特別企画みたいな感じです。↑バトル勃発か!
その他にも↓いろいろ特別企画がありまっせ!
「や~きいも~、い~しや~きいも~」
最近、家の近くを石焼き芋の車がよく走っています。秋ですね~。
私はどちらかって言うと焼き芋より、油で揚げて糖蜜をからめた大学芋の方が好きなんやけど、今まで家で何回か作ったんやけど、どうもうまいこと作れへん。出来上がりはええ感じなんやけど、冷めると糖蜜のパリッとした感じが無くなって、砂糖の結晶が浮いてきておいしないねんな~。揚げサツマイモの砂糖あえみたいになってまう。誰かコツみたいなん知らんかな~。
まぁ、そんな話今日の記事とは関係ないんやけどな。
で、今日はタイトルのとおり、創価学会の焼き芋と・・・・・チャウチャウ、間違い。
え~、イッちゃってる学会員さんでは無い人とお話してみましょうと言う企画をスタートしました。
その名も「「教えて!nana・・・以外の人」
アンチ創価のブログとして立ち上げた「創価学会からの奪還」なんですが、学会員さんの人もよくコメントに書いて下さいます。まぁ、ブログ立ち上げた時からイッちゃってる学会員さんも書き込むやろな~って思ってたけど、今の所イッちゃってる人の連続投稿はnanaちゃんだけやし、思ったより平穏ですね。
で、nanaちゃんといろいろ「教えて!nana」でやりとりしてたんやけど、やっぱり話が最後まで噛み合いまへんでした。nanaちゃんなりに一生懸命答えてくれたんやけど、どうも私には何を聞いても「学会は素晴らしいんです~!」にしか聞こえへんかった。
まぁ、nanaちゃんにしてもそんなふうにしか思われへんのは本意やないと思うけど、現実そう思ったんやから仕方ないわな。そう思った人多かったんと違うかな~。
ほんで、今回は仕切りなおしと言うことでイッちゃってない人と有意義なお話が出来ればええと思ってます。
細かくルール作ってしまうと、話が狭まってしまったり本音で語り合えへんので、ルールは簡単にします。
ルール
・タイトルどおりnanaちゃんには遠慮してもらいます。会話にならないイッてる学会員さんもご遠慮願います。会話になるならバリバリさんもOKですよ~。
・罵倒合戦や暴言を吐くのは止めましょう。
↑これだけ。シンプルでええでしょ?
私は宗教、政治、思想が違う人どうしが、話するんやから批判や反論は大いにええことやと思ってますねん。時には熱くなることも必要かなって。前回の「教えて!nana」は、なんか質問する人に気を使わせてしまって、便秘みたいな感じやったからな~。
ほんじゃあ、最初は私から軽~く話を切り出しますね~。
「勧誘するなら○○○食え!」にも書いたんやけど、「信心してるから幸せ」とか「信心してないから不幸」「この信心はすごい」みたいな話を学会員さんはよくしはるんやけど、まず「信心」について。
私みたいにアンチ創価の前に宗教嫌いな人間からしたら、「信心=信じる心」やから、「信心」って言葉を使ってなにやら説明し始めた時点で、もう???なんやけど、学会員さんにとって「信心」って何ですか~?
いちおう辞書で調べるとやね
しんじん【信心】
―する
「信じる4」こと。また、信じて疑わぬ気持。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
って書いてあったから、上に書いてある事をそのまま訳すとやね
「信じて疑わへんかったら幸せ」
「信じひんかったら不幸」
「信じて疑わへんかったらすごい」
になるんやけど、なんかどれも納得できひんっていうか、説得力ないんやけど。
それに、創価瓦解さんもコメントに書いてくれてはるんやけど
*****以下引用*****
なんでも信心に結びつけてもねえ (創価瓦解)
学会員との話でよく不思議に思うことがあります。
それはあきあこさんの義母さんのように「信心してるから○○」「信心してないから○○」ということを、なんの説明もなく言う学会員が多いことです。
同様に、平気で専門用語を使ってよく話をします。
基本的な疑問:相手は学会に協力的でもなければ仏教知識もないという認識がどうしてできないのか?
*****以下省略*****
って、書いてくれてはるんやけどそのとおりやと思います。
さぁ、のんびりいきましょう~~!
わめもバリバリ学会員さんでは無い人だわw
だめかしらん
できないのか?
そんなことかまいません。やらせるのみですから
大体、このオカマ、いえオカルトやるのは理屈じゃない。身体で感じて体感してもらえばよい。
本人達も説明の仕様がないんです。
りんごまずいかどうか食ってみなきゃワカランだろ!!オリャーどうや-食ってミー
と言う具合なのです。
私も、説明できませんでした。身体で証明しなくっちゃと、いつも学会スマイル
心はいつもノー天気、
どんなことでも信じてました。学会信心を。
毒りんご食わせてしまえばあとはマインドコントロール、だから会員全員パターンが同じなのです。
>学会員さんにとって「信心」って何ですか?
本尊、池田氏を曇りもなく信じきることです。
本尊とは、日蓮大聖人様のお命そのものです。
傷つけた場合、自分の命もおびやかすと信じています。紙一枚が命の重さなのです。
日蓮大聖人の御遺命を実践するのは唯一
創価学会であると豪語してます。
日蓮大聖人の仏法を広げる事が唯一の使命
法華経を(学会の場合、本尊のニュアンスが強いです。)
捨てたら地獄であると日蓮さんの言葉を、インプットしています。
あきあこさんこんなもので宜しいのでしょうか?
参加させんと、信徒のイケイケバリ女史を乱入させよかな?
コメントありがとうございます。
>そんなことかまいません。やらせるのみですから
大体、このオカマ、いえオカルトやるのは理屈じゃない。身体で感じて体感してもらえばよい。
本人達も説明の仕様がないんです。
りんごまずいかどうか食ってみなきゃワカランだろ!!オリャーどうや-食ってミー
いきなり、強烈ですね~。って言うことはですよ、私の「創価学会ウ○コ論」もまんざら間違いではなかったことになりますね。
あややさんの説では学会の「信心」とはス○○ロプレーか覚醒剤かってとこですね。
やらないと、そのよさは分からない(分かりたくない)ですからね。私は嫌ですけど。
学会員さんから反論きそうな予感・・・
そうそう「本尊」ちゅうのも実はよく分かってないんです。
私が思ってたのは仏壇の中に掛けてある、ミミズが歩いたあとみたいな掛け軸ですよね?
なんであんなもんに向って陰気臭い歌を歌うのかよう分からんのです。
私にとってはあの掛け軸なんて美術的価値もなさそうやし(まぁ、すごく高価な水彩画と安もんの水彩画の違いもわからんけど)、便所紙と同じレベルなんやけど。便所紙は役にたつか~。
まぁ、便所紙拝むのが創価学会じゃ~!って言うんやったら、あ~そうですか~って感じやけど。
>本尊、池田氏を曇りもなく信じきることです。
本尊とは、日蓮大聖人様のお命そのものです。
日蓮=本尊=池田・・・役にたたない便所紙?
やっぱり私には学会の「信心」が理解できひんな~。
>拝 一刀斎殿
あおっちゃダメですよ!薬も飲まれてるんですから。nanaちゃんには討論とか荷が重過ぎるんです。
自分の方のブログで、自分で自分に出した宿題あるので、そっち終わらないと、中々時間とれないので、ささっとなのですが・・・私の場合でです。
>基本的な疑問:相手は学会に協力的でもなければ仏教知識もないという認識がどうしてできないのか?
私は認識しています。
なので、リアルで仏法について聞かれる場合も、ネットで仏法用語を入れてブログの記事等を書く場合も、ほしのしずく☆用語?みたいな感じで書いていますし、話をします。
我見なのですが、なるべく分かりやすく・・・と思っているので、そんな感じで話をしますし、ブログで仏法用語出す場合は、読み方&意味を、なるべくのせる感じでやっています。
協力的じゃないのは、当たり前と思っています。
人間、お一人お一人が違いますし、学会に対する認識も好意も、バラバラで当たり前と、私は思っています。
学会員は、それを認識すべきとも思います。
特に、妄信の方々は。
認識している学会員の方々もいると、思いますよ。
・・・妄信の方が目立ちますが・・・。w
>学会員さんにとって「信心」って何ですか~?
信心は、私にとっては、”きっかけ”です。
信心は魔法ではありません。
目的が、人生の山を登るとすれば、ロッククライミングをするとしたら、まず大事なのは自力です。
自分の努力です。
でも、ロッククライミングでは、ロープや岩に引っ掛けるものを使ったり、そして、足を置く岩場が必要になります。
それらがなければ、宙ぶらりんになるし、登頂するまで、かなりの時間と労力を必要とします。
だから、信心なんです。
祈れば叶う・・・つまり、最終的には、自分で納得する形になるという意味で、祈りが叶うのだと、私は解釈していますが、私にとっては、ロッククライミングでの道具&岩場のように、信心はきっかけです。
自分の努力がなければ、だめだと思っています。
だったら信心なんで、いらないじゃないか・・・と言われると思いますが、信心をする事で、エネルギーもわいてきて、努力するための力もわきます。
また、ここは証明出来ないので、聞き流してください。
功徳も感じ、その都度助けられた、という諸天を、私は感じてきました。
なので、信心をしています。
私は、内得信仰(ないとくしんこう・・・反対されている方や、入会前の体験版としての、曼荼羅のない個人信仰の事です。)を長い間してきたので、肉団のご本尊(にくだん・・・人間の中には、十界を含んだ生命があり、はしょりますが、つまり、人間の中にもご本尊と同じものがあるとされています)で信心をしてきましたので、最後は、肉団にいきつきます。
ずっと、母方の祖母宅にあるご本尊を思い浮かべ、東の方角を向き、時には大石寺の方角を向き、祈ってきました。
ものすごく精神力がいります。
ご本尊様を思い浮かべながら祈るからです。
入会し、ご本尊様を頂いた今は、目の前のご本尊様を見て、集中して祈るだけなので、雑念もわかず、とても楽です。
祈りの時は、胸の周囲の感覚が変わりますので、とても心地いいですよ。
この感覚出るようになったのは、小4の時でした。
それ以来、祈るたびにそうなります。
パーンッと、自分の中がはじけて以来そうなります。
最近ある方にお聞きしましたら、それは宿業が切れる音だそうです。
(すみません、信仰を信じていらっしゃらない方々は、こういうのは、読み飛ばしてください・・・汗。)
信心は、自分を磨くものです。
祈る事で、仏知恵がわきます。
自分を振り返る事が出来ます。
祈るたびに、自分の事で、気がつく事がたくさん出てきました。
私にとっては、自分と向き合って向き合って向き合う作業でもあります。
自分対ご本尊様、です。
ご本尊様=自分の命でもあります。
表裏一体だからです。
ご本尊様を粗末にするという事は、=自分を粗末にするのと同じ事です。
ご本尊様を破くという事は、自分の生命を破く、というのと同意です。
ですから、それで何かある場合は、罰が出たとかではなく、自分で自分を傷つけたのと同じなんです。
ちなみに、私もご不敬はしていると思います。
3歳の記憶でおぼろげなのですが、父に命じられ、5センチほど、ご本尊様を破いているはずです。
その後、頭部に血だらけの怪我をし、縫い後が今でもあります。
父はご本尊様をびりびりに破き、焼却処分をしていますが、やっぱり、私と同じ場所を怪我をし、縫い後があります。
大病も続きました。
後でね、信心を小1で始めてから、ご不敬の意味を知った私は、かなり長い時間、苦しむようになりました。
信じている者にとっては、知らなかったとはいえ、ご不敬した・・・という罪の意識残るんですよ。
今では、どんな謗法(ほうぼう・・・やってはいけない事)でも、必ず消えると分かりましたので、やっと罪の意識からは開放されました。
父の事も、ご不敬の結果なのかなと思っていた時期がありましたが、それはとても父に失礼な事ですので、今では、そういう事に関しては、”自分に対して”だけ思っています。
私にとっての信心は、色んな意味があります。
生きていくための柱です。
他にも想いがあり、説明しきれないです・・・。(^^;)
そこには、組織とか、そういうのは関係ないです。
自分とご本尊様の、感応(かんのう・・・共鳴のようなものです)があるだけなので。
非会員の方々にお願いです。
生理的な嫌悪感あるとも思いますが、ご本尊様を無理やりに奪い取り、処分する・・・というのは、どうかしないでくださいね。
同じなんですよ。
誰でも大事にしているものを、処分されるのはショックだと思うんです。
また、「ご不敬されてしまった・・・。」と、信心をなさっている方は、トラウマになるはずです。
現に私がそうでした。
たった3歳の記憶なのに、後に信心をするようになり、本当に苦しんだんです。
この辺は、時間ある時に、ブログにでも書こうと思っています(が、今は、教学の本をうつしてアップするのをしないとなので・・・時間ないのだ)。
信心。
信心があるから、辛い事があっても、生きていれます。
生きていくためのものでもあります。
ただ、今は、以前のわめさんとのやりとりがきっかけですが、学会の教義の変遷についても知りたいと思っていますので、信心があるから・・・というのがある反面、客観的に信心を見ている自分もいると思います。
でも、客観的に見てる自分もいますが、最後は信心にいきつく・・・かな。
もう、染み付いてるのもあります。
あと、曼荼羅ですが、同じものが自分の中の生命にもあるとされますので、唱題したり勤行する事で、曼荼羅と自分の中の生命が、感応するんです。
だから、勤行をするわけです。
色んな諸天の名前が、曼荼羅には載っています。
それと同じ作用をするものが、自分の生命にも含まれています。
例えば、薬の名の付く諸天なら、自分の中では、”治癒”の作用が引き出されます。
こんな風に説明すれば、分かりやすいでしょうか?
我見で申し訳ないですが。
他の学会員の方で、間違い箇所見つけた場合は、訂正よろしくお願いいたします。m(__)m
ちなみに、私自身は、名誉会長を曇りも無くは信じておりません。
すごい方だとも思いますが。
組織へも、私の中では、視点が二極化されています。
しずくちゃんのような信心の在り方では、日蓮から直接誤りを指摘されても、正しく改めることはできないでしょう。
日蓮「しずくちゃん、この仏法は理にかなって信じることが大切で、法門をもって邪正をただすべきですよ。」
しずくちゃん「え? でも私、功徳も感じ、諸天に何度も助けられていますから間違いないと思うし、御本尊は自分の命です!」
日蓮「でもね、それは体験とか目に見えない力とかを信じているからで、私はそのような信じ方はダメだって、ちゃんと利根と通力とによるべからずっていってるじゃないか。」
しずくちゃんA「でも、この信心が染み付いてますからもうダメです。改められません。」
しずくちゃんB「日蓮大聖人様が言われるのでしたら、改めます!」
Aは間違いを宗祖に指摘されても、自分を訂正できないわけですから盲信です。
Bは依法不依人(法によって人に依らざれと)に反しますし、この日蓮が、実は第六天の魔王が化けたものだとしたら、騙されたことになるでしょう。やはりこれも盲信です。
日蓮は、当時誤った宗教がはびこり、人々がそれを信じていることが不幸の根源であり、国も滅ぶと判断したわけです。
誤った信仰をする人を正すためには、理にかなった教え(当時としては理にかなった)で、体験とか不思議な力で人を惑わす教えを、破折し折伏されたわけです。
しずくちゃんの信じ方は、この「体験とか不思議な力で人を惑わす教え」を信じている方たちとまったく同じ姿勢であり、日蓮が破折された方たちと同じ信心のあり方ですよ。^^
そういうのとも違うんだな。w
私は一度、このまま信じていいのか、見直した時期あったので。
なので、それ↑とも違いますね。
実際今も、客観的に検証したいと思ってますし、そんな感じで見てもいますしね。
上のABではないというのかなあ。
うまく説明できない。w
あと、信仰というか、信じることを捨てた(でいいのかな)わめさんにとっては、全て上の上のような感じにうつるのではないのかな。
なんていったらいいんだろう。w
あと、ここのコメント欄でのレスは、出来る場合にと思っています。
今、自分のブログ&サイトだけでいっぱいいっぱいなので、ネットに時間を割いている状態でもあるので、負担にならない程度に気をつけたいと思っています。
あと、私は、打たれ強くはないですよ・・・。