアメリカのオバマ大統領と会談する事になり側近からレクチャーを受けました。「ハウ アー ユー?」と言えば「ファイン サンキュー アンド ユー?」と答えてくれますから「ミー トゥー」と言って下さい。ところが森さんは間違えました。「フー アー ユー?」。困ったオバマさんが「ミシェルズ ハズバンド」と答えますと森さん「ミー トゥー」。本当のお話でしょうか。

 ハワイ島で入国審査の男が「滞在は何日間ですか?」と聞きますので私は「six days」と答えました。そして「日本語で聞かれたのに英語で答えちゃったよ」と2人で大笑いしました。でも、これって有りがちな事ですよね。実際にはそれぞれが自分の母国語で話し合った方が意思の疎通は図れるものです。

 ハワイ島のスーパーのバックヤードで机に向かっていた男性に私が「キャナイ アスク ユー ウェア トイレ イズ?」と聞いても分かってくれません。「トイレ」を「トイレッT」と発音してみたら彼も分かってどこにトイレが有るのか教えてくれました。toiletは最後の「T」まで発音しましょう。

 さてさて、英語は難しいです。十分気をつけましょう。



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9.11

2011年09月09日 | 日記
9.11

 私が現在の妻と結婚しましたのは2001年の10月でした。新婚旅行は10月14日(日)から19日(金)まで、ハワイ島で2泊、オアフ島のワイキキで2泊の、4泊6日のツアーを申し込んでおきました。

 9月11日(火)にアメリカで同時多発テロが起こりました。事件の様子はテレビの画面に刻々と映し出されましたが、その映像は映画でも見た事のないような、それはそれは悲惨なものでした。複数の旅客機が高層ビルに突っ込み、そしてしばらくするとビル自体が上の方から崩壊を始め、地面には大変な粉塵が押し広がります。そして粉塵が収まると、もと有ったビルは消滅していました。日本軍の真珠湾攻撃はその対象がハワイのオアフ島でしたので、アメリカ本土が攻撃を受けるのは独立戦争以来の事でしょう。

 9.11の事件が起こりますと、我が家には旅行会社から何度も「キャンセルしますか?」という電話が来ました。私は「アラブ人をハワイでは見た事がない、アラブ人は東京では良く見掛けるから、ハワイより東京の方が危ないんじゃないの」と妻を説得して予定通り新婚旅行へ行く事にしました。

 ハワイ島への直行便はガラ空きでした。でも飛行機がガラ空きなのに気が付いたのは、もう殆どハワイ島が近くなってからの事で、白人の皆さんが自由に伸び伸びと座席で横になっていたのに、私達は2人してエコノミーの狭い座席で窮屈にちじこまっていたものです。

 ハワイ島でのホテルは、カイルア・コナよりも北に位置するプリンスホテルでした。私はハワイ島は初めてでしたので、飛行場からホテルまでの車の窓から見える景色に呆然としました。溶岩だらけで殺伐とした風景が延々と続くのです。ワイキキならあちこちに有る高級コンビニのABCストアはここには無いのだろうか。車がプリンスホテルに着きますと、ホテルの周りには何も有りません。夕食は兎も角、朝も昼もホテルのレストランしか無いのか、これは高くつくなあ等と、私はケチな事を考えていました。

 チェックインの後はホテルの前のビーチで過ごしました。夕方になって、どこで食事をしようかとホテル の案内を調べますと、3軒有るレストランのうち2軒は営業していません。結局否も応も無く、私達は1階の離れに有るレストランへ行きました。私達が着席しますとウエイターがやって来て「ジャパニーズ・メニューにしますか、現地のメニューにしますか?」と聞きますので私は「現地のメニューをくれ」と答えました。私は勘違いをしたようです。「ジャパニーズ」とは「日本食」の事だと思ったのですが、どうも「日本語の」だったようです。私は英語のメニューを見ながら想像を逞しくして前菜と魚料理と肉料理を、そして魚料理には白、肉料理には赤のグラスワインを注文しました。出てきた料理はどれも美味しく、私は妻に対して面目を保ちました。グラスワインは量も充分で味もなかなかでした。

 翌日はパーカー牧場へ乗馬をしに出掛けました。ハワイの女性と結婚したという日本人の青年が車で私達を牧場まで連れて行きます。乗馬をするのは白人のカップルと私達の4人だけでした。普段なら10人以上は集まるのでしょうに淋しいものです。カウボーイがやって来て「事故が起こっても責任は自分に有ります」という覚書に4人がサインをしますと、馬の扱い方を簡単に教えてくれます。「馬の両脇腹を蹴ると馬は前進。右の手綱を引くと馬は右へ曲がる。左を引くと左。両方の手綱を引くと馬は止まる」、ただそれだけです。こんなの、日本では考えられませんね。私は褐色の馬、妻は白い馬に乗る事になりました。

 カウボーイを待ちきれずに私は馬の脇腹を蹴って牧場の囲いの外へ出ました。乗馬は初めての体験ですが、なかなか気持ちの良いものです。やがてカウボーイは3人を連れてこっちへ来ようとしましたが、白い馬は妻をナメているようで言う事を聞きません。勝手に水を飲んだりしています。カウボーイは妻の所へ戻り、白い馬に並走して皆に合流しました。パーカー牧場は大変に広く、湿気の無い空気の中を私達は気持ちよく馬を走らせました。そしてコースが最後に近づくと、馬達は一斉にスピードを上げます。馬達はなかなか利口で、勝手にクライマックスを演出してくれ、私は落馬するのではないかと恐れました。

 馬を降りると私達は膝カックンになっていました。車の青年が「カウボーイにチップを上げてください」と言いますので、私は「あなたにもチップが必要ですか」と聞き、青年は「私には結構です」と答えました。

 翌日、私達は勝手知ったるホノルルへ飛びました。ホノルルの空港には旅行社のマイクロバスが待っていました。バスに乗りますと現地のスタッフが「バスは空港から近い順にホテルを回ります」と言いました。が、バスは私達夫婦の泊まるヒルトンホテルを素通りし、あちこちのホテルで客を降ろし、結局私達のヒルトンホテルは最後になってしまいました。ワイキキではヒルトンホテルが一番空港に近いのに。

 ヒルトンホテルでバスを降りる時に妻は「何よ、案内と違うじゃない、一体どうなってるの、なんで私達が最後なのよ」とプンプン怒り、私も「そうだ、そうだ、全くだ」と応えます。

 ホテルの部屋で私達がくつろいでいますと来客が有りました。旅行社のおじさんです。「先程は大変失礼申し上げました」と頭を下げたおじさんは「心ばかりで御座いますが」と言って私にお詫びの品を渡しました。おじさんが帰って私達がお詫びの品を見ると、それはマカダミア・ナッツでした。それも、ナッツの箱が1打(12箱)も有ります。妻が「ねえねえ、この箱を抱えているところを写真に撮ってよ」と言いますので、私は「それはちょっと違うよ」と答えました。いくら何でも12箱は多すぎる、2箱はいただいて、あとの10箱は旅行社に返そうと妻を説得して、私達はマカダミア・ナッツ10箱を旅行社へ返しに行きました。9.11以降客がバッタリ減ったので旅行社もピリピリしていたのでしょう。

 翌日、私達夫婦は私の強引な提案でガン・シューティングに行きました。1軒目のお店は火薬の量も少なく、また弾丸も小さなつまらないお店でしたが、私達にポーズを付けて記念写真を撮ってくれました。2軒目のお店は本物のピストルを置いていました。何丁かのピストルのコースが有りましたが、私はそれを無視して、「僕はベレッタとグロックだけを撃ちたい、同じ料金で撃たせてくれないか」と頼み、OKを貰いました。ベレッタは米軍の制式拳銃で、アメリカ映画でもお馴染みです。私は的の少し下を狙い、次々に命中させました。次のグロックは45口径と強力で、的に命中させる事よりも射撃する時の大きな反動を楽しみました。私達が射撃を終わって事務所へ戻りますと店員の男が「あなたはうまいね」と言いますので「トイガン(おもちゃのピストル)で練習してるからね」と私は答えました。男は「トイガンならここにも有るよ」と言います。「トイガンは要らないよ」と私が答えますと男は「キーホルダーはどうだ」と言います。弾丸を吊るしたキーホルダーです。男は「薬きょうは本物だけど弾丸は偽物だ」と言います。薬きょうのお尻にキーホルダーの輪が付けてありました。勿論火薬は入っていません。私はベレッタとグロックの弾丸キーホルダーを2個ずつ買いました。

 3軒目のお店で私は念願のM16と言う米軍のアサルト・ライフル(歩兵用自動小銃)を撃ちました。妻は「私はもういい」と言って横で見ていました。射撃しますと銃口から火薬の炎が噴出して目の前が真っ白になります。「実際の銃撃戦の時にはどうやって狙いを付けるのだろうか」と不思議に思う程でした。

 ガン・シューティングに時間を取ったので、それから私達はお土産のショッピングに追われ、結局私達はワイキキでビーチには出ませんでした。

 さて、いよいよ日本へ帰国する日になってホノルル空港へ行きますと、空港は大変な混雑でした。9.11のテロの直後だったので、乗客や手荷物の検査を厳重にやっているようです。長蛇の列を並び、私達の番になりました。係官は身体の金属検査はもとより、手荷物も全部ひっくり返して調べます。ここで私の弾丸キーホルダーが引っ掛かりました。女性の係官はこれはどうしたものかと迷って近くの男性係官と相談します。結果はOKで、私は弾丸キーホルダーを機内に持ち込む事が出来ました。今では考えられない事ですね。あまりにもテロの直後すぎて、審査の基準も出来ていなかったのでしょう。

 私達夫婦の特攻新婚旅行はこうして無事終了しましたが、ハワイ州の観光局が日本のテレビで「どうぞハワイへいらっしゃい」のCMを流し始めたのは、それからしばらく経ってからの事でした。











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大阪万博

2011年09月02日 | 日記
大阪万博

 入社して2年目の1970年、私は普通ならベテラン社員が担当する東京都台東区を担当していました。台東区の中でも上野の繁華街は激戦地で、また上野には多くの外国人経営者が居て、日本とは商習慣の違う外国人を相手に悪戦苦闘したものです。しかし上野には日本人の経営する繁盛店も有り、私は日本人の経営するスナック・ゼロというお店の部長さんに可愛がってもらいました。スナックと言っても大きな規模のお店で、うちの会社がバーボン・ウイスキーの輸入販売を始めますと部長さんは全面的に協力してくれて、アーリー・タイムズ祭りを実施してくれました。当時の外国為替は1ドルが360円の固定相場でしたので、アーリー・タイムズの小売価格は大体3500円位だったと思います。当時はバーボン・ウイスキーの味も国内ではほとんど知られておらず、いくら繁盛店と言ってもアーリー・タイムズを何ケースも販売してもらうのは大変な事でした。

 1970年は大阪万博の年でしたので、スナック・ゼロでは常連のお客さん達を対象に夜行バスを使っての大阪万博見学会を企画しました。部長さんが君も是非おいでよと言われるので私は会社に許可を貰って参加する事にしました。スナック・ゼロの営業は夜中の12時までで、夜行バスは午前2時頃に出発した記憶が有ります。集合時間までには相当時間が有ったので私は先輩にお願いして先輩の担当するお店で一緒にウイスキーを飲んで時間を潰しました。先輩と別れ、良い気分でスナック・ゼロへ行きますと、部長さんに「何でうちで飲まなかったんだ」と怒られてしまいました。

 皆が爆睡している間にバスは大阪の万博会場に到着しました。万博の見学は個人行動になりますが、私は部長さんに「私は帰りのバスには乗りませんから」と言って単独行動を開始しました。これは相当あつかましいですね。実は万博会場で私の姉が通訳の仕事をしていましたので、姉に頼んで宿泊所を確保しておいたのです。当時は万博会場の辺りのホテルや旅館はまず予約が取れず、ですから万博の期間中は民間のお家を頼んでそのお家に宿泊させてもらうという苦肉の策が出来ていて、姉が探してくれたのも、そういった民間のお家でした。

 会場では、先ずうちの会社の展示場を覗いてみました。展示場には我社のパブリシティ・ガールが多数詰めていて、それは華やかな雰囲気でした。当時の風潮として会社では女子社員は高卒を採るのが一般的で、ですから大卒で英語を話せる女性達には就職出来る職場が少なく、うちのパブリシティ・ガールにはそう言った人達を採用していましたので、それこそ才色兼備の女性達が集結していました。私の同期のYYも後にパブリシティ・ガールと結婚したものです。

 同期のYYの話では、会場にデモンストレーションとして設置されていた自動販売機のコイン投入口に、どこかのおばあちゃんが千円札を折りたたんで押し込もうとしていたそうです。自販機に紙幣が使えなかった時代の笑い話です。

 さて、パブリシティ・ガールに見とれて肝心の展示物を見損ねた私は、次にどこのパビリオンを見ようかと考えましたが、人気が有って長い行列の出来ている所には並ぶ気も無く、カナダ館とソ連館とインド館に入ってみました。ソ連館では太くて長い煙草を売っていたのでそれを買って見ました。長い煙草の半分は中が空洞の硬い紙で、残りの半分に煙草が詰まっています。気候の寒冷なソ連では分厚い手袋をしますので、手袋の幅だけは煙草を入れてももったいないという発想ですね。インド館ではネクタイを買いました。華やかな色のサイケデリックな模様で私は気に入ったのですが、色と模様が余りに派手な為、結局私は後に仕事でそれを使う事は有りませんでした。

 夕方になって私は宿泊の為に民間のお家を訪ねました。お家のご夫婦に挨拶をしますと私が今夜泊めていただく部屋を教えてくれます。そしてこのお家には私の他にもう1人、東京からのOLさんが泊まるのだと言います。部屋の間取りはお風呂場、私の部屋、そしてOLさんの部屋と並んでいました。

 私が部屋でくつろいでいますと、お風呂を出たOLさんが裸体にバスタオルを巻いて、「あら、嫌だわーん」と言いながら私の部屋を通り抜けて行きました。ちょっと待って、これって、誘惑ですよね。お風呂場で着替えて来れば済む事ですから。まあ、お家のご夫婦がおられる訳ですから間違いは起きないのですが、妙な気持ちにはなりましたね。

 さてさて、日本の歴史に残る大阪万博では有りましたが、私にとって一番記憶に残ったのは、あの、バスタオルのOLさんでした。まあ、歴史って、そういうものです。そうそう、あの頃はOLとは言わず、BG(ビジネス・ガール)と呼んでいました。

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