ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

後期高齢者運転技能教習

2024年09月21日 | 日記
後期高齢者運転技能教習

 自動車の運転免許更新の為の技能教習を自動車教習所で受けて来ました。いつもは12時に寝て8時半に起きますのに教習は8時30分開始と有りましたので前夜は11時に寝て6時に起き、眠い目をこすりながら妻の運転する車で教習所へ送って貰いました。教習の内容は2つ、運転実技教習と視力検査でした。今日の受講者は8名の高齢者と何だか少な目、教習予約の取り方が難しかったのでしょうか。

 実際の運転は教官の見本運転のあとすぐに私でしたが運転はすいすい、気持ち良く走れました。以前は無かった段差登り(段差に前輪をつけて停止、アクセルを踏んで段差を登るとすぐにブレーキを踏んでストップ)も楽にクリア。そして3年前には有った車庫入れは今回は有りませんでした。あの時は皆さん失敗、教習では無く試験だと思って皆さん緊張されたのでしょうね。さて教官の私の運転の評価はよろしい、強いて言うならばウインカーはもう少し早めに、そして左折の際に少し膨らみすぎ、でした。

 次に教習室に戻って目の検査。以前2回の検査結果が私のFacebook に残っていましたので並べて書いてみましょう。

今回2024年(78才直前)
静止視力:0.9でやや優れている
夜間視力:0.3でやや優れている
動体視力:0.5で30~59才平均に相当
視野測定:155°で年齢的には平均のやや上

2021年(75才直前)
静止視力:0.8
夜間視力:0.3
動体視力:0.2
視野測定:180°

2016年(70才直前)
静止視力:1.0
夜間視力:0.3
動体視力:0.5
視野測定:170°あたりで40才代

 こうして見ますと年を取っても視力にはあまり変化は無いようですね。変化が有るのは筋力?

 無事に教習も終わって費用は8,000円(前よりずいぶん高い)でしたが8,000円をおつり無しで払ったのは私だけ、他の7名は1万円札を出してお釣りを貰っていました。また教習室を出る時に教官に「有難うございました」と挨拶をしたのも私だけ、皆さんそそくさと出て行きました。やはりこういう事はピシッとしましょうね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様にお願い

2024年09月14日 | 日記
神様にお願い

 日本には学問の神様を祀る神社と言うのが有りまして、受験シーズンになりますとそこにお参りをする受験生やその保護者達が「どうか私が受験に受かりますように」とか「うちの息子(娘)が試験に合格しますように」等と神様にお願いをします。また宝くじを買っても「1等賞に当選しますように」とついお願いをしてしまいますね。しかし神様はそれらのお願いを叶えてくれるでしょうか。受験生全員が合格祈願をし、また全員が宝くじの当選祈願をした時に神様がその全てを叶えますと受験生全員が試験に合格し、また宝くじを買った全員が1等賞に当選する事になりまして、そもそも入学試験制度の前提は崩れ、また宝くじ販売の胴元は破産と言う事になりまして宝くじ自体が意味をなさない事になります。そもそも1個人対神様と言う設定が間違っていましたね。神様は全ての人に光を与えます(合格でも1等賞でも無く)。

 もっとお話を大きくしまして、世界中の人が神様にお願いをするとどうなるでしょうか。地球上には80億人が生活しているそうでして、それらの人達の利害は相反する事が多いようですから、神様が80億人のお願いを聞きますと、結局のところは世界の現状に帰結してしまいますでしょう。

 ウクライナはそもそもロシアの一部だ、いや、ウクライナは独立国家だ。ハマスを全滅させるまで戦おう、いや、イスラエルと言う国家が消滅するまで戦うのだ。神様が両方の主張(お願い)を聞ける訳が有りませんね(ヤハウェVSアッラー?馬鹿を言ってはいけません)。

 しかしそれでも人々は祈ります。神様にお願いをします。これはどう言う事でしょうか。

 どうもここには根底に宗教と信仰の違いが有るようです。

 宗教とは自己の探求(Who am I ?)であり、そして信仰とはその自己の探求を神様にお預けする事でしょう。これを日本の仏教で言いますと禅宗が宗教で浄土宗が信仰と言えるようでして、キリスト教もその信仰に相当するでしょう。

 自己の探求は大変難しく、そのどうにもならない事を神様にお預けしてしまう。そしてお預けしてしまう事でひとときの心の平安に浸る。

 一方、日々の生活で一生懸命努力はしました、しかし結果がどうなるかは分からない。その時に神様にお祈りしお願いしてどうにもならない結果については神様にお預けしてひとときの心の安らぎをいただく。神様へのお願いにはそんな効果が有るんでしょうね。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

始めに言葉有りき

2024年08月31日 | 日記
始めに言葉有りき

 世の始めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの1つもない。この方は命を持ち、この命が人の光であった。この光はいつも暗闇の中に輝いている。しかし暗闇のこの世の人々は、これを理解しなかった。そこで1人の人がこの世に現れた。神から遣わされたのである。その名はヨハネ(このヨハネはバプテスマのヨハネでしょうね)。 ヨハネ福音書(岩波クラシックス 新約聖書 福音書)

 私は「始めに言葉有りき」の文言だけを憶えていまして、それはそうなんだろうねと思っていました。しかし最近、おや?と思い至ります。

 言葉は人と人のコミュニケーションに使うもの。ですから言葉よりも先に何かが有る筈、だから言葉が最初じゃ無いよね。では言葉よりも先に有るものとは何?まず言葉よりも先に記憶が有りますよね。人は記憶を言語化して家庭や社会で人に伝えようとしますでしょう。言葉を持たない犬だってご主人の顔や声や雰囲気を記憶していて、それでご主人に懐きますでしょう。記憶が言葉よりも先ですよね。では記憶よりも先に有るものとは何?それは認識ですね。認識の主観は認識の対象を認識し、そこで認識の表象を作ります。そして認識の表象を記憶し、それを更に言語化して家庭や社会で人に伝えます。ですから

 認識→認識の表象→記憶→言葉、の順でしょうね。

 それではどうして「始めに言葉有りき」となっているのでしょうか。これを翻訳の問題とするならば。

 「言葉(ロゴス)」を「意識」に置き換えるとどうなりますでしょうか。

 世の始めに、すでに意識はおられた。意識は神とともにおられた。意識は神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの1つもない。この方は命を持ち、この命が人の光であった。この光はいつも暗闇の中に輝いている。しかし暗闇のこの世の人々は、これを理解しなかった。そこで1人の人がこの世に現れた。神から遣わされたのである。その名はヨハネ(このヨハネはバプテスマのヨハネでしょうね)。 これでだいぶん分かり易くなりましたね。

 ヨガでは解脱体験をしますと、それは真っ白な光であり、またその光を見る者です。それをサット(有る事)チット(有る事を知る事)アーナンダ(有る事を知る事で湧き上がる歓び)と表現します。そこで先程の「意識」を「霊性」と置き換えても良いでしょうね。

 ヨハネ伝、その「始めに言葉有りき」の「言葉(ロゴス)」を「意識」に置き換えますとそれはそのままインドのヴェーダーンタ思想になります。ヴェーダーンタ思想では意識(ブラフマン=アートマン)だけが実在し、意識が心を作り心が世界を作ると言います。

 結局、宗教はひとつなんですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失楽園?

2024年08月17日 | 日記
失楽園?

 旧約聖書の創世記に有るのだそうですが、原初の人間であるアダム(男)とエバ(女)は蛇に騙されてエデン(歓喜)の園に生えている(善悪を知る)知識の木、その木の実を食べ、お互いが男女であることを知り、恥ずかしさの余りイチジクの葉で陰部を覆ったと言います。これは性欲を覚えたと言う事なのでしょうが、それが人間の原罪であるとして2人はエデンの園を追放されたと言います。ここで原罪とは(知識の木の実を食べるなと言う)神の命令に背いた事なのか男女の別(SEX)を知った事なのか分かりませんが、まあ、性欲を覚えたと言う事なのでしょう。しかしこれが善悪の悪?そして罪?

 食欲も性欲も神に与えられた本能でしょう、それが罪とは如何なものでしょうか。最近思うのですが食欲と性欲と良い睡眠の3つが人生の根本でして、その根本を罪として否定するなんてひどい話ですよね。性欲の抑圧を主張するヨーロッパのキリスト教(イエス・キリストでは無く)や精神分析、これは間違っていますね。

 翻ってインド思想はどうでしょうか。ヨガの哲学であるサーンキヤ哲学ではプルシャ(霊性、意識)とプラクリティ(現象世界)の2つが世界を構成します。ここでプルシャは男性名詞、プラクリティは女性名詞だそうです。人間の心も体も環境世界も全てプラクリティ(女性)の範疇に入り、そしてそれとは全く別にプルシャ(男性)が有ると主張します。このようにインド思想では男性と女性の両性が世界を構成します。そしてそれは決して罪なんかでは有りません。

 女性であるプラクリティ(現象世界)は男性であるプルシャ(霊性、意識)に対してダンスを踊って見せて「あなたはプラクリティ(現象世界)では無くプルシャ(霊性、意識)なのよ」と教え、プルシャ(霊性、意識)がそれを理解したところで解脱に到ります。そうしますとサーンキヤ哲学ではプルシャ(霊性、意識)が主演男優でプラクリティ(現象世界)が助演女優で有ると言えますね。

 そしてサーンキヤ哲学はタントラへと発展するのですが、タントラにはシャクティ信仰と言うのが有ります。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したものです。シャクティをクンダリニーとも言いまして、クンダリニーは人体の1番下のチャクラに眠っていまして、クンダリニーが目覚めますと7つのチャクラを突破して上昇し、頭のてっぺんに居るシヴァ(シヴァ神、男性)と合体し、そこで恍惚が実現します。そうしますとタントラではシャクティ(女性パワー)が主演女優でシヴァ(シヴァ神、男性)が助演男優になっているようです。

 さて、インドの3大思想と言えばサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想と仏教でして、ヴェーダーンタ思想にも仏教にもプルシャ(霊性、意識)やプラクリティ(現象世界)と言う概念は無いのですが、その思想を説明する時にはサーンキヤ哲学の用語を駆使します。ですからインド思想では男性と女性の両性が世界を構成するのだと言っても間違いでは無いでしょう。

 ちなみにサーンキヤ哲学はプルシャ(霊性、意識)とプラクリティ(現象世界)が世界を構成すると言う二元論ですが、ヴェーダーンタ思想はブラフマン(梵、個人に内在する時にはアートマン、霊性、意識)だけが実在すると言う一元論、そして仏教は霊性も現象世界も実在しないと言うゼロ原論です。

 ところでインドの神様はだいたい男女のペアになっていますね。シヴァ神にはパールヴァティー(別名ドゥルガー、カーリー、ウマー)、ヴィシュヌ神にはラクシュミー、ブラフマー神にはサラスヴァティー、ラーマ王子にはシーター、クリシュナにはラーダーといった具合です。こんな宗教が他に有りますでしょうか。

 私は本能を善悪の悪、罪とする考えには納得出来ませんで、インドのサーンキヤ哲学こそが世界の構成を説明する1番の思想だと思っています。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教習所の予約

2024年08月10日 | 日記
教習所の予約

 運転免許更新の為の認知機能検査が終わりましたので次は自動車教習所での高齢者講習になります。3年前の初回には講習の予約を取るのに大変な思いをしました。最寄りの教習所に電話で予約を入れるのですが予約は毎月5日の午前9時からになっていました。認知機能検査の会場で貰った教習所のリストで最寄りの教習所の予約専用の電話番号に電話するのですが、その時は8月5日の午前9時に電話を掛け始めましたが電話が大変混雑していて何度掛けてもお話し中、途中から妻にも参加して貰って掛け続けましたが夕方の遅くにやっと繋がったと思ったら「本日の予約受付は終了しました。次は9月5日の午前9時からです」のアナウンス。10月の予約が9月5日ですから次の10月の予約が取れないと私の誕生日は11月ですから後(あと)が無くなってしまいます。ですからそれからの9月5日までの1か月は重たい気分が続きましたね。

 9月5日、午前9時に再び電話を再開、そしてやはりお話し中は続きまして、しかし今度は夕方に電話を取ってくれ、やっと10月の講習の予約が取れたのでした。嫌だなあ、今回もまた同じ思いをするのだろうか。

 8月5日より少し前に、試しに教習所の予約専用の電話番号に電話をしてみましたら「予約は終了しました。次回は8月5日の9時から受け付けますのでPCで予約して下さい」のアナウンス。えっ、予約はPCで?前回は電話予約でしたので不思議に思い、教習所の代表電話を調べて掛けてみますと「電話でも受け付けますがまず電話では予約が取れません、PCで予約して下さい」と言われました。まあ、PCのほうが待たされずに済むか。

 8月5日、午前9時前にPCで「教習所 高齢者講習」を検索しますと「予約は終了しました。次回は8月5日午前9時からです」の表示が出ます。そうか、9時になると受付画面に変わるのか。と思っていたら9時を過ぎても画面が変わりません。一旦ネットを閉じて再度立ち上げましたが画面はさっきのまま。うわあ、まずい。私はGoogle で検索していましたのでYahoo に変えてみましたがやはり同じ画面しか出ません。これはまずい、このままでは予約が出来ないよと焦っていますと妻が私に声を掛けます。妻はMSNで検索していたのですが、妻のPCには予約登録の画面が出たのです。(あとで分かったのですが、これはGoogle でもYahoo でもMSNでも無く、「教習所 高齢者教習」では無く「教習所 ホームページ」から入るべきでした)。

 妻のPCの前に座り必要事項をどんどん記入して行きますと最後に「登録が済みました、予約出来ます」の文字が現れました。しかし、予約の画面に移行出来ません。ここで行き止まりか、どうしよう。すると、ふと以前に電話した教習所の代表電話を思い出しました。試しに掛けてみますと女性が電話を取ります。ネットで登録を済ませたのですが予約の画面が出ませんと言いますと「もとのホームページへ戻ってもう1度やって下さい」と言います。有難うございますと電話を切ってホームページに戻りさっきと同じ作業をしますと再び「登録が済みました、予約出来ます」の表示しか出て来ません。参ったなあと参っていますと妻がもう1度さっきの所へ電話してみれば?と言います。そうだね。電話をするとさっきの女性が電話を取ります。

 事の次第を話しますと、今度は丁寧に教えてくれました。
 ①教習所 ホームページで検索。
 ②ホームページの1番上の行をクリックすると次の画面が出ます。
 ③画面右上の高齢者予約、予約・確認・変更をクリック。
 ④上から2番目の、高齢者前回、免許証番号の入力までお済の方をクリック。
 ⑤免許証番号を入力。
 ⑥カレンダーが出るので希望の日時を選んで予約。これで完了。

 ここでやっと9月の講習の予約が取れまして、有難うございますと言って電話を切りましたが、予約は取れましたが何だか釈然としません。他の皆さんはPCで予約が出来ているのだろうか。何と言っても講習の対象は後期高齢者ですよ。PCの無い人も居るでしょうし、PCが有っても、とても独りで最後まで行きつけるとは思えません。

 私がラッキーだったのは妻と2人で検索した事と教習所の代表電話を控えていた事のふたつ。これが無ければアウトでしたね。

 次の高齢者講習は3年後になりますが、それまでに予約システムを改善していて欲しいものです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする