雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 9月5日(火) 9月で少し涼しい

2017年09月05日 21時52分50秒 | 雨宮日誌

 雨宮日記 9月5日(火) 9月で少し涼しい

 涼しくなって、もうセミは鳴かない、このあたりでは。また、来年。それまで、セミさん、さよなら。

 夜は、もうコオロギたちの協奏曲の世界。

 コオロギたちの鳴き声を背景にして、ボクはラフマニノフの協奏曲2番を毎晩、聞く。

 夜は半ズボンではなく、長ズボンに変える。涼しさ・暑さの変動に、うまく適合するのは難しい。

 日米共同演習(オリエントシールド2017)反対「9/3御殿場集会」のビデオを編集し始める。鳴いているのがミンミンゼミで、なつかしい響き。

 この辺(曳馬地区)では、アブラゼミとクマゼミしか、いないから。

 台地の上へ登れば「おーしんつくつく」が鳴いているし、田舎へいけば「かなかな」が鳴いているけど。

 まだアイスクリームがおいしい。

 普通な左足の小指を、どこかでぶっつけて内出血する。少し痛む。

『落葉松』「文芸評論」 ⑯ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 3」

2017年09月05日 20時53分35秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑯ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 3」

 Ⅲ 4 雪膓と子規 ー浜松詩歌事始 前編 【その3】


 「歌よみに 」を発表する前年の九月頃、子規は腰背骨近くに二ヶ所穴が開き膿汁が流れ出て歩くことが出来ず、這って縁側に出る仕末であった。庭には草花が繁り、へちまのつるが柵に巻きついていて延びていた。『仰臥漫録』に子規の絶筆となったへちまの柵のスケッチが描かれている。庭は子規にとって「写生」の具となった。

 もともと「写生」の語は絵画の言葉であるのを移して、文芸の上の用語としたのは子規であると、茂吉は「写生ということ」(『アララギ』大正八年一月号)で述べて「実相に観入して自然・自己一元の生を写す。これが短歌上の写生である」という定義を与えた。(『アララギ』大正九年九月号「短歌における写生の説」)。

 子規の「写生論」は新聞『小日本』の挿絵画家となった中村不折との出会いから始まる。不折は小山正太郎の画塾「不同舎」で西洋画を学んだが、小山は浅井忠と共に工部美術学校でイタリア人画家アントニオ・ファンタネージ教授から西洋美術を学んだ。不折を子規に紹介したのは浅井忠であったが、浅井は根岸の住人だったので子規と何等かの縁があったのであろう。子規は不折から西洋美術を学び「写生」の重要性と写生の材料は無限に発見でき、文学作品への活かし方を知った。不折との出会いは二十七年三月であった。(注⑫)

 「夕餉(ゆうげ)したため了りて仰向き寝るが、ふと左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり、艶にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしぬばるるにつけてもあやしくも歌心なん催されける。

  瓶にさす藤の花ぶさみじかければ
      たたみの上にとどかざりけり」
  (『墨汁一滴』三十四年四月二十八日、            連作十首の頭歌)

 この歌は病める子規だけに許された視点からスケッチ(写生)したものであった。粟津則雄(あわづのりお)が「子規が間近に迫った死の予感を二重写しにしていたのかも知れぬ」(岩波書店『図書』一九九六年二月号「藤の花」)と言っているように、子規は藤の花ぶさの短き先端と畳との間の(健常者には感じ取れることの出来ない)空間を凝視して自身の持つ鋭い感性と相俟って自分の余命の時間をするどく感じとった。

 雪膓は(後編で述べる)俳句、短歌、自由端かと生涯において変転目まぐるしいものがあった。
 百合山羽公が「雪膓に初めて会った時、県下の有名俳人であった筈なのに、アララギ派の歌会の指導者になっていた。大正一四年の春のことである。いつから竹の里人の歌の流れに没頭したのか私にはよくわからない」と述懐している(『短歌』昭和五十七年六月号)。

 私の亡母の籍は伝馬町で正岡姓であったが、松山に「正岡会」があり四年毎(オリンピックの年)に大会を開いている。今年(平成二年)七月の第二回大会に、甥が(母の弟の長男)夫婦で参加した。伊予の正岡氏一族は、天正十三年秀吉の四国攻めで全国に散らばったといわれ、現在約二千人の正岡姓がいるが、松山に約二百人、浜松は母の親族関係の四名のみである。今年の大会には百余名集まったそうである。子規の家系は、松山藩士で父は御馬廻番役だった。子規で七代目である。

 第三回根岸短歌会(三十二年四月十八日)における子規の歌。

かりそめの病の床に就きしより
     四年になりぬ足なへにして

 二十八年の日清戦争従軍の帰りの船上で喀血してから半病人の体であったが四年経った。更に三十三年八月十三日の朝、大喀血して子規庵での歌会の続行は不可能となり、麓・左千夫宅で三十四、五年子規没するまで行われた。三十四年の春になって寝返りも出来なく顔も自分で拭くことが出来なかった。躰を動かす度にウンウンと呻きの声を漏らす子規はどんな風に唄を選ばれたのだろう。

 「先生は頭を枕にぴったりつけて横になっていられる。母堂や令妹が枕許に座して、先生は寝ながら唄稿を見て居て筆を左の手に持ち、抜きの歌に点をつけるのである。勿論抜いた歌は令妹が写す。一枚見ては呻き、二枚見ては呻き、筆を措いて中途でやめてしまふ事も幾度あるか知れない。竹の里人選歌の三分の一といふものは、以上の如き状況にあって選べれたものである。」(『左千夫歌論抄』、岩波文庫、百十一ページ「竹の里人」)

 繃帯取換の仕事は妹の律の仕事であった、
 「母はガラス戸に窓掛を掩ひ、襖をことごとく閉め切って去る。余は右向きに臥し帯をとき繃帯の紐をときて用意す。繃帯は背より腹に巻きとるもの一つ、臀を掩ひて足につなぎたるもの一つ、二つあり。妹は余の後にありて、先ず臀のを解き膿を拭ふ。臀部殊に痛み烈しく、綿をもてやわらかに拭ふすら殆ど耐え難し。若し少しにても強くあたる時は死声を出して叫ぶなり。次の背中の繃帯を解き膿を拭ふ。ここは平壌は痛みなく膿を拭はるるは寧ろ善き心地なり(中略)。ある時、余は鏡にうつして背中の有様を窺わんと思ひ妹にいふに妹しきりに止めて聞かず、余は強いて鏡を持ち来らしめて写し見るに、発泡の跡、膿口など白く赤くして、すさまじさ言わんやうもなく、二目とは見られぬ様子、顔色を変えて驚きぬ(後略)」(注⑬)

 九月十八日、朝から容態が悪く痰が切れず、医師を呼ぶ。羯南来る。碧梧桐が呼ばれる。「高浜も呼びにおやりや」と子規が言う。

 十一時頃、碧梧桐と律の介添えで画板に張った唐紙に俳句三句を記す。中央に
    糸瓜(へちま)咲きて痰のつまりし仏かな
と書き筆を投げ、咳をし痰を取る。四、五分後、左へ

  痰一斗糸瓜の水も間に合わず

と書して筆を捨て、更に四,五分を経て

  をとといのへちまの水も取らざりき

と書して筆を投げる。(子規、最後の力を振りしぼって出したか)。穂先が白い床を少し染める。この間、終始無言、子規昏睡に入る。時々うなっていた子規が静かになった。

 母八重が手をとると冷たく「のぼさん!のぼさん!」と連呼する。仮眠の虚子、律も目覚めて側に寄る。熟睡しているように見えるが、手は冷たく額に微温を残すのみとなり、ここに子規永眠する。時に明治三十五年九月十九日午前一時。

 左向きに傾き、床に斜めに脚をはみ出している子規を、八重と律が真っすぐに仰臥させる。肩を起こさんとしつつ母八重が落涙と共に強い声で「サア、もう一度痛いというてお見」と子規に声をかけた。(注⑭)

 子規も無念であったろう。俳句より出発して三十五年の生涯に二万三千余句の俳句を作った子規は、「歌よみに与ふる書」で短歌革新もしたが絶筆は「へちま」の三句となり俳句に帰心した。根はやはり俳人だったかなと思うのは間違いであろうか。
 戒名は子規居士。

 雪膓は追悼句として次の二句を子規の墓前に捧げた。

  終焉を記す二高足二途の秋
  わがうらみいや白し銀河とこしへに

 注① 『子規全集⑱巻 書簡(一)』講談社、      昭和五十年
 注② 土屋文明編『子規歌集』岩波文庫、
      昭和三十四年
 注③ 『病状六尺』百十、岩波文庫、昭和二
 注④ 『谷島屋タイムス』大正十一年~昭和      十三年、全百七号
 注⑤ 『谷島屋タイムス 45号』大正十四      年九月号
 注⑥ 「日本」明治二十八年一月一日号 
 注⑦ 『仰臥漫録』明治三十四年九月二三日
 注⑧ 『浜松市民文芸 第十三集』「梅沢墨      水」
 注⑨ 『子規全集 第十六巻(俳句選集)』
      講談社
 注⑩ 明治十一年刊行の木板本ー文明説
 注⑪ 『歌よみに与ふる書』岩波文庫、
      p139
 注⑫ 松井貴子「子規と写生画と中村不折」      (『国文学 04年3月号』)
 注⑬ 『左千夫歌論抄』岩波文庫、p111
 注⑭ 『子規全集 二十二巻(年譜・資料)』
       講談社